114 伝説の生き物
初めは白い雲が見えたと思ってしまったほどに、一呼吸の間をおいて、それが巨大な口を持った頭部だと気付いた。
真っ白な毛が全身を覆い、太く不均等な牙はマルティアーゼの上半身を一口で噛みちぎってしまいそうだった。
広場を除き見るために首だけを木々の間から伸ばしてきていたその生き物は、霧を保護色に忍び寄るのが上手いのか、マルティアーゼに一切気付かれずにここまでやって来たのだった。
鼻を鳴らし辺りを見渡している生き物の目も白く、視力が弱いのか真下にいるマルティアーゼに気付いていなかった。
(これが……此処に来た人達を襲った生き物なの……)
これこそが竜であった、存在は骨だけでどのような生き物なのか憶測の域を出ない、誰にもその姿を間近で見せることもなく、見た者は生きて帰れない生き物、伝説の竜の姿だった。
背中に生えた羽は抜け落ちていて飛ぶ能力を失っているようであったが、足の鉤爪と大きな牙だけでも十分に獲物を捕える能力を有していそうである。
飛ぶというには余りにも巨体で、口先から長い尾の先までに比べて、羽は異様に小さく、そのせいなのか四肢の足が代わって異常に太く、拳ほどの爪が地面に食い込んでいた。
(どうすれば……、トム気付いて……目の前に危険が迫ってるのよ)
トムはまだ気付いておらずマルティアーゼが叫べば良いのだが、今ここでトムを呼べば、瞬時にこの生き物の牙によって絶命させられてしまいそうな息を呑む緊迫した状況だった。
背をかがめてゆっくりと杖を手にしながら、こちらに気付かれる前にこの場から離れようと少しづつ体を動かしていく。
いざという時は目の前で火球をぶつける覚悟を決めて、とにかく距離を取りたかった。
(はっ、はっ……)
鼓動で気付かれてしまうのではないかと思うぐらいに、マルティアーゼの心臓が激しく躍動していた。
(もう少し……、もう少しで木陰に身を隠せられる)
じりじりと足音を立てずに近くの大木まで歩いて行くが、そこで足元に落ちていた骨を踏んでしまった。
パキンと、乾いた音が広場に鳴り響く。
「あっ……」
瞬間、足元を見たマルティアーゼが頭上に振り向くと、竜の目がこちらを覗き見ていた。
大きく開いた口の中には無数の牙が上下に生えていて、長い舌からは涎が溢れ出ているのを見た時、体から得も言われぬ闘争本能が湧き出てきた。
それは防衛本能、何もかもかなぐり捨ててこの瞬間に、全ての意識を一点に集中しなければ助からないと感じた条件反射だった。
「トムゥゥゥ……」
と、同時に竜の口元へ火球を飛ばしていた。
叫び声は大きな爆発音にかき消され、静寂の広場が突如として戦場に変わった。
「何だ?」
体に伝わる衝撃にトムが振り返ると、巨大な竜とマルティアーゼが対峙している姿が目に映っていた。
「キィィィ……」
「あ……あれは!」
その驚愕も一瞬で、体は勝手に剣へと手を伸ばしてマルティアーゼの元へ走り出していた。
爆風で飛ばされて転がったマルティアーゼは直ぐ様起き上がると、続け様にもう一発火球を飛ばした。
竜の周りに炎が立って霧を消し去っていくと、広場に見通しのいい空間が露わになり、竜の全貌をはっきりと見ることが出来た。
炎を避けるように木々の間から広場へと出てきた竜は、二人の想像を絶するほどの巨体だった。
長さで言えば、トムが五人横になっても足りなく、もたげた頭の高さは三人は必要なぐらいだった。
体は全体に細く、長い首に四本脚、背中には羽が抜け落ちた翼をもたげ、所々薄汚れた白い羽毛で全身が覆われていた。
「これが竜みたいよ……」
「これが……竜」
巨大な蜥蜴と鳥を合わせたような生き物にトムは見惚れていた。
(なんて綺麗な……純白の怪鳥のようだ、こんな生物がこの島に生息していたなんて……、なんということだ)
「ケエェェェ」
バクンッ、首を伸ばして獲物を捕らえようとする竜の攻撃を、後ろに退いて避けるマルティアーゼを見てトムが我に返った。
「姫様!」
トムは剣を振って竜に牽制を掛けながら、マルティアーゼの側に寄って、
「逃げましょう、こんな怪物、相手に出来ませんよ」
剣を構えながらマルティアーゼに言った、しかし、
「駄目よ、骨をまだ集めてないわ」
「そんな事言ってる場合ですか、我々もあの様になってしまいますよ」
此処に来た目的を果たさないことには、何のために遠路はるばるやって来た意味がないとばかりに、マルティアーゼは骨を持ち帰る事を強調して言ってきた。
「貴方の集めた骨は?」
「一纏めにはしてありますが……」
マルティアーゼとトムは会話をしている間も、竜の攻撃から身を躱し、右に左に木に移って隠れては動き回り、撹乱させて狙いを定めさせないように移動を繰り返していた。
マルティアーゼがいくら火球をぶつけても炎は燃え移らずにすぐに消えてしまうが、それでも一心不乱に火球を投げ続けていく。
爆風だけは竜もたまらずに、体をのけぞって逃れようと体をくねらせ甲高い声を広場に飛ばしていた。
しかし、驚かせて竜の羽毛を焼くだけで、火傷すら付けられず決定打に欠けていた。
羽毛の下は鱗のように固い皮膚で火球の爆発ですらびくともせず、トムも襲われた際に剣で何度か斬りかかっていたが金属音と共に全て跳ね返されていた。
「なんて丈夫な体なの、これでは魔力が尽きるのが先だわ……」
こちらはいくら逃げ回っていても、一噛みされれば致命傷となりうる事は重々承知の上だったし、逃げているだけでも体力は消耗してしまう。
広場には幾つもの穴が空いて足場も悪くなってきて、走り回るのが難しくなってきた。
「トムいい? 私が攻撃したら骨を取りに行って頂戴……、いくわよ」
マルティアーゼは立ち止まり竜の足元に向けて火球を飛ばした、爆炎の上がった隙にトムが縄で縛り付けてあった骨を拾いに走りだした。
「拾いましたよ」
遠くからトムが叫ぶと、
「そのまま海へ走って!」
マルティアーゼはもう一発竜に向けて火球を飛ばすと、一気にトムの後を追って走り出す。
広がっていく炎が竜を焼き殺すかと思われたが、数歩下がり首を振っただけで炎は振り払われ、火を怖がっている様子もなく一声鳴くと、マルティアーゼ達を追いかけようと四本の足で地面を蹴った。
巨体にも関わらず軽やかに上体を落として、三本指の足で地面を抉るように土を巻き上げて足跡を残しながら向かってくる。
マルティアーゼが森に逃げ込もうと必死に走る後ろから、地響きを響かせて一気に差を詰めてきた。
跳ねるように一歩一歩がマルティアーゼ達の何歩分もの早さで、一瞬にして真後ろまで迫ってきた。
竜は大きな口を開けてマルティアーゼに噛み付こうと首を伸ばした時、大きな口から悲鳴のような声が上がる。