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異世界エンゲージ ~毎日のパック開封でカード使いは帰還を目指す~  作者: アトラス


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1/13

第1話 始まりの君へ

 受験まで、あと二か月。


 机の上には、赤本と書き込みだらけのノート。

 神崎陸翔はシャーペンを持ったまま、三分ほど同じ問題を見ていた。


 解けないわけじゃない。頭に入らないだけだ。


 視線が、自然と壁の時計に向く。

 午前十時を少し回ったところだった。


 ――昼までには戻る。


 まだ、そんな時間じゃない。そう思っても、胸の奥が落ち着かなかった。


 朝からずっと、妹の部屋の前で立ち止まったときのことが頭に残っている。


 トレーの上には、スープとトースト、それから小さく切った果物。

 父が持っていけば無言で返され、母が置いていけば手つかずのまま冷えるそれを、陸翔が持っていったときだけ、妹は少しだけ食べる。


「……入るぞ」


 返事はない。けれど、それでいい。

 控えめにドアを開けると、カーテンを半分閉めた薄暗い部屋の奥、ベッドの端に座った妹が肩を揺らした。


 陸翔にだけは、同じ空間にいることを許してくれる。

 父にも母にも、ほとんど心を開かない。学校にも、もう半年以上行っていない。


「置いとく。少しでいいから食えよ」


 トレーを机に置くと、妹はしばらく黙ったまま、膝の上で指先をもじもじと動かしていた。

 やがて、消え入りそうな声で言う。


「……お兄ちゃん」


「ん?」


「この前、話してたやつ……昔のカード。まだ、あるのかな」


 陸翔は一瞬、息を止めた。


 妹のほうから、何かを見たいと言ったのはいつぶりだっただろう。

 たぶん、思い出せないくらい久しぶりだった。


「ギャリモンか。どうだろうな。じいちゃん家の離れにしまった気がする」


「……あったら、見たい」


 それだけだった。

 けれど、そのたった一言が、今朝いちばんちゃんとした妹の言葉だった。


 ギャリット・マジック・モンスターカード。略してギャリモン。

 小さいころ、兄妹で飽きるほど遊んだカードゲームだ。勝てば妹は得意げに笑い、負ければ子どもみたいに頬を膨らませた。学校に行けなくなってからも、その話だけは、たまにしてくれた。


 カードの話をしているときだけ、少しだけ昔の顔に戻る。


「じゃあ、探してくるよ」


 妹が顔を上げる。ほんの少しだけ。

 その目に浮かんだ期待を見た瞬間、陸翔は迷わなかった。


「昼までには戻る。見つけたら持ってくる」


「……ほんと?」


「ああ。受験勉強の息抜きにもなるし」


 できるだけ軽く言ってみせる。

 すると妹は、うつむいたまま、それでも確かにうなずいた。


「……待ってる」


 その一言が、妙に胸に残った。


 自分はいずれ、受験を終えれば家を出る。

 そうなったとき、この子はどうなるのか。ずっと考えないふりをしてきたことが、今朝はやけにはっきりした輪郭を持って胸に刺さっていた。


 だからせめて、今日くらいは。

 昔のカードを持って帰って、少しでも笑わせたい。


 それだけでよかった。

 昼までには戻る――そう言ったのだから。


     ◇


 祖父の家までは、歩いて十分ほどだ。


 だが、玄関には鍵がかかっていた。インターホンを押しても返事はない。


「じいちゃん、留守かよ……」


 少し迷った末、陸翔は庭の奥にある離れへ向かった。

 昔の玩具や季節用品を放り込んでいた倉庫だ。ギャリモンのカードも、たしかあそこにまとめて入れたはずだった。


 古びた戸を開けると、湿った木の匂いと土埃が鼻をつく。

 積み上がった段ボールをかき分け、奥の棚を探る。汗ばんだ手の甲で額をぬぐった、そのときだった。


「……あった」


 見覚えのあるストレージボックスが、埃まみれのケースの陰から顔を出した。


 蓋を開く。

 反ったカード。色褪せたスリーブ。角の潰れたデッキケース。


 懐かしさが一気に込み上げる。

 妹が泣きそうな顔で「そのカードずるい」と言ったこと。

 陸翔が調子に乗って連勝し、母に「はいそこまで」と叱られたこと。

 あのころは、こうして一緒に笑えていた。


 この箱を持って帰れば、今日だけは少し、あの時間に戻れるかもしれない。


 そう思って手を伸ばした、その中に。


 一枚だけ、見覚えのないカードが混ざっていた。


「……なんだ、これ」


 黒とも銀ともつかない、妙な光沢を持つカードだった。

 絵柄は定まらない。門にも、瞳にも、翼にも見える。見ようとするたびに輪郭がずれる。


 カード名らしき箇所には、読めそうで読めない文字が刻まれていた。


【ヴィルコー■ イン・アイ●・アン※・ヴェ――】


「読めない……のに……」


 気味が悪い。

 なのに、どうしても目を逸らせない。


 やめろ、と頭のどこかが警告した。

 それでも指先は、何かに引かれるようにそのカードへ伸びた。


 触れた瞬間、ぞわりと背筋が粟立つ。


「っ――」


 視界が歪んだ。

 床が遠ざかる。耳鳴りが頭蓋の奥で反響する。胃の中身が持ち上がるような不快感。世界が裏返る。


 最後に脳裏をかすめたのは、異世界だの何だのではなかった。


 ――昼までには戻る。

 ――待ってる。


「まず……」


 い、で。


 言葉は最後まで形にならなかった。


     ◇


 石畳だった。


 煉瓦の壁。鼻を刺す獣臭と、酸っぱい生ごみの臭い。頭上には見慣れない空。路地を挟む建物の形も、日本のものではない。


「……は?」


 夢じゃない、と思った。

 頬をつねるより先に、喉の奥が乾く。


 空気が違う。音が違う。匂いが違う。

 それより何より、もうひとつ決定的に違うことがあった。


「……戻らないと」


 昼までに戻ると言った。

 妹は、待っている。


 ポケットを探る。スマホはない。時計もない。

 いま何時なのか、向こうで時間が流れているのかすらわからない。


「ふざけんなよ……」


 そのとき、目の前に青白い光が走った。


「うわっ!?」


 空中に、透明な板のようなものが浮かび上がる。

 デジタルスクリーンに似ていた。


【インベントリを開きました。

 あなた宛てに、以下のメッセージが来ています。

 よう□こそ

 歓●し※

 帰●たければ 集め※い

 soれを満たしタら 願い※

 あなたのこれからに幸あらんことを

 ――ヴぇ※※】


「帰りたければ……集めろ?」


 文字はところどころ壊れている。

 なのに、意味だけは妙にはっきり頭に入ってきた。


 帰りたければ。

 その言葉だけで、心臓が嫌な音を立てる。


「あるのかよ、帰る方法が……」


 だが、同時に怒りも湧いた。

 勝手に知らない場所へ飛ばしておいて、条件を満たしたら帰してやる?


「舐めるなよ」


 手の中の感触に気づく。

 いつの間にか握っていたのは、使い込まれたデッキケースだった。祖父の離れで見つけた、昔のものに似ている。


 叩きつけようと腕を振る。

 だがその瞬間、デッキケースは空気に溶けるみたいに消えた。


「……は?」


 次の瞬間には、また手の中に戻っている。

 放る。消える。意識すると戻る。


「インベントリ……って書いてあったな」


 呟くと、スクリーンがもう一段展開した。

 おそらく、呟くか念じたら出てくるのだろう。


 メニューが並ぶ。


 デッキ編集。

 カード一覧。

 カードパック開封。

 個人能力値。

 シナリオ進行度。

 そして、文字化けしたカウントダウンのような項目。


 まるでゲームそのものだ。


「帰還、転移、ログアウト……そういうのはないのかよ」


 ない。


 帰る方法は、いまのところ見当たらない。

 なら、使えるものを把握するしかない。何も知らないままこの路地裏に立っていれば、それこそ妹のところへ戻る前に野垂れ死ぬ。


 陸翔は息を整え、まずデッキ編集を開いた。


 昔覚えのあるカード名が並んでいる。


 ゴブゴブテイラー。

 一時休戦。

 やまびこの火の鳥。

 未開の探索者アソート。

 翼円のドラゴン――。


 合計三十枚。


 だが、最後の六コストだけが、はっきりと文字化けしていた。


【※舞 △※★ バル □□】


「……なんだよ、これ」


 カード一覧を開く。

 入っているのは、いまのデッキに登録されているものだけだった。予備カードも、倉庫にあったはずの大量のカードもない。


 次にカードパック開封。


【第一弾『始まりの物語』 1/1】


 一回だけ開けられるらしい。

 帰る方法に直結する保証はない。けれど、路地裏で何の戦力も持たずに突っ立っているよりはましだった。


「……使えるもの、増やすしかないか」


 指先が震える。

 それでも、陸翔はパックを押した。


 青白い光が弾け虹色が現れる。


【100ゴールド E】

【沼地のゲヘナ A】

【旅人の身分証セット(旅装束・仮身分証入り) B】

【能力値+5 A】

【言語の加護 S】


「カード以外も出るのかよ……」


 直後、頭の奥に冷たいものが流れ込んだ。

 意味のわからない言葉の束が、一瞬で整列していくような感覚。皮膚の内側を何かが走る。


 慌てて個人能力値を開く。


【神崎 陸翔】ランク1

【戦闘値 0/2/0】

【攻撃力 / 体力 / 魔力】

【筋力 2】

【俊敏 2】

【知力 5】

【幸運 10】

【余剰値 5】

【能力 言語の加護 適性無視】


「……本当にゲームじゃないか」


 余剰値を割り振れるらしい。

 戻す方法は見当たらない。迷った末、陸翔は魔力に三だけ振った。


 帰る方法はまだ不明。

 けれど、ここがそういう世界なら、何も持たないままよりはいい。


「下手に全部使うのはやめるか……」


 そう判断してスクリーンを閉じ、路地の出口へ向き直った、そのときだった。


「※△□!! よう、兄ちゃん。景気が良さそうじゃねえか」


 出口を塞ぐように、三人の男が立っていた。


 大男。中背。小男。

 服は薄汚れ、目だけが妙にぎらついている。


「※△□。きれいな服着てんなぁ。金持ってんだろ?」


「でげし!」


 一瞬、意味がわからなかった。

 だがすぐに、頭の中で言葉が自然につながる。


 ――言語の加護。


「な、何だよ……」


「何って、見りゃわかんだろ。恵んでもらいに来たんだよ」


「金がねぇなら、その服でもいい」


「でげし!」


 中背の男が剣の柄に手をかけ、いやらしく笑う。


「斬るなよ。布が傷んだら値が落ちる」


「へへ、わかってるって」


 次の瞬間、中男の右手が、どす黒い光をまとった。


「――っ!?」


「素直に出せばよかったな!」


 拳が腹にめり込む。


 息が、消えた。


 何が起きたのか理解する前に、内臓を握り潰されたような痛みが腹の奥で炸裂した。膝が勝手に折れる。石畳に手をつく。胃液が逆流しそうになる。


「が、……っ」


 視界の端に、赤い表示が走る。


【ダメージ -1】


 続いて、小さな戦闘表示。


【戦闘値 0/1/3】


 左から、攻撃力、体力、魔力。と表示されている。


「……は……?」


 体力が減った。

 それだけはわかる。

 そして、体力が0になったら死ぬのが本能的に分かった。


 その前に、中男が感心したように言った。


「へえ。今ので内臓が飛び出てもおかしくなかったが……頑丈だな!」


「もう一発いっとくか?」


「服は破るなよぉ」


「でげし!」


 痛みで動けない。呼吸が続かない。

 頭の中が真っ白になる。


 まずい。

 死ぬ。


 そう思った次に浮かんだのは、自分のことではなかった。


 帰れない。

 あの部屋に、何も言わないまま妹を残すことになる。


 昼までには戻ると言った。

 待ってる、とあいつは言った。


「……っ、ざけ……」


 こんなところで終われるか。


 そのときだった。


 手の中のデッキケースが、どくん、と脈打った。


「……え?」


 表面が黒く歪む。

 熱で溶けた鏡みたいに、ぐにゃりと波打つ。その裂け目から、黒い靄のようなものが滲み出した。


 耳鳴りがひどくなる。

 頭の奥で、何かが呼んでいた。


 六コストの、あの文字化けしたカード。


 あれが反応している。

 そう直感した瞬間――


「待て!!」


 凛とした声が、路地裏を切り裂いた。


 三人が一斉に振り向く。


「誰だ! ……って、げっ、警備兵!?」


「うそだろぉ!?」


「でげしっ!」


 路地の入口に立っていたのは、白い鎧の騎士だった。


 夕陽を弾く銀白の装甲。隙のない立ち姿。長い髪を翻し、迷いなくこちらを見据える眼差し。

 その姿を見た瞬間、陸翔は腹の痛みも忘れて息を呑んだ。


 見覚えがある。


 エランテル・リヒ・ベルミナ。


 ギャリモンの人気カード。味方を奮起させる3コスト支援型ユニット。イラストでは凛々しい女騎士だった。

 だが、現実の彼女は比べものにならない。美しいとか格好いいとか、そんな軽い言葉では足りなかった。鋭く、強く、こちらの呼吸まで正されるような圧がある。


「悪行を許すわけにはいかん。今すぐ去れ」


「っざけんな! 一人で何が――」


 言い終わる前に、勝負は終わっていた。


 一閃。


 振り上げられた短剣が根元から砕ける。

 中男の体が壁に叩きつけられ、大男は踏み込み一つで膝を割られ、小男は何が起きたかわからないまま地面を転がっていた。


「に、逃げるぞ!!」


「ひぃぃ!」


「でげしぃぃ!!」


 三人は這うようにして路地裏から消えた。


 静寂が戻る。


 気がつけば、デッキケースから溢れていた黒い靄も、いつの間にか内側へ吸い込まれるように消えていた。


 エランテルが陸翔の前に膝をつく。


「大丈夫か」


 大丈夫なわけがなかった。


 腹は痛い。怖い。情けない。

 助かった安堵と、死ぬかもしれなかった恐怖と、まだ帰れていない現実が一気に押し寄せて、視界が滲んだ。


「う……あ……ありが、と……」


「……泣くな。いや、泣くのは構わんが、ここでは立て」


 その言い方が少しだけ不器用で、余計に涙が出た。

 結局、泣きながら詰所まで連れて行かれた。


 ちなみに少し漏らした。


     ◇


 石造りの詰所で水を渡され、ようやく呼吸が落ち着いてきたころだった。


 それでも喉の渇きは消えない。

 時計がない。スマホもない。向こうで何時間経っているのかもわからない。


 剣を突きつけられるより、そのことのほうが怖かった。


「その服は目立つ」


 向かいに立つエランテルが言う。


「替えはあるか?」


 そこで陸翔は、パックから出たもののひとつを思い出した。

 インベントリを開くと、たしかに見慣れない項目が増えている。


【旅装束】


「これ、か……?」


 押した瞬間、淡い光が体を包んだ。

 制服が、粗末だが動きやすそうな服へと変わる。


 空気が凍った。


「――貴様、何をした」


 エランテルの剣が抜かれ、冷たい刃が首筋に添えられる。


「ひっ!? ち、違います! 俺もわからなくて、ただ押しただけで――」


「正直に話せ。お前は何者だ」


 ごまかしきれる雰囲気ではなかった。

 陸翔は息をのみ、祖父の家の離れで謎のカードを見つけたこと、気づけばこの世界にいたこと、デッキケースとスクリーンのこと、メッセージの内容、パック開封、能力値、襲われたときの表示まで、知っていることを一から全部話した。


 途中、自分でも何を言っているのかわからなくなった。

 だがエランテルは、一度も遮らずに最後まで聞いた。


「……なるほど。言っていることは何一つわからんが、シーカーだな」


「シーカー?」


「外から来た者だ。この世界の理から少し外れた力を持つことがある。稀に現れ、国に益をもたらした者もいれば、災厄を呼んだ者もいた」


 彼女は剣を収める。


「ゆえに、お前はこのまま王城へ連れていく。王に判断を仰ぐ」


「王城……」


 規模が大きすぎて実感が湧かない。

 だが陸翔の頭に浮かんだのは、王でも城でもなかった。


 薄暗い部屋。

 机の上で冷めていく昼食。

 そして、顔を上げて言った、あの一言。


 ――待ってる。


 いまごろ、妹は待っている。

 もし戻らなければ、また何も言わずに部屋の奥へ沈んでいくかもしれない。今日やっと、自分から見たいと言ってくれたのに。


 帰らなければならない。

 何があっても。


「その前に、拘束具をつける」


 エランテルが差し出したのは、黒い金属の首輪だった。


「ちょ、ちょっと待ってください。それ何ですか」


「緊急処置だ。逃亡防止用の魔導拘束具」


「嫌なんですけど!?」


「無理に逃げれば爆ぜる」


「最悪じゃないですか!?」


 だが、拒否権などあるはずもない。


 エランテルが手早く首輪を首に回す。

 かちり、と金具が閉じた――その瞬間だった。


 首筋が熱くなる。


「……っ?」


 ひびが走った。


 次の瞬間、乾いた破裂音とともに、首輪が内側から弾け飛ぶ。黒い破片が床へ散った。


 詰所の空気が、ぴたりと止まる。


「……え」


 陸翔自身、何が起きたのかわからない。

 ただ、手元のデッキケースが、また小さく脈打っていた。


 エランテルが一歩下がる。

 それは剣を抜く直前の距離ではなかった。警戒と、困惑と、はっきりした動揺が混ざった距離だった。


「魔導拘束具が……壊れた……?」


 彼女ほどの人物が、目に見えて動揺している。


 陸翔は唇を湿らせた。

 答えられるはずがない。自分だって知りたい。


 それでも、彼女の視線は鋭く陸翔を射抜いたままだった。


「お前は――」


 声が、わずかに震える。


「……ナンだ?」


 その問いに答えられる者は、まだ誰もいなかった。


挿絵(By みてみん)

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