第1話 始まりの君へ
受験まで、あと二か月。
机の上には、赤本と書き込みだらけのノート。
神崎陸翔はシャーペンを持ったまま、三分ほど同じ問題を見ていた。
解けないわけじゃない。頭に入らないだけだ。
視線が、自然と壁の時計に向く。
午前十時を少し回ったところだった。
――昼までには戻る。
まだ、そんな時間じゃない。そう思っても、胸の奥が落ち着かなかった。
朝からずっと、妹の部屋の前で立ち止まったときのことが頭に残っている。
トレーの上には、スープとトースト、それから小さく切った果物。
父が持っていけば無言で返され、母が置いていけば手つかずのまま冷えるそれを、陸翔が持っていったときだけ、妹は少しだけ食べる。
「……入るぞ」
返事はない。けれど、それでいい。
控えめにドアを開けると、カーテンを半分閉めた薄暗い部屋の奥、ベッドの端に座った妹が肩を揺らした。
陸翔にだけは、同じ空間にいることを許してくれる。
父にも母にも、ほとんど心を開かない。学校にも、もう半年以上行っていない。
「置いとく。少しでいいから食えよ」
トレーを机に置くと、妹はしばらく黙ったまま、膝の上で指先をもじもじと動かしていた。
やがて、消え入りそうな声で言う。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「この前、話してたやつ……昔のカード。まだ、あるのかな」
陸翔は一瞬、息を止めた。
妹のほうから、何かを見たいと言ったのはいつぶりだっただろう。
たぶん、思い出せないくらい久しぶりだった。
「ギャリモンか。どうだろうな。じいちゃん家の離れにしまった気がする」
「……あったら、見たい」
それだけだった。
けれど、そのたった一言が、今朝いちばんちゃんとした妹の言葉だった。
ギャリット・マジック・モンスターカード。略してギャリモン。
小さいころ、兄妹で飽きるほど遊んだカードゲームだ。勝てば妹は得意げに笑い、負ければ子どもみたいに頬を膨らませた。学校に行けなくなってからも、その話だけは、たまにしてくれた。
カードの話をしているときだけ、少しだけ昔の顔に戻る。
「じゃあ、探してくるよ」
妹が顔を上げる。ほんの少しだけ。
その目に浮かんだ期待を見た瞬間、陸翔は迷わなかった。
「昼までには戻る。見つけたら持ってくる」
「……ほんと?」
「ああ。受験勉強の息抜きにもなるし」
できるだけ軽く言ってみせる。
すると妹は、うつむいたまま、それでも確かにうなずいた。
「……待ってる」
その一言が、妙に胸に残った。
自分はいずれ、受験を終えれば家を出る。
そうなったとき、この子はどうなるのか。ずっと考えないふりをしてきたことが、今朝はやけにはっきりした輪郭を持って胸に刺さっていた。
だからせめて、今日くらいは。
昔のカードを持って帰って、少しでも笑わせたい。
それだけでよかった。
昼までには戻る――そう言ったのだから。
◇
祖父の家までは、歩いて十分ほどだ。
だが、玄関には鍵がかかっていた。インターホンを押しても返事はない。
「じいちゃん、留守かよ……」
少し迷った末、陸翔は庭の奥にある離れへ向かった。
昔の玩具や季節用品を放り込んでいた倉庫だ。ギャリモンのカードも、たしかあそこにまとめて入れたはずだった。
古びた戸を開けると、湿った木の匂いと土埃が鼻をつく。
積み上がった段ボールをかき分け、奥の棚を探る。汗ばんだ手の甲で額をぬぐった、そのときだった。
「……あった」
見覚えのあるストレージボックスが、埃まみれのケースの陰から顔を出した。
蓋を開く。
反ったカード。色褪せたスリーブ。角の潰れたデッキケース。
懐かしさが一気に込み上げる。
妹が泣きそうな顔で「そのカードずるい」と言ったこと。
陸翔が調子に乗って連勝し、母に「はいそこまで」と叱られたこと。
あのころは、こうして一緒に笑えていた。
この箱を持って帰れば、今日だけは少し、あの時間に戻れるかもしれない。
そう思って手を伸ばした、その中に。
一枚だけ、見覚えのないカードが混ざっていた。
「……なんだ、これ」
黒とも銀ともつかない、妙な光沢を持つカードだった。
絵柄は定まらない。門にも、瞳にも、翼にも見える。見ようとするたびに輪郭がずれる。
カード名らしき箇所には、読めそうで読めない文字が刻まれていた。
【ヴィルコー■ イン・アイ●・アン※・ヴェ――】
「読めない……のに……」
気味が悪い。
なのに、どうしても目を逸らせない。
やめろ、と頭のどこかが警告した。
それでも指先は、何かに引かれるようにそのカードへ伸びた。
触れた瞬間、ぞわりと背筋が粟立つ。
「っ――」
視界が歪んだ。
床が遠ざかる。耳鳴りが頭蓋の奥で反響する。胃の中身が持ち上がるような不快感。世界が裏返る。
最後に脳裏をかすめたのは、異世界だの何だのではなかった。
――昼までには戻る。
――待ってる。
「まず……」
い、で。
言葉は最後まで形にならなかった。
◇
石畳だった。
煉瓦の壁。鼻を刺す獣臭と、酸っぱい生ごみの臭い。頭上には見慣れない空。路地を挟む建物の形も、日本のものではない。
「……は?」
夢じゃない、と思った。
頬をつねるより先に、喉の奥が乾く。
空気が違う。音が違う。匂いが違う。
それより何より、もうひとつ決定的に違うことがあった。
「……戻らないと」
昼までに戻ると言った。
妹は、待っている。
ポケットを探る。スマホはない。時計もない。
いま何時なのか、向こうで時間が流れているのかすらわからない。
「ふざけんなよ……」
そのとき、目の前に青白い光が走った。
「うわっ!?」
空中に、透明な板のようなものが浮かび上がる。
デジタルスクリーンに似ていた。
【インベントリを開きました。
あなた宛てに、以下のメッセージが来ています。
よう□こそ
歓●し※
帰●たければ 集め※い
soれを満たしタら 願い※
あなたのこれからに幸あらんことを
――ヴぇ※※】
「帰りたければ……集めろ?」
文字はところどころ壊れている。
なのに、意味だけは妙にはっきり頭に入ってきた。
帰りたければ。
その言葉だけで、心臓が嫌な音を立てる。
「あるのかよ、帰る方法が……」
だが、同時に怒りも湧いた。
勝手に知らない場所へ飛ばしておいて、条件を満たしたら帰してやる?
「舐めるなよ」
手の中の感触に気づく。
いつの間にか握っていたのは、使い込まれたデッキケースだった。祖父の離れで見つけた、昔のものに似ている。
叩きつけようと腕を振る。
だがその瞬間、デッキケースは空気に溶けるみたいに消えた。
「……は?」
次の瞬間には、また手の中に戻っている。
放る。消える。意識すると戻る。
「インベントリ……って書いてあったな」
呟くと、スクリーンがもう一段展開した。
おそらく、呟くか念じたら出てくるのだろう。
メニューが並ぶ。
デッキ編集。
カード一覧。
カードパック開封。
個人能力値。
シナリオ進行度。
そして、文字化けしたカウントダウンのような項目。
まるでゲームそのものだ。
「帰還、転移、ログアウト……そういうのはないのかよ」
ない。
帰る方法は、いまのところ見当たらない。
なら、使えるものを把握するしかない。何も知らないままこの路地裏に立っていれば、それこそ妹のところへ戻る前に野垂れ死ぬ。
陸翔は息を整え、まずデッキ編集を開いた。
昔覚えのあるカード名が並んでいる。
ゴブゴブテイラー。
一時休戦。
やまびこの火の鳥。
未開の探索者アソート。
翼円のドラゴン――。
合計三十枚。
だが、最後の六コストだけが、はっきりと文字化けしていた。
【※舞 △※★ バル □□】
「……なんだよ、これ」
カード一覧を開く。
入っているのは、いまのデッキに登録されているものだけだった。予備カードも、倉庫にあったはずの大量のカードもない。
次にカードパック開封。
【第一弾『始まりの物語』 1/1】
一回だけ開けられるらしい。
帰る方法に直結する保証はない。けれど、路地裏で何の戦力も持たずに突っ立っているよりはましだった。
「……使えるもの、増やすしかないか」
指先が震える。
それでも、陸翔はパックを押した。
青白い光が弾け虹色が現れる。
【100ゴールド E】
【沼地のゲヘナ A】
【旅人の身分証セット(旅装束・仮身分証入り) B】
【能力値+5 A】
【言語の加護 S】
「カード以外も出るのかよ……」
直後、頭の奥に冷たいものが流れ込んだ。
意味のわからない言葉の束が、一瞬で整列していくような感覚。皮膚の内側を何かが走る。
慌てて個人能力値を開く。
【神崎 陸翔】ランク1
【戦闘値 0/2/0】
【攻撃力 / 体力 / 魔力】
【筋力 2】
【俊敏 2】
【知力 5】
【幸運 10】
【余剰値 5】
【能力 言語の加護 適性無視】
「……本当にゲームじゃないか」
余剰値を割り振れるらしい。
戻す方法は見当たらない。迷った末、陸翔は魔力に三だけ振った。
帰る方法はまだ不明。
けれど、ここがそういう世界なら、何も持たないままよりはいい。
「下手に全部使うのはやめるか……」
そう判断してスクリーンを閉じ、路地の出口へ向き直った、そのときだった。
「※△□!! よう、兄ちゃん。景気が良さそうじゃねえか」
出口を塞ぐように、三人の男が立っていた。
大男。中背。小男。
服は薄汚れ、目だけが妙にぎらついている。
「※△□。きれいな服着てんなぁ。金持ってんだろ?」
「でげし!」
一瞬、意味がわからなかった。
だがすぐに、頭の中で言葉が自然につながる。
――言語の加護。
「な、何だよ……」
「何って、見りゃわかんだろ。恵んでもらいに来たんだよ」
「金がねぇなら、その服でもいい」
「でげし!」
中背の男が剣の柄に手をかけ、いやらしく笑う。
「斬るなよ。布が傷んだら値が落ちる」
「へへ、わかってるって」
次の瞬間、中男の右手が、どす黒い光をまとった。
「――っ!?」
「素直に出せばよかったな!」
拳が腹にめり込む。
息が、消えた。
何が起きたのか理解する前に、内臓を握り潰されたような痛みが腹の奥で炸裂した。膝が勝手に折れる。石畳に手をつく。胃液が逆流しそうになる。
「が、……っ」
視界の端に、赤い表示が走る。
【ダメージ -1】
続いて、小さな戦闘表示。
【戦闘値 0/1/3】
左から、攻撃力、体力、魔力。と表示されている。
「……は……?」
体力が減った。
それだけはわかる。
そして、体力が0になったら死ぬのが本能的に分かった。
その前に、中男が感心したように言った。
「へえ。今ので内臓が飛び出てもおかしくなかったが……頑丈だな!」
「もう一発いっとくか?」
「服は破るなよぉ」
「でげし!」
痛みで動けない。呼吸が続かない。
頭の中が真っ白になる。
まずい。
死ぬ。
そう思った次に浮かんだのは、自分のことではなかった。
帰れない。
あの部屋に、何も言わないまま妹を残すことになる。
昼までには戻ると言った。
待ってる、とあいつは言った。
「……っ、ざけ……」
こんなところで終われるか。
そのときだった。
手の中のデッキケースが、どくん、と脈打った。
「……え?」
表面が黒く歪む。
熱で溶けた鏡みたいに、ぐにゃりと波打つ。その裂け目から、黒い靄のようなものが滲み出した。
耳鳴りがひどくなる。
頭の奥で、何かが呼んでいた。
六コストの、あの文字化けしたカード。
あれが反応している。
そう直感した瞬間――
「待て!!」
凛とした声が、路地裏を切り裂いた。
三人が一斉に振り向く。
「誰だ! ……って、げっ、警備兵!?」
「うそだろぉ!?」
「でげしっ!」
路地の入口に立っていたのは、白い鎧の騎士だった。
夕陽を弾く銀白の装甲。隙のない立ち姿。長い髪を翻し、迷いなくこちらを見据える眼差し。
その姿を見た瞬間、陸翔は腹の痛みも忘れて息を呑んだ。
見覚えがある。
エランテル・リヒ・ベルミナ。
ギャリモンの人気カード。味方を奮起させる3コスト支援型ユニット。イラストでは凛々しい女騎士だった。
だが、現実の彼女は比べものにならない。美しいとか格好いいとか、そんな軽い言葉では足りなかった。鋭く、強く、こちらの呼吸まで正されるような圧がある。
「悪行を許すわけにはいかん。今すぐ去れ」
「っざけんな! 一人で何が――」
言い終わる前に、勝負は終わっていた。
一閃。
振り上げられた短剣が根元から砕ける。
中男の体が壁に叩きつけられ、大男は踏み込み一つで膝を割られ、小男は何が起きたかわからないまま地面を転がっていた。
「に、逃げるぞ!!」
「ひぃぃ!」
「でげしぃぃ!!」
三人は這うようにして路地裏から消えた。
静寂が戻る。
気がつけば、デッキケースから溢れていた黒い靄も、いつの間にか内側へ吸い込まれるように消えていた。
エランテルが陸翔の前に膝をつく。
「大丈夫か」
大丈夫なわけがなかった。
腹は痛い。怖い。情けない。
助かった安堵と、死ぬかもしれなかった恐怖と、まだ帰れていない現実が一気に押し寄せて、視界が滲んだ。
「う……あ……ありが、と……」
「……泣くな。いや、泣くのは構わんが、ここでは立て」
その言い方が少しだけ不器用で、余計に涙が出た。
結局、泣きながら詰所まで連れて行かれた。
ちなみに少し漏らした。
◇
石造りの詰所で水を渡され、ようやく呼吸が落ち着いてきたころだった。
それでも喉の渇きは消えない。
時計がない。スマホもない。向こうで何時間経っているのかもわからない。
剣を突きつけられるより、そのことのほうが怖かった。
「その服は目立つ」
向かいに立つエランテルが言う。
「替えはあるか?」
そこで陸翔は、パックから出たもののひとつを思い出した。
インベントリを開くと、たしかに見慣れない項目が増えている。
【旅装束】
「これ、か……?」
押した瞬間、淡い光が体を包んだ。
制服が、粗末だが動きやすそうな服へと変わる。
空気が凍った。
「――貴様、何をした」
エランテルの剣が抜かれ、冷たい刃が首筋に添えられる。
「ひっ!? ち、違います! 俺もわからなくて、ただ押しただけで――」
「正直に話せ。お前は何者だ」
ごまかしきれる雰囲気ではなかった。
陸翔は息をのみ、祖父の家の離れで謎のカードを見つけたこと、気づけばこの世界にいたこと、デッキケースとスクリーンのこと、メッセージの内容、パック開封、能力値、襲われたときの表示まで、知っていることを一から全部話した。
途中、自分でも何を言っているのかわからなくなった。
だがエランテルは、一度も遮らずに最後まで聞いた。
「……なるほど。言っていることは何一つわからんが、シーカーだな」
「シーカー?」
「外から来た者だ。この世界の理から少し外れた力を持つことがある。稀に現れ、国に益をもたらした者もいれば、災厄を呼んだ者もいた」
彼女は剣を収める。
「ゆえに、お前はこのまま王城へ連れていく。王に判断を仰ぐ」
「王城……」
規模が大きすぎて実感が湧かない。
だが陸翔の頭に浮かんだのは、王でも城でもなかった。
薄暗い部屋。
机の上で冷めていく昼食。
そして、顔を上げて言った、あの一言。
――待ってる。
いまごろ、妹は待っている。
もし戻らなければ、また何も言わずに部屋の奥へ沈んでいくかもしれない。今日やっと、自分から見たいと言ってくれたのに。
帰らなければならない。
何があっても。
「その前に、拘束具をつける」
エランテルが差し出したのは、黒い金属の首輪だった。
「ちょ、ちょっと待ってください。それ何ですか」
「緊急処置だ。逃亡防止用の魔導拘束具」
「嫌なんですけど!?」
「無理に逃げれば爆ぜる」
「最悪じゃないですか!?」
だが、拒否権などあるはずもない。
エランテルが手早く首輪を首に回す。
かちり、と金具が閉じた――その瞬間だった。
首筋が熱くなる。
「……っ?」
ひびが走った。
次の瞬間、乾いた破裂音とともに、首輪が内側から弾け飛ぶ。黒い破片が床へ散った。
詰所の空気が、ぴたりと止まる。
「……え」
陸翔自身、何が起きたのかわからない。
ただ、手元のデッキケースが、また小さく脈打っていた。
エランテルが一歩下がる。
それは剣を抜く直前の距離ではなかった。警戒と、困惑と、はっきりした動揺が混ざった距離だった。
「魔導拘束具が……壊れた……?」
彼女ほどの人物が、目に見えて動揺している。
陸翔は唇を湿らせた。
答えられるはずがない。自分だって知りたい。
それでも、彼女の視線は鋭く陸翔を射抜いたままだった。
「お前は――」
声が、わずかに震える。
「……ナンだ?」
その問いに答えられる者は、まだ誰もいなかった。




