2−9
屋敷に帰ったあとはなにもやる気にならず、そのまま床についた。
しかし夜が更けてくるにしたがって急に悶々としだし、アルフレッドは夢遊病者のようにふらふらと工房に向かった。
嫌々ながら取り組みはじめたころには想像もできなかったが、今やチョコレート作りは錬金術の勉強や実験と同じくらい体に染みついている。そのせいで、誰に頼まれなくてもやってしまう趣味や習慣のようになっていた。
とくに今みたいに不毛な悩みが頭の隅にこびりつき、ろくに集中できないときはカカオと向きあうのが一番いい。なにせチョコレート作りの下準備は地味で根気のいる作業ばかりだ。うんざりするほど反復していれば、そのうち気分も晴れてくるだろう。
アルフレッドは椅子の前に麻袋を置き、ルヴィリア商工会から仕入れたばかりの豆を精選する。
現地で収穫されたあとに発酵と乾燥の作業を終わらせ、はるばる海を渡ってきたカカオ豆なる交易品は、当然のごとく輸送の過程で様々な異物が混入してしまう。
木片や石、糸くず、虫の死骸やカビの生えてしまった豆。
焙煎するときに燃えてしまうものも多いが、異物から発生する煙は風味を悪くなるし、なにより機械の故障に繋がりかねない。ゆえに目視による選別でひとつひとつ、取り除いていくわけである。
集中するとほかのものが見えなくなる。
学者や職人向きの性質ではあるが、軍人としてはあまり好まれたことではなかった。
狩りや訓練の最中に草葉の陰にいた珍しい蝶に気を取られ、父親にしこたま殴られたことが何度もある。
興味を持った対象に一直線で、それ以外のすべてをけろっと忘れてしまう。
たとえ自分にとって、重要なものであっても。
親友と仲違いしたことを、後悔していなかったわけではない。
工房から追いだされたときは腹が立ったし、あいつの顔なんて二度と見たくないとさえ思った。
しかしあとから振り返ってみると反省すべき点は多かったし、意地を張らずにもう一度話しあってみれば、お互いに譲歩しあえたかもしれない。寄宿学校時代に喧嘩をしたときは大抵そうやって仲直りしてきたのだから、自分の中で悪いと思ったところがあるのなら、関係修復のために努力するべきだった。
マエッセンのことを完全に忘れていたわけではない。
だが、その存在はすでに遠い過去のものになっていた。
今日、あいつが犯人と知るまでは。
忌々しい吸血鬼に振りまわされて。チョコレート作りをはじめて。究極の甘美にいたる探究にのめりこんで。
挑戦と失敗をくり返しながらすこしずつ歩を進めて。
ショコラティエとしても錬金術師としても功績を認められて。
周囲から賞賛されるような人間になれた――実に目まぐるしい変化だったが、旧友と連絡を取るくらいの時間はいくらでもあった。せめて頭の片隅にでも置いておけば、マエッセンの会社が傾きかけているくらいの情報は自然と入ってきたはずである。
同じルヴィリアという町にいて、そこで暮らしていたのだから。
カビの生えた豆を精選用の壺に放り投げ、ため息を吐く。
救いがたいことに積もりに積もった借金や家賃のツケだって返していない。
こっちの羽振りがよくなっているのは知っているだろうから取り立てに来てくれりゃよかったのに、あいつはあいつでプライドが高いから、それで自分の会社の業績が悪くなっていることを知られてしまうのが嫌だったのだろう。
案外いわくつきの呪符を送ってくるなんてしょーもない嫌がらせは、マエッセンなりのジェスチャーだったのかもしれない。
――お前は今そうやって調子に乗っていやがるが、オレはまだ許してないからな。
虫の死骸やガラス片を取りのぞきながら、アルフレッドは無意識のうちにこの問題の落としどころを探していた。自分は薄情かつクズで逆恨みされるだけの理由が山ほどあり、相手は事業の失敗により精神的に追い詰められていたわけだから、ケジメなんてつけずにこのまま手打ちにしてやってよいのではなかろうか。
吸血鬼は納得しないだろう。俺だって納得できない。
殺されかけた。
白黒はっきりさせずに終わらせるには、あまりにも重たい事実だ。
屋敷の門前まで足を運んだのだから、いっそあのまま勢いで鼻を突きあわせればよかったのだ。うっかりガキと鉢合わせて、夫人を介して居留守を使われ、そんで弱腰になって逃げ帰るだなんて――吸血鬼の言うとおり、実にらしくない。
結局、怖かったのだ。
友人ではなくなってしまったあいつを見るのが。
確かにあったはずの友情が粉々になって砕け散り、二度と戻らなくなるのが。
そこで、工房に誰かが入ってきたことに気づく。
足音が軽いから振り返って確認する必要もない。椅子に座ったまま、声をかける。
「ガキはさっさと寝ろ。明日の作業も早いんだからな」
「精選はオレの仕事だったはずだろ。なんで兄貴がやってんだよ」
ただの気晴らしだ。しかし返事をするのも億劫なので無視する。
おおかたクリムから昼間の話を聞いたのだろう。ドットはいっちょ前に心配そうな面をした。
やがて麻袋を押しのけて、アルフレッドの膝にちょこんと乗ろうとする。
さすがに蹴っ飛ばした。
ふざけやがって。どういうつもりだ馬鹿野郎。
「なんだよ! 慰めてやろうと思ったのに!」
「犬や猫じゃあるまいし、ちっとも可愛くねえんだよ」
「言ってくれるじゃん。じゃあこれならどうよ」
直後、ぼふんと煙があがる。
すると膝のうえに乗っていたのは、毛並みのふかふかとした小狼。
きれいな灰色で、玉のように丸っこく、ちまっこくて。
つぶらな瞳がうるうるとこちらを見つめている。
アルフレッドはしばし呆然としたあと、顔をしかめる。
「くっそあざといなお前。なんか余計にむかつくわ」
「さすがにひどくない!?」
つまんで壺にぶちこもうか迷ったが、結局そのままモフることにした。
なし崩し的にとはいえ小動物と戯れたがるとは、自分で思っている以上に弱っているらしい。
実家にいたころも嫌なことがあったときは、小屋で飼っていた猟犬と遊んだりしたものである。
ドットの毛並みは絨毯のように柔らかく、軽く触れただけで指が隠れるほどずっぽりと埋まってしまう。
ふかふかした感触の奥に子ども特有の体温が伝わり、アルフレッドはつい口もとをほころばせる。
「お前は友だちと喧嘩したあと、どうする?」
「とくになにもしないよ。時間が経てば仲直りするかもしれないし、ならなかったとしたら結局それまでの関係だったってことだろ。仲良くする相手なんてそのときそのときで変わるもんだし、一生の付きあいになるとしたら家族とか群れの仲間くらいだろ」
「ガキのくせにサバサバしてんな」
モフモフの塊は可愛らしい姿に似つかわしくないため息を吐く。
「兄貴は根っこのところがボンボンなんだよな。もしかしてだけど、オレがこの屋敷にくるときなんもなかったと思ってない? 群れのリーダーが親の仇のところに弟子入りするんだぞ。めちゃくちゃ揉めたに決まってるじゃん」
「そう……だったのか。確かに仲間からしてみればキレて当然かもな」
「だから反対するやつを全員ぶちのめして群れを抜けた。あいつらからするとオレは群れのリーダーから『裏切り者』になったわけさ。次にまた顔を合わせたときはどっちかが死ぬか諦めるかするまでやりあうことになるだろうな」
でも、と生意気なガキは続ける。
「オレは自分が間違っているとは思わない。一生の付きあいになるはずだった仲間を捨ててでもやりたいことがあったってだけさ。それにこの屋敷でスパイごっこをしてりゃケヴィンがみんなの生活を保証してくれるし。……おっと、口が滑った」
「お前が裏でコソコソやっているのは屋敷の全員が知っているから気にすんな。群れを抜けたあともリーダーの務めは果たすってか。クソガキのわりに殊勝な心がけじゃないか」
「ってもチョコレート作りを勉強するついでにだけどね。仲間に打ち明けたらそれはそれでブチ切れられるだろうし、オレにとっちゃいいことなんてなんもないよ。兄貴だって家族とうまくいってるわけじゃないんだろ? だったら納得してもらえないとか理解してもらえないなんてこと、いっぱい経験しながらやってきたはずじゃん。実家を飛びだしてきたときみたいに『諦め』られないとしたら、それはもう自分の中で答えが出てるってことでしょ。いいとか悪いとか、得するとかしないとかじゃなくてさ」
アルフレッドは素直に感心した。
悔しいが、ドットのほうがよっぽど大人の考えかたをしている。
「そうだな。人間関係にだって精選は必要だ」
カビが生えて使いものにならなくなっている可能性が高いとしても、一度は目視によって確認するべきだ。
殴りあいの喧嘩をしたあとで腹を抱えて笑いあえるかもしれないし、やっぱり眉間に鉛玉を撃ちこまなければケジメをつけられないかもしれない。
だとしても、せめて後悔のないように。
カカオを選別するのと同じくらいには、手間暇をかけておかなくては。
◇
精選を終えるとアルフレッドは自室に戻っていった。
ドットもちゃっかりあとをつけて部屋に入ろうとしたものの、すぐに首ねっこをつかまれて放りだされてしまった。狼のままならいけるかと思いきや、気難しい錬金術師様にはこの愛くるしい姿も通用しないらしい。
廊下でくるんと前転したあと、再び少年の姿に変化する。
ドットは群れの中でもっとも人間と狼の切り替えが素早く、だからこそリーダーに抜擢されていた。
どちらの形態も巧みに操れるというのは、両方の強みを最大限に発揮できるということでもあるからだ。
人間の知性と、獣の野性。
どちらか片方だけに依存せず、均衡を保つことで人狼は最強の戦士となる。
今はまだ未成熟で経験も不足しているが、大人になれば戦闘能力は歴戦の傭兵だった父親をゆうに超えるはずである。しかしドットはそれを承知してなお、才能があるかどうかもわからないチョコレート作りの道に進もうとしている。
「あんたも、兄貴が心配で見にきたのか?」
廊下の、暗がりの向こうに問いかける。
吸血鬼は燭台の狭間から浮かびあがるように現れた。
「声をかけるべきか迷っているうちに、先を越されてしまった。しかしアルフレッドの様子を見るかぎり、あの場は君のほうが適任だったかもしれない」
「そのわりに納得してなさそうだね、吸血鬼」
「嫉妬と呼ぶべきなのだろうか。この感情は」
シンはひとりごとのように問いかけてくる。
ドットが感じているのはそんな生優しいものではなかった。
息が詰まるほどの殺意。
対峙しているだけで膝ががくがくと震えて、立っているのもやっとだった。
だが、意地とプライドを支えにして平然と振る舞う。
チョコレート作りのために屋敷に滞在することになったものの、この男が親の仇である事実を忘れたわけではない。復讐心を燃やすほどはないとはいえ、殺せるものなら殺したいと思うくらいには敵意を抱いている。
「ひとついいかな? アルフレッドはなぜ、あの男を殺さなかったのだ」
「チョコレートにしか興味のないあんたにゃわからないだろうさ」
「かもしれない。だが、私は……」
吸血鬼の目が妖しく光る。
ようやく相手が見せてきた、ありのままの感情。
「アルフレッドにも、そうなってほしいと願っている」
ドットは糸が切れたように膝から崩れ落ち、恐ろしい化け物の顔を見あげた。
この男が嫉妬しているのは、ドットだけではない。
マエッセンも――いや、それ以外のすべても。
「この世で唯一『価値』あるものはチョコレートだ。しかしあの男はマエッセン・ノイマンなどという人間ごときに心を乱されている。なぜだ? まったくもって理解できない。アルはなぜ私だけを見てくれない。私のためだけに生きてくれないのだ。美味しいチョコレートを作ることこそが、私とふたりで決めた血の誓いだというのに。もっともっと、そうしてほしいと願っているのに」
じっとりとした湿り気が床に広がるころには、シンの姿はあとかたもなく消えていた。親の仇の前で無様に粗相してしまったことの屈辱よりも、ドットの心を占めていたのは意地の悪い優越感だった。
ケヴィンが前に言っていた。
吸血鬼の王にはチョコレート以外にも致命的な弱点があると。
それがなんであるか、ようやくわかった。
ざまあみやがれ。あんたはとことん歪んでいて、だから兄貴の気持ちなんて一生かけてもわかりっこない。たとえ永劫に近い命が、あったとしてもだ。
それでもきっと、欲しがるんだろうな。
甘美よりも恐ろしい遅効性の毒が、じわじわとその身を蝕んでいくとしても。




