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⒑ 呪われし存在

「カナンって銀の剣に封印されたんじゃなかったの?」

 話の矛盾にカデンツァは堪らず尋ねた。火事が起こる前に聞いた昔話では、たしかにジョシュアは『カナンを銀の剣に封印した』と説明していた。そのせいで銀に血が触れると毒になる呪いが掛かったのだと。

「ええ。ついでに言えば血の輪の結界も掛けてね」

「じゃあなんで——」

「今から二千周季程前、カナンを封じた[幽閉の山脈]が噴火したの」

 疑問に満ちた彼の声を遮った彼女は、平たく告げた。

「その頃、ちょうど地球ではポンペイという地で大規模な噴火による災害が起きたらしいから、きっとそれが影響してのことね。噴火によって地面が隆起したことで、血の輪も割れてしまって結界としての効力を失ったのよ。銀の剣は噴火物(ふんかぶつ)と共に宙を舞い、噴石(ふんせき)と共に降ってきた——唐突な噴火から逃げていたデュエルに向かって。それを(かば)ったルアンが銀の剣に背を貫かれて倒れたの」

 彼女の話にカデンツァはぎょっとして息を呑み込んだ。

ジョシュアは言っていた。「銀は一滴の血に触れるだけで溶けて猛毒と化す」と。一滴の血で猛毒となるなら、身体に刺さったとしたら命に関わる重症になるはず。しかし銀の毒の話をしている間、ルアンは平然としていた。銀の剣が刺さったなど、辛い過去があるようには到底感じられなかった。

「待ってよ、それじゃルアンは——」

「そのままだと当然、死んでしまうわ」

 カデンツァの言葉の先にあった意図を汲みとってジェシカは話を続けた。

「けれどその剣を抜いてしまったら、封印が解かれてカナンが解放される。カナンは実態を伴わず、生命体に憑依する妖魔だから、剣を抜いてカナンの封印を解くと、剣を抜いた者の身体にカナンが取り憑いてしまうの。カナンを封印したデュエルとシュエルはその剣を抜くことの危険性を重々承知していた」

 彼女は顔を上げると、彼を見遣った。

「カデンツァだったらどうする? ティアサーの背に銀の剣が刺さってしまって、放っておいたら死んでしまう。けど抜いたらカナンに取り憑かれてしまう。どっちを選ぶ?」

「俺は——」

 カデンツァはほとんど考えないで答えた。彼にとって迷う問題ではなかったから。

「ティアサーを助ける。取り憑かれることになったとしても、ティアサーが正気に戻してくれるから」

 キラキラと煌めく真っ直ぐな瞳で。彼は柔和な笑みを広げた。彼の返答を聞いて彼女は力が抜けたようにふっと笑った。

「気持ちは分かるわ。デュエルも実際にそうしたの。ルアンの背にその剣が刺さっていることに気づいてすぐ、デュエルはシュエルに自分を殺すように頼んで剣を抜いたのよ。おかげでルアンの体内に入った毒はすぐに除去することができて、一命を取り留めたの。その代わりにカナンに憑りつかれてしまったデュエルは、十数周季の間、意識を失ったままだった」

 悲しむように目を細めた彼女はそのまま瞼を閉じた。彼女の唇はキュッと結ばれる。肩は大きく上下して、彼女の深い溜息を顕著に表した。

「でもね」

 再び開いた彼女の口から溢れた声は震えていた。

「正しさで言えば、それは誤ったことよ。封印するのがやっとだった妖魔を解放してしまったんだから。カナンによる被害を考えるとルアン一人の犠牲で済むなら、そのままその地で血の輪の結界を施すべきだったの」

「それは違うよ」

 一蹴(いっしゅう)した穏やかな声に彼女は瞼を開いた。彼女の向かいでカデンツァはニコッと微笑む。

「俺はティアサーを信じてるんだ。力があるとかないとか関係なく。あいつなら何とか出来るって。もちろん俺もカナンに負けるつもりはないし、取り憑かれたとしても死ぬまで抗うよ。でももしどうにもならなかったその時には、あいつが俺を呼んで醒ましてくれる。そう信じてる。だからデュエルもシュエルに託したんじゃないかな?」

 ジェシカの口がぽかりと小さく開いた。大きく開いた目はまじまじとカデンツァを見つめる。

「だって目の前にいる大切な相手も助けられないんじゃ、俺たちは何のために生きるっていうの? 妖魔を倒すことが俺たちの存在意義だとしても、それ以前に仲間を助けることが大事でしょう?」

 彼の言葉に瞬きをしたジェシカは、ふわりと儚い笑みを浮かべた。

「そのまっすぐさ、失くさないでね」

 手をのばしてカデンツァの頭をくしゃくしゃと撫でる。暗がりの部屋の中で彼の亜麻色の髪が煌めいた。

「なんでみんな俺の頭をそうやって撫でるの?」

「かわいいからじゃない? 少なくとも好意的に思ってるのよ」

「それじゃ君も?」

 悪戯っぽくカデンツァは尋ねる。彼の髪から手を離した彼女は、ぐるりと大きく目を回した。

「さあ、どうだろ」

 わざとらしい彼女の仕草にカデンツァはクスッと笑った。

「それで、デュエルは十数周季意識を失ってたって言ってたけど」

 話を元に戻すと、彼は再び真剣な声になって尋ねる。

「その後デュエルはどうなったの?」

 ふくみ笑いを浮かべていたジェシカは、その顔からスッと笑みを消した。

禁忌(きんき)(てん)(しゅ)って聞いたことある?」

「ないと思う」

「じゃあ精霊の能力が返還されたっていう話は?」

 カデンツァは少しの間考えた。随分前な気がするが、朝にジョシュアから聞いたヴェルスヴィーナ誕生の話の後、ルアンが言っていたことを。

「そういえば、ヴェルスヴィーナに返還されたって聞いた」

 呟くように応じた彼は、ハッとして彼女を見た。

「もしかして、それが禁忌の天珠?」

 彼の返答に応じる代わりに彼女は頷いた。

「噴火が起きる数百周季も前に空から降ってきたらしいの。[朝の煌めき]に面した[後悔の海崖]にね。その天珠から感じられた力が精霊のものに似た感覚を覚えたシュエルとデュエルは、彼らの能力が何らかの理由があってこの地に返還されたんだと考えて、朝の陽光だけが指し示す場所にそれを隠したのよ。もし天から降ってきたその天珠が本当に精霊に与えられていた能力だった場合、神からこの世界を任された訳でもないのに能力を得れば、天罰がくだるだろうってことで『禁忌の天珠』って呼んだの」

「それじゃまさか——」

 バラバラだったピースが突然つなぎ合わさる。そんな感覚を彼は憶えた。たしかにルアンとジョシュアは言っていた。クライス家とベクレル家が持つそれぞれの能力は、かつて精霊が持っていた能力であると。

「それが呪いの、能力の原因? 禁忌の天珠を使ってしまったことが⁉」

「使いたかったわけじゃないの。むしろ彼らは(まも)ろうとしていたのよ、カナンの手から」

 カデンツァの疑問を止めるようにジェシカは彼らを擁護すると、肩を大きく上下させた。

「結果は同じになってしまったけどね」

「禁忌を犯したから呪いが掛かったってことだよね」

「正確には能力と一緒に時の呪いを受けたの。具体的に言うと……そうねぇ」

 言葉を探すようにクルクルと視線を動かしながら、彼女は話の先を紡いだ。

「生あるものには全て寿命があるの、どんな生物にもね。ただ、妖魔と妖精だけは意志から生まれた存在だから、例外的に寿命という概念が存在しないのよ。絶命する程の損傷を負わない限り、不滅なの。時の呪いは、本来は存在しない寿命を付与されるものなの」

「そう言えば、ジョシュアが自分の髪色が黒っぽいのは歳とったせいだって言ってた」

 カデンツァはふと思い出して呟いた。

「寿命と共に色づいたって」

「呪いを受けた者は髪と瞳の色を失うの。ベクレル家は雪花(アラバ)石膏(スター)、透明度の高い白に。クライス家は(にび)色、黒に近い灰色にね。その髪色が余命を表していて、短くなるに連れて色が反転していくのよ。ベクレル家は薄墨(うすずみ)色、黒っぽい色に。クライス家は白亜(はくあ)色、真白に変わっていくの。だから誕生したばかりのティアサーの髪は全て雪花(アラバ)石膏(スター)で、ジョシュアはほとんどが薄墨(うすずみ)色なのよ」

「寿命ってどれくらいなの?」

「本来は四千周季、生物にしては長いわね」

 ただ、と伏目がちになった彼女は溜息混じりに続けた。

「絶命するほどの損傷を受けると、呪われし者たちは死す代わりに瀕死の状態になって体力が回復するまで寝込むの。代償として、余命が半分になるのよ。四千周季が二千周季に、二千周季が千周季、千周季が五百周季って具合にね。ジョシュもルアンもルエナも一度は瀕死状態になってるから、みんな残り二千周季。呪いを付与されたのが大体二千周季前だから——」

「じゃあ、あと少ししか時間がないってこと?」

 驚きに声を上げたカデンツァにジェシカは頷いた。

「あと数十周季ってとこかな。だからジョシュアもルアンも焦ってるのよ、カナンを倒すのに時間がないって」

 告げられた時間の短さに大きく目を見開いたカデンツァは、合点がいったように小さく頷いた。

『ルアンのあの態度は、その焦りのせいだったんだ。残された時間でデュエルを助けたいって、ただそれだけで』

 彼は深く嘆息(たんそく)を吐いた。ルアンの言動全て、ジョシュアの言う〝事情〟がようやく分かって。

「なんだか悲しいね。元々ルアンはデュエルを助けただけで、デュエルもルアンを助けたかっただけなのに」

「まあ、デュエルは覚悟して剣を抜いたんだと思うけど」

 ジェシカは足元に視線を落とした。

「あの二人、想い合っていたらしいし、デュエルが自分を助けるために取り憑かれたって知って、ルアンは相当ショックだったんだと思う。この件についてルアンは決して話さないから」

 カデンツァは頷いた。ジェシカから訊かれて自分も「取り憑かれたとしても助ける」と答えたが、逆の立場を考えると辛いものに思えた。

「禁忌の天珠を守り切れなくて、ルエナ、は会ったことないけど、ジョシュアとルアンは呪われた」

 確認するように呟いた彼は彼女を見遣った。

「シュエルも?」

「ええ。それにデュエルも」

 ようやく視線を上げた彼女の瞳は再び彼を見つめた。

「禁忌の天珠が(あば)かれた時、任務で出ていたクアロテとエルマイア、エレンの三人は呪われずに済んだ。エレンに地球での出来事を聞くことができる能力が付与されたのは、その後のことよ。呪いを受けたわけでも、精霊の能力にあったものでもなかったから、あなたと同じように彼女の能力は〝御神の祝福〟だと言われたわ。そしてその能力を存分に活用するために任務担当から外れて、エレンは魔法使いの妖精の指揮官、ヴェルスヴィーナの女王として君臨(くんりん)することになった」

「え? じゃあエレガノ女王って——」

「元々は魔法使いの妖精よ。当時の名残でジョシュやルアンは女王のことをエレンって愛称の方で呼ぶの」

 ジェシカの話にカデンツァは驚きながらも納得して頷いた。彼女に対する彼ら二人の態度が〝女王〟に対するというより、仲間に対するものに近い感覚だったことがようやく分かった気がした。

「精霊の能力としてジョシュには思考(テレ)聴力(パシス)、ルアンには浄化(クリア)能力(ラス)、シュエルには呪術(カー)能力(サス)、ルエナには(ウェ)(ザラ)能力(ライズ)が与えられ、カナン——デュエルには五感(センサ)操作(ライズ)が与えられた。けど、精霊の能力はまだ未来(フロ)可視(ティアス)過去(フェガ)可視(ンハイト)の二つが残っている。今後新たに誕生しうる魔法使いの妖精がその呪いを受けない保証はないし、その呪いがどこに降り掛かるかも分からない。そこで、シュエルは魔法使いの妖精を呪いを免れたクロアテとエルマイア、呪われた五人の二つに分けて、今後生まれるであろう呪いを穿(うが)たれることのない魔法使いの妖精を確保することにした。それがウィルソン家の始まりよ」

「最初からウィルソンとクライスとベクレルって別になってたわけじゃなかったんだ」

 驚きに両方の眉を上げたカデンツァに、ジェシカは同調した。

「呪いを受けた後も何度かシュエル達はカナンと戦ったけれど、どうやっても倒せなかった。最後の手段としてシュエルはVを計画したの。ルアンの浄化(クリア)能力(ラス)、シュエルの呪術(カー)能力(サス)、ジョシュアの思考(テレパ)聴力(シス)、ルエナの(ウェ)(ザラ)能力(イズ)。その全てを有する存在であるVがベクレル家に誕生するようにシュエルは自らの能力を使って呪った」

 彼女は溜息を漏らすと肩をすくめた。

「でもそれは同時にシュエル自身の命を削ることでもあった。魔法使いの妖精をウィルソン家やクライス家に分けることは、仕組みを組み替えるように調整すれば良かったから、問題なかったんだけど。強力な能力者を造るような行為は呪い以外にできなくて」

「呪ったことで寿命が短くなったってこと?」

 確認するように尋ねた彼の彼女は頷いた。

「Vの誕生と禁忌の天珠による呪いを受ける妖精が別で存在するようにウィルソン以外の妖精をさらにベクレルとクライスの二つに分けたの。シュエルとデュエルが双精、ルアンとルエナが双精だったから、シュエルとデュエルがベクレル家、ルアンとルエナがクライス家に、ジョシュアはシュエルの死後、Vを導くためにベクレル家になった」

 彼女は言葉を区切ると、息を吐いた。

「あたしが話せる昔話はここまでよ」

 締め括ったジェシカにカデンツァは感謝を込めて頷いた。彼女は立ち上がると、台に置いていた杯を手に取った。

「あたしはそろそろ部屋に戻るけど、どうする? まだどこか具合が悪かったら、そのままここで寝ても平気だけど」

「もう何ともないし、俺も戻るよ」

 彼は答えると寝台から足を下ろした。

「一つだけ訊いてもいい?」

「なに?」

「カナンって、今はどこにいるの?」

 屈んで履物の紐を結びながら、彼は見上げるように彼女を見た。ジェシカは静かに首を横に振った。

「さぁ。地球のどこか、としか言えないわ。いつの時代のどこなのかは分からないの」

「誰にも?」

「ええ。でもきっとジョシュアとルアンが探してるんでしょうね。二人で任務に行く時は任務完了後もしばらく地球にいるから」

 ふぅん、と溢した彼は立ち上がり、先に戸口に立っていたジェシカの元へ歩んだ。

 療養棟を出た二人は、様々な妖精の(ホルス)で囲まれたホームの中を魔法使いの妖精の(ホルス)まで飛んだ。もうすっかり夜はふけて、空で星が瞬いている。彼らの他に妖精の姿はなく、寝静まった後だった。

「おなか減ってない?」

「減って——」

 ぐぎゅるぎゅる

鳴った音に顔を赤らめたカデンツァに対して、ジェシカはケラケラと笑った。

「そりゃそっか。食事処(アパティラー)で何か食べよ」

 二人はホームの中央へと下降した。きのこの群生地である食事処(アパティラー)は、小さな暖色色の光が灯っていて、賑やかで活気ある昼間とは異なり、落ち着きと幻想的な魅力があった。収穫されている果実を取った彼らは適当なサイズのきのこの上に並んで腰掛けた。

「それでカデンツァは誕生してどれくらいなの?」

「三陽日目だよ」

 アーモンドを(かじ)ろうと口を開けたジェシカは、ぐるりと大きく目を回した。

「まだそれだけしか経ってないのにあんなに能力を使えるの?」

「あんなにって、ただ変形させてるだけだよ」

 齧ったブルーベリーの青い汁が滴って、カデンツァは手の甲でそれを拭った。

「魔法はまだ全然さ。呪文が聞き取れるのも限られてるし、魔法(タンテ)試験(クスト)で使えた魔法もまぐれみたいな感じだったから」

「最初の魔法(タンテ)試験(クスト)はそれでいいのよ。根本の魔力と対応力を試すようなもので、試験を受けるまでは魔法の使い方を教えることも禁止されてるくらいなんだし」

「でも俺がちゃんと使える魔法、これくらいなんだぜ?」

 カデンツァは冗談混じりに言うと、パチンと指を鳴らした。灯った小さな炎に二人は笑った。

「ジェシカはどうやって、あんなにいっぱい魔法を使えるようになったの?」

 笑い声が止むと、真っ直ぐな眼差しで彼は彼女を見た。彼女はすっとその目を手に持ったアーモンドに向けると、何も言わずに頬張る。口に含んだアーモンドを食べ終えてようやく、彼女は懐かしむように口元を広げた。

「方法なんて覚えてないわ、がむしゃらだっただけで」

 彼女は彼を横目で見ると、少し考えるように視線を空に投げた。

「エレメント系統の魔法は他の妖精に教わるのが早いかな。水魔法なら水の妖精にとか」

「そう言えば、シュエルははじめに魔法と妖精を分野毎に分けたって話だもんね」

 ジョシュアによる昔話を思い出しながら、カデンツァは木いちごを手に取った。ぷっくりとした凹凸のある果実は彼の口内に酸味を伴った柔らかな甘さをもたらす。美味しさに表情が綻んだ彼は、再び果実にかぶりついた。

「そうだ」

 何かを思いついたように声を溢した彼女は、半分まで欠けたアーモンドを片手に彼を見遣った。

「未陽日、ちょうど他の妖精を手伝う約束をしてるの。手も足りてないって言うし、良ければあなたも来ない? 魔法の使い方を教わる良い機会だと思うの」

 思わぬ誘いにパチクリと瞬きをした彼の瞳がキラキラと輝いた。

「本当?」

「ええ。ティアサーも誘ってみて、彼にも良い経験になるはずよ」

 彼は大きく頷くと、残った木いちごを頬張った。口の中で解ける甘酸っぱさは、余計に美味しく感じられた。

「それじゃ、夜明けにここで」

 魔法使いの妖精の(ホルス)に入ってすぐの広間。どこまでも続く吹き抜けとなったその空間には、砕かれたガラスに光のオーブが宿って宙を流れるように浮遊している。響き渡ることのないように声を潜めたジェシカは、カデンツァの肩をパンと叩いた。

「遅れないでよ?」

「もちろん」

 彼はわざとらしく眉を上下させて口元を広げた。彼女は笑ってその肩をもう一度叩くと、高く舞い上がり枝分かれした先の通路へと飛び去った。

 カデンツァはジェシカが向かった方向とは反対側——ベクレル家へと続く通路を進んだ。しばらく通路を進んだ左側に半月を描いた模様が掘り込まれた扉があった。その向かいに面するようにあった三日月が刻まれた扉。ジョシュアによると、ここがシュエルの部屋だった。カデンツァはふと立ち止まると、その扉のノブに手を掛けた。滑らかな曲線を描いた取手は軽く掛かった彼の掌に馴染む。ノブが傾いて扉がガチャリと音を立てた。彼の目は驚きに大きく見開いたものの、ノブに掛けた手はぐっと(こら)えるように傾いたままだった。

『亡くなった後だけど、さすがに他人(ひと)の部屋に勝手に入るのは悪いか』

 彼はそのままノブを離すと、好奇心に後ろ髪を引かれながらもその場を後にした。しばらく通路を進み、円形の模様が刻まれた部屋を通り過ぎて幾分か歩いた先にある最初とは反対向きの半月の扉。カデンツァは自分の部屋に入る手前で立ち止まり、向かいにあるシュエルの扉とは反対向きの三日月の扉を叩いた。

『もう寝てるのかな』

カデンツァは再び扉を叩いたものの、ティアサーの部屋から反応はなかった。仕方なく彼は自分の部屋へと向き直ると、その扉を開いた。通路からの光が真っ暗な部屋の中に入り込み、彼の部屋を照らし出す。直線的な構成だったティアサーの部屋とは異なり、彼の部屋は緩やかな流線形を描いていた。湾曲した壁面に丸みを帯びた寝台。陽入戸はティアサーの部屋の四角い小さな物とは正反対で、腰を掛けられる程大きな真円状にくり抜かれている。上掛を脱いで寝台に放った彼は、両腕をうんと伸ばして大きな欠伸をした。

 トントントン

不意に鳴った軽い音。その音に振り向いた彼は、叩かれた陽入戸を開けた。

「カデンツァ!」

 陽入戸の向こうにいたのはティアサーだった。ティアサーはすっかり寝たものだと思っていたカデンツァは、予想外の出来事に瞬きをしたものの、すぐに笑みを浮かべた。兄の様子を見てティアサーもホッと息を吐くと、微笑みに表情を緩ませた。

「良かった、本当に無事で」

「それを言うのは俺の方だよ」

 ティアサーはへへッと笑うと、カーブを描いた陽入戸の縁に腰掛けた。月明かりに照らされた雪花(アラバ)石膏(スター)の彼の髪が白く煌めいて、カデンツァの顔に浮かんでいた安堵の笑みがふっと消える。彼は自分の表情を隠すように湾曲した壁にもたれた。

「それでお前、自分がVだってどうして分かったんだ?」

 大きく伸びをしていたティアサーは、兄からの問いに力が抜けたようにふっと笑った。

「聞いたの?」

「ジェシカからな」

「Vについても?」

「ああ」

「そっか」

 陽入戸から入る月明かりがティアサーの影を部屋の中に落とす。陽入戸の円形がフレームのように囲い、さながら切り絵のように彼は(たたず)んでいた。

「これは兄さんが療養棟に運ばれた後で分かったことなんだけど。銀の呪いを教えてもらうのに僕の血を使ったでしょ?」

「ああ」

「火事が起きたのはちょうどそのタイミング。どうやら僕の血に宿る魔力に反応して、あの火事が起きたみたいなんだ」

「え? じゃああの火事が起きたのって——」

「ま、ある意味僕のせい?」

 悪戯っぽく返したティアサーの声は、その軽やかさを消して真剣な声色に変わった。

「火事の中で色んな幻が見えて聞こえた。全て過去に起きた出来事だと思う。どれもあまりにも報われない悲しい出来事だった」

 さっきまでの明るさが消えた彼の声は震えていた。切り絵の中で彼の顔がぷいと横へ動く。これまでの弟には見られなかったその様子に、カデンツァは気になって壁際から離れて彼の横に並んだ。それでもそっぽを向いたティアサーの顔は見ることができなかった。代わりに見えた縮こまって丸まった彼の肩は、ゆっくりと膨らみ、そっと萎んでいく。

「幻が消えて、シュエルの声が。Vの誕生を願う呪いの言葉が聞こえた。その瞬間に……何ていうか、力が湧き上がる感じがしたんだ。目が醒めたような感覚というか、知らない間に制御されていた力が解放された感じというか」

 寝返りを打つように振り向いた彼は、微笑を湛えていた。カデンツァにはそれがどこか儚い笑みに見えた。

「僕はね。自分がVになれて良かったと思ってるよ。自分だけ何もない、役立たずな存在だって感じてたから」

「そんなこと——」

『——————ない』

 否定の言葉をカデンツァはぐっと飲み込んだ。喉につかえた最後の二文字が喉を引っ掻くような感覚に耐えて。彼は口をつぐんだ。他の誰でもない、ティアサーが首を横に振ったから。

「気持ちは嬉しいよ。兄さんのその優しさがね。でも実際、僕は無力なんだって、あの火事で思い知らされたよ」

 喉につかえていた言葉が。心の中で叫ばれていた声が。抗うことなく灰のようにぼろほろと消えた。カデンツァは口を開けたまま。青磁色の瞳は大きく揺らいだ。

『水魔法に光魔法に氷魔法。誕生して同じ時間が経って、ティアサーは俺よりもたくさん魔法が使えるし、俺よりもずっと賢いのに。なのに……』

「無力だって……?」

「ああそうさ。無力だよ。大して魔法が使えるわけでも、能力があるわけでもなかった僕は」

 ティアサーは空を仰ぐように天井を見つめた。

「だから嬉しかった。誰にも聞こえない声が自分には聞こえる。自分も少しは役に立てるんだって。ま、結局ジョシュアとカデンツァには心配かけて、怪我まで負わせちゃったのは、悪かったけど」

「お前、分かってるのか? Vってことは——」

「分かってるさ。寿命でしょ? でも兄さんと違って、僕は最初から呪われし者だから、Vとして能力があってもなくても、寿命が充てがわれている事実は変わらない。それに」

 足先へと視線を投げた彼は、ふっと瞼を閉じた。少しして再び目を開いた彼はカデンツァのいる室内へと向きを変えた。

「あの幻。シュエルの記憶が基なんだろうけど、当時まだ存在してなかった僕ですら、見ただけでやるせない気持ちになった。たぶん当時その場にいたルアンとジョシュアは相当だと思う。僕はその想いに報いたい」

 暗がりの中で薄墨色の瞳が煌めいた。

「カデンツァみたいに誰かを守る盾はないけど、魔法も能力も誰よりも強くなって、誰かを助ける矛になりたいんだ。何の力にもなれない苦痛は、もう耐えられないから。カナンを倒してデュエルを解放する。それが僕の生まれた理由なんだ」

 ティアサーから向けられた真っ直ぐな眼差しには、否定の言葉も反意を返す余地もなかった。決意のこもった瞳をじっと見つめると、カデンツァは肩の力が抜けてふっと笑みを零した。

「なら、俺もお前に負けてられないな。カナンを倒すには一人じゃ心許(こころもと)ないだろうし」

 ニヤッと口角を上げたカデンツァにティアサーは明るく笑った。

「そりゃ頼もしい限りで」

「だろ?」

 わざとらしくウィンクしたカデンツァにティアサーはふっと笑った。

「二陽日後に僕たちの修練を始めるって。未陽日はジョシュアは寝込んでるだろうし、ルアンは火事の影響が地球にまで及んでないか確認したり、対応で手一杯になるからってさ」

 思い出したかのように話す弟にカデンツァは頷いた。

「それなら、他の妖精の手伝いに行かない?」

「他の妖精の手伝い?」

 陽入戸の縁に寝そべっていたティアサーは、起き上がるとカデンツァへと向き直った。

「それって何するの?」

「どんなことをするかは聞いてないんだけど、魔法の使い方を教えてもらうにはちょうどいいって。ティアサーにも良い経験になるはずだってジェシカが」

「ふぅん」

 ティアサーは考えるように視線を床へと落とした。しかし、すぐに目前にいる兄に再び目線を戻すと、ニコッと微笑んだ。

「せっかくだし、僕も行く。他の妖精が何をしているのかも気になるしね」

「よかった。夜明けに下でジェシカと待ち合わせなんだ」

「じゃあ部屋の前で合流してから下に降りようか。兄さんが寝坊しても起こせるように」

「言ったな?」

 兄の言葉にティアサーは茶目っ気たっぷりにウィンクをする。さっきのカデンツァを真似たようなその仕草に彼が笑うと、ティアサーも軽やかな笑い声を上げた。

 ジョシュアの昔話から始まった長い一陽日は、楽し気な笑い声と共に幕を閉じた。

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