9.V
ズキズキとした痛みが身体中に走った。痛みのあまり気がついたカデンツァはうめき声を上げる。頭はぼんやりとしていて、さっきまで何をしていたかも思い出せなかった。指先にはすべすべとした柔らかい感触が伝わる。寝台のような弾力性のある何かに横たわっている感覚がした。自分がどこに在るのか確かめようと、カデンツァは少し重い瞼を開けた。
見えたのは真っ暗な世界。少しずつその闇に目が慣れて見えるようになったのは、夜の光に照らされて青みがかった天井だった。彼は起き上がって周囲を見渡したが、そこにあるのは寝台ばかり。ここが自分の部屋ではないことしか分からなかった。
「あら、気づいたの」
誰かの声に振り向くと、薄暗い部屋の中に人影が見えた。
「それなら、もう明るくしても平気ね」
彼女はそう言うと、指をパチンと鳴らして炎を灯した。小さな灯火に映し出されたのはジェシカの姿だった。
「光よ(シア)」
唱えた呪文は彼女の指先に灯る炎の光を広げて、部屋全体を薄明るく照らし出す。部屋が明るくなったのを見ると、彼女は折りたたんでいた指を開いて炎を消した。
「火事はどうなったの?」
ようやく頭がハッキリしてきて何が起きていたのかを思い出したカデンツァは、慌ててジェシカに尋ねた。
「ティアサーは? ジョシュアは?」
「まあ落ち着いて。もう全部済んだから」
ジェシカは宥めるように穏やかな声で話すと、杯を手渡した。
「はいこれ。ルーフェンファンヨゥよ」
「ルーウェン……何だって?」
初めての単語に受取りながらも困惑するカデンツァを見て彼女はくすくすと笑った。
「ルーフェンファンヨゥ。色んな薬草を煎じた飲み物よ」
まだ笑いを隠しきれないジェシカと一緒になってカデンツァも笑った。鋭い痛みが走って歪みそうになった表情を隠すためにも。
「それにしても、あれだけ高いところから落ちたのに、骨まで支障ないなんて驚いたわ」
「俺の通り名〝奇跡の妖精〟だから」
わざとらしくウィンクするカデンツァにジェシカは笑った。
「まさしくね。とは言え自己治癒力があっても流石に気持ち悪いでしょ? 少しでも飲むと良くなるから」
薄暗い部屋の中、カデンツァはルーフェンファンヨゥをじっと見た。透明度が高く若干緑掛かっている。においを嗅いでみると、何かが鼻をツンと突くような感覚がした。
「言っておくけど、あくまでも薬だし味の保証はしないからね? あたしが作ったわけでもないし」
「じゃあ誰が作ったの?」
「シュエル」
薄暗い表情で彼女は答えた。
「ジョシュが言ってたように、もう何百周季も前に亡くなったんだけど。薬の使用期限はないから、取っておいてたの。それが最後の一杯」
「いいの? 貰っちゃって」
「いいの。あたしに今できるのはそれくらいだから」
ジェシカの言葉にどこか暗隠さを憶えながらも、カデンツァは素直に薬を受け取ることにした。
「ありがと」
彼は杯を口元に運ぶと一思いに飲んだ。喉当たりはいいものの、あまりの苦さに一瞬にして身体が強張る。前屈みになった彼は、杯を握りしめてぐっとその苦味に耐えた。
「これ……きついね」
何とか絞り出した声はしわがれていた。
「その分即効性が高いし、効き目もバッチリなんだから。それは我慢して」
ジェシカは苦味に悶える彼から空っぽになった杯を受け取った。
「まあ本当なら服用前に唱える呪文があるんだけど、それは呪術能力者にしかできないから。能力のないあたしには無理ってわけ」
杯に向かって手をヒラヒラと動かすと、彼女は呟くように呪文を唱えて杯を水で満たした。
「はい、せめてもの慰めに」
カデンツァは杯を受け取ると、ごくごくと水を飲んだ。さっきまで苦味と渋味でひしゃげていた口内や喉が、まるで浄化されたかのように潤って、嫌なえぐみを打ち消していく。割れるように痛かった頭や身体中の打痕は、もうすっかり気にならなくなっていた。
「すごい」
驚きに瞬きをした彼は確認するように手を閉じては開き、首や頭をさすった。
「もう治った」
「だから言ったでしょ? 効き目は確かだって」
ほら、ちょうだい、と杯を返すよう促す彼女にカデンツァはにっこりと笑った。
「うん。ありがとう!」
今度は彼女が驚きに目を瞬く番だった。素直なカデンツァが眩しいのか、差し出された杯を受取った彼女はどこかぎこちなかった。
「どうかしたの?」
彼女の様子に彼は不思議そうに首を傾げた。
「何でもない。擦れてない魔法使いの妖精に会ったの、久しぶりだから」
カタンと台に杯を置いて振り向いたジェシカはニコッと笑んだ。
「それに、お礼を言うのはこっちの方。あなたの能力についてはルアンから聞いたわ。結界で炎から守ってくれたんでしょ? それなのにあたし、落ちていくあなたを助けられなくて」
ジェシカはギュッと肩を掴んだ。浅葱色の衣服に皺の波が立つ。
「本当は助けようとしたの。浮遊魔法をかけたんだけど」
「弾かれた?」
「ええ、そう。ジョシュアはあんなだったし、ルアンは魔力がないし。あたしには力がなかった」
息を吸い込んだ彼女の肩が上がり、深い溜息と共に沈んだ。
「あの場にいたのに何もできなかった。ごめんね」
「謝る必要ないよ、無事なんだから。大事な薬をくれたお陰ですっかり良くなったし」
両手をうんと高く突き上げてカデンツァは伸びをする。彼の様子を見て彼女は力なく笑った。
「そう言えば、まだ挨拶もろくにしてなかったね」
肩を掴んでいた手を離して、彼女はカデンツァに手をのばした。
「ジェシカ・ウィルソン。今さらだけど魔法使いの妖精よ」
カデンツァはニッと笑みを浮かべてその手を取った。
「カデンツァ・ベクレル。ティアサーとは双精で一応俺が兄。よろしく」
「聞いてるわ。もう既に二人ともヴェルスヴィーナ中の噂の的だから、奇跡の妖精さん」
握手を交わし終えたジェシカは悪戯っぽく笑った。
「それとも盗み聞きの妖精さんって呼んだ方がいい?」
「やっぱり、あの時来たのってジェシカだったんだ」
「ええ。あの三人の会話を盗み聞きするなんて、大した度量のある妖精か、よっぽど頭が悪いのかどっちかだろうと思って。まさかベクレル家の妖精だとは思わないじゃない?」
「ひっどい」
ケラケラとした二人の明るい笑い声が静かな部屋に響いた。
「それで、ここってどこ?」
少し経って笑いの収まったカデンツァが尋ねた。
「全部済んだって言ってたけど、ジョシュとティアサーはどうなったの?」
「まず前提として二人とも無事よ」
彼女は答えると、寝台の隅に腰掛けた。
「ここはホームの外れにある療養棟。あなたみたいに気を失ったり、介抱が必要な妖精が過ごすための場所なの。個人の部屋じゃ部屋の主人以外は扉も開けられないせいで、様子を見ることもできないから」
彼女の説明にカデンツァは方眉を傾げた。
「でも魔法試験を受けてティアサーが倒れた後、ここには来なかったよ? ティアサーの部屋に連れて行って寝かせたけど」
「あくまでもここに来るのは体力や妖力の低下、つまりは命に関わる危険性がある状態の妖精。試験で倒れるのは魔力に関わることが原因よ。だからここに連れてくる必要はないの」
彼女は言い切ると陽入戸の方を向いた。
「ジョシュは流石に堪えたみたいね。リンクをすると疲れるとは聞いてたけど、あんなにまで消耗してるのは初めて見た。ルアンが心配するのも無理ないわ」
「心配? ルアンが?」
「ええ。つれない態度だし、捻くれた部分もあるけど、ああ見えて一番仲間思いが強いの。意外でしょ?」
ジェシカの言葉にカデンツァは目を丸くして頷いた。ティアサーへの態度も、ジョシュアがリンクして倒れた時も、まるでそんな性格には思えなかった。
「ま、その裏返しで態度が悪い時もあるんだけど」
彼女はそう言うとふっと笑った。
「そんなわけでジョシュは鎮火の後、そのまま倒れ込んじゃって」
「じゃあジョシュもここにいるの?」
カデンツァの問いに彼女は首を横に振った。
「誰かが様子を見れるって意味では、出来ればジョシュもその方がいいんだけどね。でも自分の部屋にいるわ」
「どうして?」
「彼の場合、能力が他人の思考を聴くことでしょ? 意識しないと勝手に聴こえてきちゃうから、精神的に疲れるらしいの。普段は能力に制限を掛けて聴こえないようにしてるけど、能力制限も負荷が掛かるから体力がない時には辛いらしくて、自分の部屋に閉じこもるのよ。あの様子じゃ未陽日いっぱいは寝込んでるでしょうね」
彼女の説明にカデンツァは女王の栖へ向かう途中での兄との会話を思い出した。
——「疲れるものさ、能力に付随するものに付き合うのは」——そう、ジョシュアは言っていた。能力を解放したままでいるのも、制限し続けるのもどちらも辛いことに変わりない。そんな力をずっと背負ったまま、必要ならばその命をかけてリンクで情報を得る。どれだけ厳しいことだろうか、カデンツァには計り知れなかった。
「ジョシュアってすごいんだね」
ぽつり呟いたカデンツァにジェシカはそっと頷いた。
「思考聴力者だからその場の空気にも人一倍敏感だし、誰よりも考え方と気持ちの整理が重要になることを理解してる。だから自ら調停役を買って出ることが多いかな。ベクレル家らしく合理的なんだけど、情け深いのよね」
陽入戸の向こう側を見ていたジェシカは、ようやくカデンツァの方へと向き直った。
「ティアサーは元気よ。今はルアンと一緒にいるんじゃない?」
カデンツァはほっと息を息を吐いた。緊張感が解けたのか、ピンと真っ直ぐに張っていた背筋が柔らかくなって曲線を描く。彼の様子を見てジェシカはクスッと笑った。
「ほんと双精って妙に絆が強いね」
「そりゃ心配するだろ? 火の中に飛び込んで行ったんだから」
カデンツァの言い分に彼女はさらに明るく笑った。
「ティアサーは『心配になるでしょ? そんな高さから落ちたなら』って言ってた。そっくりね」
カラカラと笑うジェシカにカデンツァは頬を赤く染め上げた。
「付いてくるって聞かなかったんだけど、何とか置いてきたの。きっと大丈夫だから待ってなさいって」
「そうだったんだ」
ジェシカの笑いが収まり、ようやく頬に帯びた熱がなくなったカデンツァは、呟くように言った。
「でもルアンが魔力を糧にするって言ってた火の中に入っていったのに、あいつ平気だったの?」
恥ずかしさに視線を逸らしていた彼は、再び彼女を見ると尋ねた。
「ええ。ティアサーがあの炎を消したんだから」
「え——?」
驚きと戸惑いに彼はその目を大きく見開いて瞬きをした。
「どうやって」
「癒しの雨だってルアンは言ってた」
端的に答えたジェシカだったが、彼は困惑が増すばかりだった。
「ルエナの持ってる天気を操る能力とルアンの浄化能力、シュエルの持っていた呪術能力の掛け合わせによって成立する魔法の雨なんだって。その降水を浴びることで、傷は癒えて心は浄化されるらしいの。たしかに火事で気が昂ってたあたしも穏やかな気持ちになったし、落ちた衝撃で傷だらけだったあなたも、自己治癒力だけじゃあり得ないくらい早く治っていった」
「それを降らせたのがティアサーだった、っていうこと?」
確認するようにおずおずと尋ねたカデンツァに彼女は頷いた。
「癒しの雨の効果で火事の威力が弱まって、炎は小さなまとまりになった時。静かに降り続く癒しの雨を浴びながらティアサーは現れたの。入った時と同じで炎を割って道を創ったようにしてね。あたしたち、あんまりにも驚いてたせいで何も言えないでいたんだけど、彼は正面にいたあたしたちにも気づいていないみたいに、どこか遠くを眺めてるような様子でね。空に掲げてた手をゆっくり下ろして雨を弱めて、それからようやく、ぼうっとしてた意識がハッキリしたみたいにこっちを見て言ったの。『分かったことがある』『僕がVだ』って。その言葉と同時に雨が止んで炎が消えたの」
困惑していたカデンツァの頭は、引っ絡まったその系も消えて、真っさらな空間に投げ出された。考えという考えが泡沫のように現れてはぽっかりと消えていくような感覚だった。
「オドロキって感じよね、無理もないわ」
驚きだけではなかった。彼の頭を駆け巡っていたものは。少しずつ整理されていった彼の脳内では、音を伴わない声がしきりに彼自身に問いかけ続けていた。
『そもそもティアサーには能力がなかった。魔法試験の時にも朝のジョシュの話の時にも。ルアンだけじゃなくてあいつ自身が能力の存在を否定してた。それなのに、どうして癒しの雨を降らせられたんだ? 何をもって自分がVだと分かったって言うんだ?』
考えがまとまるに連れて浅くなっていった彼の呼吸は、彼を早らせるようにその鼓動も早める。
『癒しの雨は三つの能力が掛け合わさった魔法。つまりそれだけ強い力を持っていることになる。ルアンは言ってた、ティアサーが待望のVになるはずだった、希望だったって。シュエルがその命を懸けてまで呪い願った存在だって。つまり、つまりVは——』
「Vって一体何なの——?」
まるで恐ろしい何かから逃げてきたかのように息を弾ませてカデンツァは尋ねた。落ち着くようにと深呼吸をして呼吸を整える。Vという力の塊らしき存在に対して心構えをするためにも。
「Vについては色んな噂があるの」
ジェシカは静かに答えた。
「ヴェルスヴィーナの聖騎士だとか、この世を救う救世主だとか、終わりをもたらす者だとか。ちゃんと伝わってるのはベクレル家とクライス家だけね。正確には、伝わってるって言うよりも、当時その場に居合わせた者が存命してるって方が正しいかな」
彼女はカデンツァを見ると微笑んだ。
「あたしはシュエルに色々聞いたから、Vについてはきちんとした話を知ってるの。Vっていうのは——」
カデンツァはごくりと唾を飲み込んだ。彼女の口から零れる説明を聞き逃さんと、じっと息を殺して。
「——カナンという妖魔を倒すためにシュエルが呪い願った存在よ」




