【 エピローグ・無力と無気力と 】
あの数秒がなんだったのか……『おっぱい病』は完治していた。
中学一年から二年1学期まで脳内で猛威を振るっていたのに、目の前に、手をのばせば届く距離に、上げ膳据え膳で2つの乳房が並んでも触ろうと微塵も思えないまま何年も過ぎていった。
社会人になって随分経った今は、忌まわしき我が能力も幾分かは弱まっている。新たに手にした超能力も、中途半端にしか使えていない。そして、『おっぱい病』の後遺症に悩まされている。
いつも思い出すのは最後に触れた良子さんの神々しい姿。
だから彼女ができた試しがない、そのまま何年も経った。
最後の相手は先週末、「まちくたびれた」とだけ言った。
モテない、というほどじゃないと思うけど。
今でも恋愛とはなにか、それがわからない。
だから、またもや砕け散った。
「これ、呪いの一種じゃないだろうな?」
「ぉぃ!」
浮いた話は、ことごとく噂話になった。
職まで失い、地元へ帰郷。
最後に3人で歩いた道を、たった独りで歩いている。
「おい!」
誰より努力しろと言われ、ちっとも仕事は上手くいかない。
否、断じて否、仕事は誰よりも出来ている、容易に可能だ。
それも倒産してしまった今は虚しいばかり。
問題は人間関係、これに関しては徹頭徹尾ポンコツだった。
再就職は難しいだろう。
「おいって!!」
ん……なんだ?
なんで歩行者に車を横付けするんだ。
イチャモンか?
「ケンジ、久しいなァ?」
「まさか……タカさん?」
「まさか?じゃねぇよ!」
懐かしい顔だ。
あまり人の顔を覚えられないオレでも一目でわかった。
「いやいや!就職して3日坊主って聞いたの最後だぞ?」
「4日だよ、4日坊主! バレてたのか、ハハハッ」
「笑いごとじゃないだろ! ……なにやってんだよ」
ハッハッハと快活に笑う。
偶然すぎる再開に「時間あるか?」と尋ねると「あー少しある」と腕時計を見てコンビニを指差した。
ペットボトルのペプシコーラを2本買って渡すと「懐かしい!覚えてるか?」と聞いてきたので「だからペプシにしたんだよ」と答えると嬉しそうに笑った。
タカさんは不良活動と両立しオレと学習塾へ通った。
その塾でリターナブルボトルが割安だと大流行した。
今はペットボトル、時代は変わった。
「今はコッチにいないのか、そっかァ」
「この河川敷、護岸やりなおしたの?」
「ニオイがなァ。ここも随分変わった」
「タカさん合格発表の日に殴り込んだんだろ?」
「ハハハ、バレてた?」
「なにやってんだかな」
オレが知ってる、その後のタカさん。
1つは会社が3日坊主、もう1つが御礼参り。
「まいったよ、殴り込んだ俺がコテンパンだぞ」
「返り討ちにあったのか……?」
「なんで落ちたって聞いたんだ」
「合格しただろ」
「お前がだよ!」
「オレが?や……そこでオレ?」
他に誰がいるんだと小突いてきた。
オレが受験に失敗した。
タカさんが殴り込んだ。
返り討ちにあう…………
超 展 開 ?
まったく理解不能のストーリーだ。
そもそも腕っぷしの良い教師なんていただろうか?
「良子に滅多打ちにされてよォ」
「良子さん?! ……その試合展開一方的だったな」
間違っても女の子に手を上げるような奴じゃない。
良子さんが力尽きるまで、だから「滅多打ち」だ。
「仲、良かったか?他に良く遊んでた子が何人もいたろ……わけわかんねぇまんまボッコボコだもんなァ」
「それ言うの?逆上して殴り込んだタカさんこそ周りに同じく見られてたんだろ。だから普段付き合い悪いオレのところまで話し回ってきたんじゃないの?」
「ハハハ、そりゃそうか」
「笑いごとじゃないだろ」
懐かしい笑い方が心地好い。
じんわり感慨に浸っていく。
ふと笑い声が止みタカさんは真面目な表情になった。
「どうしてお前が同じ高校を受験する?ずっと疑問に思ってたけどな、合格できてまた一緒にやれるって浮かれてた、俺にとっちゃ良くも悪くも身内だったからな。それを知ってたやつは少なかったろ?その良子が顔を見るなり殴りかかってきた、なにか裏があって、お前がなんかした……普通そう思うだろ」
「身内って表現なんだよ、悪いほうだろ」
「そりゃそうか、どう考えても悪者だ!」
「なにか言ってた?」
「止めたかったとか、アンタはできたとか、なんとか……だな」
この様子、聞いてないのか。
あまり知ってる奴もいない。
良子さんと青木さんしか知らない。
「顛末、聞いて後悔する?」
「てん……聞かせろ」
「オレん家って稼業が教育関係の偉いさんだ、裏口入学できると思ってたんだよ。ズタボロにした内申書、相応の学校しか受けられずランク何個も落とした志望校、挙句落っこちた……バレたら大問題になりかねない、焦りに焦ったんだろ?」
「バレるってなにがだ。いや、待てよ……焦ったのは担任か?お前さぁ、結局なんで教壇に座ってたの?しかも内申ボロボロ?ありえねぇだろ!」
「タカさんより低かったんだよ」
「そりゃ……どういう意味だ?」
「通知表の数字を他の奴と入れ替えられてたからさ。入試で高得点を取らないと、合格できなかったの」
「はァ?!」
「通信簿は志望校に合わせて足し算で作る。本来、数値は変動しないものなんだ。あれは学力を書いてたわけじゃない。そんなわけないって顔してるな、勉強したらメキメキ上がったろ? ……オレの数字を書かせたからな」
絶句、そりゃそうか。
良子さんと青木さんしか知らない。
「だから、同じ学校を受験したのか」
「高校に電凸して裏目に出たらしい」
「どういうこった?」
「滑り止めの私立は欠席する気だったけどな、4位だったそうだ」
「何の……入試の結果か、4位?!」
「タカさん、何位?」
ギョッとした顔をした、勘が良い。
通常、合格・不合格しか知らない。
「順位はたいしたことない。でもさ、ランク落とした本命は不合格、慌てた担任が両方に電話確認したのさ。この電話、この点差は奇妙だ。体調不良、カンニング、なにかトラブルの見落としと考える。だが試験会場ではなにも起きていなかった。じゃあ、問い合わせること自体あり得ない行動だ……アンタなにやった、そんな話にならないか?そこで初めて聞かされんだろうさ」
立ち上がるとキョトンと見上げた。
「エー、コホン!」と咳払いをする。
「なに?なにするつもりだ?」
「はぁい、静粛に ―――― 」
大きく息を吸う。
「受験勉強なぞ1秒たりとも不用、オレには容易に可能。4位?不本意な順位だ。ところで貴様の信仰心は何処へ行った?祭壇も無い試験会場で、スケープゴートに紙を配ったら喰っちまう、全部白紙で提出、当然不合格」
「それ、なんだ?」
「教育関係の偉いさんは身内の受験に一切ノータッチ。教員の素行が悪けりゃ相応に対処する人事担当だ。奴等はそれを逆だと勘違いして、こっちにまで電凸してきた」
「 藪 蛇 ? 狙ってやったのか!」
「 騒ぐな、爆破するぞ、ピ ッ チ ャ ー マ ウ ン ドみたいに …… とだけ言って、切った」
「ホント怖ぇことするなっ!」
「そんなことないよ、担任だって昇進したよ?」
「懐かし~、天本博士か!」
「教壇から引き摺り下ろされて窓際の祭壇に飾られちゃった、昇進はしたんだよ?今は悠々自適のパチンコ三昧、儲かりすぎて住宅ローンを払い終えちゃって新車を買ったと二重スパイに聞いたよ。かなり退屈してるみたいだねぇ?」
白紙で昇進と連呼し高笑いする姿にホッと一安心。
あの直後だったらオレがブン殴られていただろう。
「結局、あの窓際の席、ありゃ~なんだったんだ?」
「下っ端職員の僻み嫉みだ」
「一度だけ言ってたな、自分を殺して立ち回れって」
「オレは6年屈辱に耐え、あいつ一生を棒に振った」
腹を抱えて身を捩っていたが不意に動きを止めた。
「お前が行けなかった学校出て、4日で辞めて……挙句の肉体労働だ」
「その恰好、左官……いや、鳶か?」
すっかり綺麗になったドブ川の水面を苦々しく見詰める瞳を横から視ていると、ワルぶってたタカさんが自分を押し殺して愛想笑いしながらペコペコ頭を下げる、奥さんと、娘さんが1人、3人前を養う立派な姿がうっすら浮かんできて――
すぐに霧散して、見えなくなった。
こんな大人になれると思っていた。
食い扶持すら妖しいオレとは違う。
フッと少し溜息が漏れた。
「立派な仕事だろ。オレは正月返上で便所を治す配管工の叔父を見て育ったんだ、お前ぐらい腕っぷしが良けりゃ跡を継ぎたかった。今デスクワークで世話になった会社倒産して無職、それだけが取り柄なのに足りない、まだまだ努力が足りない、人の何倍も努力して何倍も働いてきた……なのにいつまでたっても半人前のまま。オレは……もっと時間が欲しい」
話の先を待っていたが、一口飲んでキャップをきつく閉めた動きに尻切れトンボで終わったのだと見て取ったのだろう、ぽつりと「相変わらずか」と呟いた。
「待ってたぞ、良子。真っ暗になるまでな」
全部白紙、あれはハッタリだった。
本当は1枚、理科だけは提出した。
思い出せない設問があった。
どうしても1問、出てこなかった。
あそこだけ良子さんの姿が思い出せなかった。
合わせる顔が無いと思った。
全問正解したら行くつもりだった。
未来永劫見付からない、きっぱり断言できた。
これからも見守っていくと彼女に約束できた。
ハハッと軽く自嘲が漏れる。
「嘘ついちゃって、行けなかった」
「意外だな。良子みたいなのがタイプだった?」
「 は? い い や 、 全 然 ? 」
「言い過ぎだろ」
「童顔で顔も体形も整ってて優しくって勉強のできる優等生で名前まで良子さん、おっぱい星から来た悪役怪人には似合わない……っと、ちょい待ち!」
携帯電話を取り出すと以前仕事で絡みのあったひとからだ。
誰もいない方向にペコペコしながら話す姿。
タカさんが笑いをこらえながら眺めている。
ペコペコ修正まで気が回らない内容だった。
パチンと閉じてから一拍おいて「仕事か?」と尋ねられる。
「そうかも、でもどうかな、できる気がしないんだけど」
「なんとも歯切れの悪ぃ返事、そんなに難しい仕事か?」
「笑うなよ?」
「笑わねぇよ」
「学校の先生……やらないかって」
「ハハハッ!あんだけ生徒にゃ向いてなかったお前に来る御依頼が先生のお誘い?傑作だな! 小山内先生? 結構なことじゃねぇか!」
「他人事だと思って。笑いごとじゃないって」
「お前の能力を必要としてくれたんだ、できるだろ」
「似たようなこと、言われたなぁ」
「へ~ぇ。そりゃ女だな?」
「違うって、良子さんだよ」
新聞社主催の壁新聞コンテストに、提出したのかどうか。
別段なにも受賞せずに終わりユーキは不満たらたらだった。
青木さんは平然とオレの机に座って会話するようになった。
決まって学校や先生に不満がある時、気紛れな妖精さんだ。
三年生になり歴史が得意な良子さんは生徒会役員になった。
一度まばたきをして、視線が交差するだけの関係が続いた。
あの日以来、一度も会話せずに卒業した。
「一途にしても長ぇな?」
「そんなんじゃないけど」
思わず瞼を伏せ、咄嗟に開いた。
最後に触れた良子さんの、神々しい姿が視える。
化粧っ気もなにもなく、少々ダサい髪形のまま。
緊張しないよう夏休みなのに制服姿で来た少女。
身じろぎもせず、一切の拒絶なく、時が止まる。
「でも ―――― 特別だったな」
誰も触れさせないと言ってくれた柔肌を装う制服
優しい瞳 薄く開いた唇 やわらかい感触……
その記憶も随分と擦り切れて、薄れてしまった。
「二度と泣かせないって何度も何度も思ったけど、最後の最後までできなかった。いつまでも触っていたかったし、離したくなかったけど ―――― 」
理科準備室の棚の上に、埃を被った模造紙を見つけたんだ。
青木さんに伝えて、最後の合鍵と白衣を渡した。
初めて目をそらし「私に渡せなんて」と呟いた。
オレは科学部を辞めた……あの模造紙のその後は知らない。
「特別すぎたのかもなぁ」
唯一人、オレの異常性に気付いて。
唯一人、対等に扱ってくれたひと。
生贄の山羊の祭壇に姿を現した優しい祈祷師だった。
仕方がないと諦めた供物に心臓を取り出して見せた。
この犠牲は無駄にならない、沢山の旅路へ続いていると教えてくれた。





