4・25 鉱物店の神聖な病理
4・25 鉱物店の神聖な病理
今日はひどく体調がわるい。体調が悪くても、文章は書ける。病人には、病人の文章がある。きっと「檸檬」を書いた梶井も、似たような顔をして、書いていただろう。
あの短編は爆発するレモンの話だ。だが、そのレモンの美しさよりも、僕には、彼がレモンに至る丸善の方が、美しい。鉛筆や、石鹸や、そういったものを、手にとっては戻す、それだけの行為。数行に描かれたあの時間の彼は、僕にひどく似ているように思う。それは都市に特有の病理だ。
僕もきっと患っているその病理は、郷愁病とでも名づくべきだろう。僕は鉛筆や石鹸が好きだ。そしてそれ以上に、鉱物が好きだ。石こ賢さんには勝てないけれど、僕には新宿紀伊国屋の鉱物店がある。
鉱物を愛するというのは、宇宙的な郷愁だという。それを言ったのは稲垣足穂だったか、自分が生まれるよりおそろしく昔の、知るはずもない過去からの遺物。それは金平糖より涼しく、レモンより整然と幾何学的で、適度な冷たさと重たさを持って、ただそこに数万年じっとしている。僕の本棚に飾られた鉱物は、僕が死に、この部屋が灰燼に帰したその後になっても、きっとその姿で在り続けるだろう。そしてそれはまたきっと誰か、僕の知らない未来の人の本棚や机の上にのせられて、冷たさと重さとを掌に届けるだろう。僕より未来の、知らない誰かの、僕と同じ、そして梶井の熱病と同じ、火照った掌を冷ます、鉱物。その神聖さの前に、人は硝子球をそっと舐めるように、その幽かな涼しさを舌に感じてみたくなる。そんなものに、本当は、値段なんかつけられやしない、はずなのに。
そんな聖物に値段をつけ、現世の価値でおしはかる。そしてそれを僕は嬉々として受け入れ、いくばくかの紙幣と交換して連れて帰る。あの新宿の鉱物店こそ、東京でもっとも神聖であり、もっとも低俗な病理である。そして僕はその病理の行為を、きっと誰よりも愛している。(了)




