第89章
89.
元いた世界に於ける近代的な軍に於いては、ある戦闘部隊が組織的な抵抗力を失うレベル、概ね消耗率、つまり部隊の死傷者が40%を超えた場合に『全滅』と判定される。これは近代に於いては直接的な戦闘力を持つ前線部隊以外にも補給や兵站、通信や連絡を担う部隊の重要性が認知され編成されている前提で、戦闘部隊全体の約半数しかいない直接的戦闘部隊の指揮命令系統が壊滅する程度には打撃を受けている状態を示す。
仮に100人の部隊のうち6割が直接戦闘能力を持つなら、更にその6割が死傷しているとして、たとえば36人が死傷したと仮定出来る。
比較して元いた世界に於ける古代の戦闘部隊に於いては、部隊は専門の補給部隊を持たず、構成員全てが直接戦闘を担うことも考えられる。だが、指揮命令系統の維持能力は高いとは言えず、少ない損害でも容易に部隊全体が指揮命令系統から外れてしまい、敗走や脱走から部隊自体が霧散して壊滅する場合もあった。この場合も直接戦闘員の人数は多くとも、結局戦闘部隊の40%程度の死傷者で部隊は『全滅』となる。
この場合は100人中40人が死傷したと仮定出来るだろう。
結局のところ、どちらも『全滅』した部隊は半数近いの死傷者を抱える訳だが、部隊が霧散してしまった場合の方がより悲惨と言えなくもない。その理由は、傷を負った者を治療する者が残されていない状況が生じるからだ。
「シャーリー、回復薬の在庫はいくつある?」
『世界樹の若木』に近いエルフの村は、エルシャナの住むドーナの村と同じ程度の規模があったらしい。つい、この何時間か前までは。今は多くの家が焼け落ち、焼け残った家を貫く大木の枝が燻り続けている。家々を逃げ出した村人が何処に逃げたのかは定かではないが、村を守ろうとしたエルフの騎士たちが如何なったかは一目瞭然だろう。累々と横たわるエルフの大半が革の鎧を纏ったエルフの騎士であり、その多くが傷を負い、あるいは息絶えていた。
「手持ちは10本程です。時間があれば材料は揃っているので、後20本位は造れますけど・・・」
おそらくは初めて見る、大規模な戦闘が残した凄惨な現実に打ち震えるシャーリーの肩を抱いて尋ねる。声を震わせながらも、それでもシャーリーは俺の問いに気丈に答えてくれている。
ディーンら『ダークエルフ』たちは、撤退に際し『ダークエルフ』の負傷者だけは連れ帰ってくれていた。『ダークエルフ』であっても、死者はうち捨てられたままだ。この世界の戦争の作法は知らないが、寧ろ『エルフ』の生き残りを掃討せずに残してくれただけでも感謝すべきなのかもしれない。
「では、その10本はエレインに渡して。シャーリーは焼け残ってる何処かの家を借りて、回復薬を出来るだけ早く、出来るだけ沢山造ってくれ。ソフィアは俺と助かりそうな重傷者を10名選んで、何処か別の焼け残った家に集める。エレインはシャーリーの回復薬か自分の回復魔法のどちらを使うかを判断して、俺とソフィアが集めた重傷者から順番に治療をしてくれ。但し、魔力が尽きても魔力の回復が間に合わないだろうから、回復薬の使用を優先して。エレインに倒れられても俺たちには何も出来そうにないから、回復魔法を使うのは死を遠ざけるだけで良いから」
トリアージュとは非常事態時に陥った状況下での、いわば負傷者の治療優先順位の選別だ。限られた対応人員と物資で、医療の最大効率化をはかる目的がある。軍であれば復帰できる者を優先したり、身分の高い者を優先したりもする訳だが、エルフの騎士に縁のない俺たちならば純粋に治療効率を最優先に出来るだろう。後は皆と俺自身がこの惨状の中で冷静でいられるか、精神的に壊れないか。
だが、とにかくやるしかない。
「私も手伝わせて貰おう」
何時の間にか、村の状況を見て回っているエゼルを護衛していたはずのアリシアが戻ってきていた。確かにディーンを信じられるならば、この村が今すぐ再び『ダークエルフ』に襲われるという心配は少ない。今はエゼルの護衛は必須ではないだろう。
エレインの回復魔法で意識を取り戻したアリシアは、当初は、その本来は無表情な隻眼に明確な敵意を宿らせていたが、何時の間にかその憎悪さえも枯れてしまったかの様に、無機質な黒い深淵を湛えている。
「そうか、助かるよ。では、まずは治療に使えそうな家を探してくれ。出来れば、最初の10人が寝かせられる程度の広さがほしい。この様子では重傷者は10人ではきかないだろうから、後一つ二つは同じ位の場所を探してくれると助かる」
アリシアが頷くと、足を引きずる様に歩み去った。
殺気は感じられないが、やはり俺を恨んでいるのだろうか?
そうだとしても、俺も今は気にしてはいられない。
如何やら、今日は長い一日になりそうだ。




