第5章
5.
「熱っ!」
カップに手を伸ばし掛けた彼女が、慌てて手を引っ込めた。まだ、熱かったかもしれない。
フィレンツェは慌ててカップを床に置いて彼女に近づくと、横に俯いて火傷したらしい右手の指を取ろうとした。
「ん、・・・」
飛び掛かってきた彼女が凄まじい膂力で俺を押し倒し、そのまま唇を奪われる。一瞬、反撃を躊躇った結果、俺は甘く濃厚なキスに理性を奪われ、如何やら反撃の機会は永久に去ってしまった。無限に等しい時間が流れ、ゆっくりと、絡められた舌がほどけて唇を離されても、もはや彼女を跳ね除ける気になれない。
「お、お前、いきなり何するんだよ!」
彼女に組みひしがれたまま、昂った感情を抑えて努めて冷静に問う。本当は、ちっとも冷静ではないけれど。自分でも分かるが、呼吸が荒い。正直なところ押さえているのは、彼女の強引なアプローチで火を付けられた俺自身の劣情の方だ。人間の欲望の持つ力は凄まじく、俺の腹の上に馬乗りになる彼女にそれを悟られたくない、何というか男のプライドというか。
「お前、じゃない、ソフィアよ。人間の姿のわたしには、ちゃんと人間の名前があるの」
艶然とした微笑を浮かべ、彼女は俺にそう告げた。俺の胸に両手をついて上から俺を見下ろす、その瞳に宿らせた輝きが、俺の背筋に悪寒に似た震えを走らせる。ダンジョンの床を背に、何とも居心地が悪いというか。その太腿の柔らかな感触が、良すぎるというか。
「ソフィアか・・・。俺の名はフィレンツェだ。って、だから、何でいきなりキスするんだ!?」
そうだ、まだお互い名前も名乗っていなかったのに!ものには順番というか、手順というかが、あるだろうに。この焦りというか苛立ちは、後手に回った俺自身に対するものだ。ふん、だが、そんな時は一人心の中で呟くのさ。多少の動揺も仕方ないこと、何故なら『坊やだからさ』
ごめんなさい、余計に恥ずかしくなってきた。
「あなたは、わたしから宝玉を奪ったわ。問答無用でね。その事を、わたしは否定はしない。人間もドラゴンも、ほしい物を奪って生きているわ。そうでないと生きていけないから。だからわたしも、あなたを奪った」
ソフィアが間近から、その藍色の瞳を扇情的な衝動に染めて見つめてくる。瞳の奥の煌めきはどこまでも妖しく魔性を含んで、妖艶だった。
「あなたは、わたしを助けてくれた。ドラゴンに挑む勇気と、優しさを持ったフィレンツェが。あなたに殺されかけた時、わたしは宝玉をあなたにくれてやるって言ったでしょ? あれは、嘘じゃないわ。もう、一人で生きてくのは疲れていたのよ。宝を守り、穴倉に閉じ籠っているのはもう、否になったの。もう、全てを投げ出して死んでしまっても良かった。それなのに、あなたはわたしを助けてくれたわ。だから、わたしはフィレンツェがほしくなった。フィレンツェがわたしを愛してくれるなら、わたしは、わたしをフィレンツェにあげるわ・・・」
ドラゴンがお宝を守るのは、光物が好きな習性か?カラスも光物を集めるっていうし。ダンジョンの奥に引き篭もり自分を倒す勇者を待つというのは、何故なのだろう?興味の尽きないところではある。否、この場合『好奇心は猫をも殺す』、殺されるのは俺か。
「お前な!勇者がドラゴンを連れて帰れる訳、ないだろ!」
別に俺は勇者じゃないけどな!ここではない異世界から、本人の同意もないままに連れてこられた、ごく普通の一般市民だ。ちょっと、そういう境遇が特殊なだけで。他にも前世での死に方とか。どちらにせよ、ドラゴンを連れ歩くなんて出来ない。ペットの犬じゃないんだから。
・・・何か、動揺の余り、現実から目を逸らせているだけの様な。
「元、ドラゴンよ、問題ないわ。それに、言ったでしょ、お前じゃなくて、ソフィって呼んで。わたしにご飯をくれるあなたのことは、フィルって呼ぶから。大丈夫、わたしのこの体は、ちゃんと細部まで人間の女の体だから。・・・フィルのその調子じゃあ、あなたも初めてっぽいけど、わたしも初めてだから問題ないわ!」
胃袋を掴めとはいうが、ひょっとして二度の食事で俺は、ドラゴンを餌づけしていたのか!?そう言えば、プロポーズに獲った魚を持っていく鳥がいたような。でもこちらは、単なる干し肉なんですけど!驚愕の事実に気が付いて、というかソフィアの不意打ちに思考を空回りさせながら返事をする。
「いや、だから人の話を聞けって!」
そ、そうか、カワセミだ!い、いや、それはこの際は如何でも良い、心底、如何でも良い。それに俺は初めてじゃないぞ!この世界に来る前だけどな!それが童貞に見られたのは、何故だ!?ひょっとして、この元ドラゴンの娘には、俺のズボンの下が透視出来るとか?
「知ってる? ドラゴンの知識は、人間のそれを遥かに凌ぐわ。あなたたち人間には何十種類もやり方があるらしいけど、全部ちゃんと頭に入っているの」
だから、何処で得た知識だよ!
ソフィアが俺の胸についていた両手を、再び俺の首の後ろに回した。
こちらはまだ、いろいろと疑問があるんですけど!何故、童貞と思われたか、とか!
ま、待って、そういう問題じゃないってば!
そこまで考えたところで、フィレンツェの唇は再びソフィアの唇で塞がれた。