第44章
44.
イングランドに伝わるアーサー王伝説には、伝説の担い手として『湖の精』や『湖の貴婦人』と呼ばれる精霊の存在が語られている。アーサー王にエクスカリバーを与え、後に円卓の騎士の一人となる幼少のランスロットを育て、最後にはアーサー王をアヴァロンに導いた三人の美女の一人とも言われる。
魔法で作り出された湖の中に立つ城で多くの召使いに傅かれ暮らしているその美女は、しかしながら、実はイングランドを滅亡に導いたとも言われている。なぜならば、エクスカリバーはその強大な力故にアーサー王自身が多くの裏切り者を切り殺す手段ともなった。また、ランスロットは世に知られた通りアーサー王の王妃グウィネヴィアと不倫の仲となり、アーサー王の息子のモードレッドが反乱を起こすのはアーサー王によるランスロット討伐の戦いのさ中だった。
何れにせよ、古来より湖は『精霊』の集う場所とされ、またそこに住む『精霊』自体も人には理解し得ない理に生きる者であるとされる。
超自然的な存在に対する畏れと、期待がそこにある。
「俺の名前はフィレンツェという。あんたの名前を聞いても良いか?」
何処からともなく現れた一艘の船が、湖の沖に浮かぶ城へとフィレンツェを誘う。
ヴェネツィアのゴンドラの様な渡し船で、船の艫には緑のドレスの女が立ち、一人ゆっくりとオールを漕いでいる。オールの動きにつれ緑のドレスがはためき、その裾から雫となり滴り落ちる。女のオールを漕ぐ様はごく軽く船を押す様に行き脚を与えているだけだったが、それにも関わらず船は素晴らしいスピードで沖の城へと進んでいく。
船の進む道の左右両側には、それぞれに切り立つ様な霧の壁がそそり立ち、船が別たれた水面を進む様はさながらモーゼの出エジプト記を彷彿させる。それらがフィレンツェに、これから船の進む先が人外の領域である事を教えている。
「わっちの名前はヴィヴィアンと申しんす。覚えておいておくんなんし。ところでフィレンツェ様はどうして、その女子を助けたいとお思いでありんしょう?」
ヴィヴィアンか、良い名前だ。
フィレンツェは素直にそう思った。
未だ眠りから覚めぬソフィアは、シャーリーとジルとジバたちに預けてきた。俺を心配したシャーリーが同行を申し出たいが、かと言ってソフィアを置いていく訳にもいかず悩んでいたが、俺からすれば、そこはソフィアと一緒に残ってもらう以外に選択肢はないだろう。
「そうだな、多分、惚れた弱みじゃないか?」
答えながら、思わず唇から笑みが漏れる。
周囲を漂う死の気配は色濃く、そして生と同じ位に甘美で、濃厚だった。
もし、ヴィヴィアンがそう望むならば、背後から俺の首を落とす事は造作もない事だろう。
あるいは俺の答えが、ひょっとすると俺の存在自体が、既に彼女の理に触れてしまっているのかもしれない。だが、元いた世界では伝承や伝説の中でしか語られないであろうこの状況を、あるいはソフィアとシャーリー共々、この世界の全てを俺は愛さずにはいられない。
「羨ましいでありんすね・・・。もし、わっちも望むなら、ぬし様の妾にしてくれんすか?わっちを愛してくれるならば、ぬし様にこの世のありとあらゆる富を捧げんしょう」
ヴィヴィアンはフィレンツェの言葉に小さく溜息を吐くと、改めてフィレンツェに問いかける。
それはどう見てもデッド・フラグだね。
色んな意味で。
かといって断っても、やはり死に至る、か。
死ぬならソフィアの上で腹上死と決めている俺は、少なくとも船上で首を落とされる訳にもいかない。腹上死は性交そのものが死の原因である事は少なく、性的興奮の影響で心筋梗塞や脳梗塞を誘発する場合が99%を占める。因みに『春に多い』とか『自慰行為によっても同様の死に方がありえ、死亡者の一割を占める』といった統計データ!もあり、男としては注意に値する。色々な意味で。
「俺は本当は、この世界の人間じゃない。だが、何故かこの世界に辿り着いて、ソフィアとシャーリーの二人を愛する様になった。俺はこの世界を、もっともっと、この目で見てみたい。俺は多分、とても我儘なんだと思う。これ以上は、俺の我儘に付き合わせる者を増やす訳にはいかないよ」
ヴィヴィアンに対する答えは、今の俺の本心だった。
こんなところで嘘をついても仕方ないし、まぁ、美女に首を落とされる時もあるさ。余りあってほしくはないが。
「そうでありんすか・・・。ちょっと、残念でありんすね」
ヴィヴィアンはそう答えると、それ切り黙り込んだ。
ヴィヴィアンの操るオールの軋みと、静かな波の音が残された静寂を包み込んでいる。
湖の中央に出来た岩場には小さな木の桟橋があり、緩やかな崖を城の基部にある扉へと道が続いているのが見える。やがて、渡し船は桟橋の腐りかけた木の板を擦りながら、その行き脚を止めた。俺は先に桟橋に飛び移ると、ヴィヴィアンの投げたロープを桟橋の金具に結び、桟橋に渡るヴィヴィアンに手を貸す。
「ここからは、死地。気を付けておくんなんし」
ヴィヴィアンの白く冷たい手は、ソフィアやシャーリーとも違った艶めかしさがある。自分の頬に張り付いた濡れそぼった髪に手ぐしを通しながら、ヴィヴィアンは、まるで涙に濡れた様に潤んだ瞳で俺を見つめた。
だが、残念ながら死地を前に、その眼差しは俺には届かない。
それはきっと、ヴィヴィアンのせいではない。
済まないが、俺はそういう男なのだと、それだけの事だ。




