9.市井探索1
遅くなりました。市井探索編です。
ハンナとアーチボルトの距離は縮むのでしょうか。
「義姉様! あちらのお店を覗いてみましょう!」
「イリス。はしゃぎすぎるな」
イリスがハンナの腕を取り、はしゃぐように引っ張るとアーチボルトが難しい顔でそう言った。
結論から言うと、完全に市井の人間として振る舞うことはイリスにもハンナにも無理だった。
イリスも何とか言葉を崩そうと試みたが、『お義姉様』が『義姉様』に変わっただけで変化がない。
「あの、旦那様……周囲の視線が気になるのですが……」
ハンナが困惑したようにアーチボルトを振り返り、告げると彼はやれやれと肩をすくめた。
「今の俺たちは完全に貴族のお忍びに見える。だから、すまん。諦めて欲しい」
どれだけ振る舞いをタイタリアから学ぼうとしても、イリスとハンナは根っからのお嬢様気質だった。
ただそれだけなのだが。
「……ヘクター。お前はもう少し堂々とした方がいい」
アーチボルトはずっと息を殺すように背後からついて来ている少年に言った。
「……いいえ、その……私の身分ではおこがましいのでは……」
「今の『設定』を忘れて貰っては困る。君はハンナの『弟』役なのだから」
はじめはアーチボルトとイリスだけだったはずだが、新たに同行者が増えたのだ。
それが、ハンナの乳母リネットの息子――ヘクターだった。
お忍びだが従者はつけねばならない。
だが、イリスはお忍び感が薄れる事を嫌った。
それ故に、ヘクターには仮の役が与えられた。
「無理がありすぎません?」
「そうは言うが、お前とハンナは姉弟として十分通用すると思う」
その役割がハンナの『弟』だった。
ついでに、アーチボルトはハンナの『夫』ではなく『婚約者』という役割だった。
さすがにいくら結婚可能年齢とはいえ、ハンナのように学園を中退してでも結婚する選択などよほどのことがない限りやらないらしい。
ハンナは侯爵家を出て初めて知った。
「ハンナは絶対馬車道の方に出るなよ。イリスもだ。俺かヘクターを必ず盾にするように」
アーチボルトは街に出る時に言った言葉を何度も念入りに少女二人に告げる。
よっぽど心配なのか街に出てからもこの調子だ。
「兄様、あちらに可愛い小物を売ってるお店があるそうです。次は義姉様に合う小物を見ません?」
市井の店で、服をあれこれと見比べて店員とあれこれと交渉していたイリスが買った服の包みを抱えて満足そうに店を出たイリスが次の目的地を提案する。
「イリス、設定を忘れていないか?」
アーチボルトがため息を吐いて、呻くように小さく囁くとイリスはくすくすと小さく笑う。
「あら、兄様知りませんの? 兄の婚約者を『義姉』と呼ぶのは普通です。だっていずれ本当に『義姉』になるんですもの」
設定を忘れているようで忘れていない。
イリスが一番この状況に馴染んでいるだろう。
「やれやれ、お姫様には負けるよ」
「私、ちゃんとお芝居はわかってますもの。そうよ、兄様。そのうち市井のお芝居も見てみたいの」
アーチボルトに従っているように見えて、自分の要求を通していくイリスは本当に強かだ。
完全にこのお出かけの主導権はイリスが握っている。
ハンナもヘクターも困惑しつつついて行くしかなかった。
「おっと、ハンナ。お手をどうぞ」
後ろからついて行く勢いだったハンナは、アーチボルトに手を引かれ隣へと引き寄せられる。
「ヘクターはイリスのエスコートを頼む」
「え? でも、ぼ……私はそういう経験がなくてですね……」
ヘクターは何故かイリスのエスコートを頼まれ困惑している。
当然だろう。この間までヘクターはハンナの乳母の息子としては異例の市井育ちだ。
なんでもヘクターの父親は商家の三男坊らしく、今も実家の商家で働いているという。
身分違いで駆け落ちして、ハンナの母の実家ではリネットは除籍されている。
そう考えると乳母としてリネットが侯爵家に仕えていたのが不思議である。
当然、その育ちからヘクターは貴族の約束事なんて知らない。
幸いなのは商家の出だけあって、字の読み書きができることと、計算ができることであるらしい。
従者なんてできないとアーチボルトに言い募った時のヘクターの姿をハンナは思い出す。
「私が教えますわ。でないと、私のエスコートなんて許さないんですから」
年下のイリスがお姉さんのように振る舞い、貴族社会の事を何一つ知らないヘクターは頷くしかない様だった。
「はい、お嬢様」
「駄目です。私の事は名前で呼んでくださいませ。これはお芝居なのですから」
「えっと……はい。……イリス……様?」
イリスが容赦なく突きつけた言葉にヘクターはだいぶ迷った末に震える声で言った。
満足そうにイリスがはしゃいだ声を上げるのを、ハンナは微笑ましく思っていたのだ。
エスコートするアーチボルトが耳元で囁くまでは。
「ハンナ。今日だけは名前で俺の事を呼んでもらうからな」
そのことをすっかりハンナは忘れていた。
今の二人の設定は夫婦ではない。
あくまでも『婚約者』であり、今までのように『旦那様』と呼べないということは、名前を呼ばないといけないわけで。
「えっと……がんばります……」
顔が何故か熱くなって、なかなかアーチボルトの顔が見られなかった。
そうして小物や衣服を見ているだけでお昼に差し掛かり、アーチボルトの案内で飲食店が立ち並ぶ街の一角へ、ハンナ達は足を踏み入れたのだった。