第伍話 『刻神』クロノス
異国の地で奇異の目に晒され、美麗の後をとぼとぼと歩いていると、急に前を歩く人物が、ある建物の前で足を止めた。
この町を城下町と表現するならば、目の前の建物は城だろうか。周りの他の建物を数倍する大きさのそれは、古風な―建物自体は古くない―街並みの中でも、特に何処か荘厳な雰囲気を放ち、格式の高さが際立っている。
「さ、直巳。ここが昨日言ってた刻神亭だよ」
そう言われ、脳のメモリーから刻神亭というキーワードを検索する直巳だったが、全く結果が表示されない。
(昨日...だよな?俺の事を周知させるためにどっかに行くとは聞いたけど、その名前は絶対聞いてないなぁ。しかし、ここが...?)
少し疑問を覚えた直巳は、目の前の建物を凝視する。だが、直巳の見る限り、その建物は三階建ての巨大な旅館以外の何ものでもなかった。字は読めないが、古代文字のような、恐ろしく複雑なものが書かれた看板らしき板が掲げられているあたり、少なくとも商業施設であることは、ほぼ間違いないだろう。
しかし、そんな場所で一体何をするというのだろうか。直巳はしばらく考え込み、あるひとつの答えに辿り着いた。
若しかすると、いまから偉い人に会うのではなかろうか。
いまは違うのだが、直巳のいた元の世界でも、昔は一人の圧倒的強大な権力を持つ覇者が国家全体を収め、その下にそこそこの権力者が一地域を収めるという統治体制がとられていたことがあったという。
その世界では、秩序的に組織立った行政などというものは、件の覇者の下以外には基本的には存在せず、地域の権力者が自治地域に限り、独断で行政を動かしていたらしい。
直巳がいま居るこの世界は、建築や衣服など、その時代と似通っているところがある。もしその通りと仮定するなら、高級そうな宿屋らしき建物にわざわざ来た理由の説明がつくかもしれない。
もちろん、それだけで全ての理由が説明される訳では無く、いくつかの疑問や微妙な点も残ってはいる。
だが、直巳はここで正確な答えを導き出したかった訳では無い。自分を納得させるための、それらしい適当な理由が欲しかっただ。その意味では、既に目的は達成されているといえる。
「直巳!何してるの?早く行こ!」
「え?は...あぁ!...すみません、考え事をしていて。わかりました」
直巳がそうやって適当な解釈をしていると、そんな直巳を見てか、焦れったそうに美麗が話しかけた。
いまから入る場所は直巳にとっては初めての場所だ。当然、こちらにも相応の準備―心の、だが―というものがある。それに、そこまで長い間立ち止まったわけでもないのだから、そんなに急かさないで欲しい。
そんな心内とは裏腹に、すこし早足で先に建物に入ろうとしていた美麗の隣まで歩き、一緒に建物の中へ入った。
(う...暗い、な。目が...)
中は想像以上に暗く、外が明るかったせいもあるだろうが、全く何も見ることが出来ない。
「ようこそいらっしゃいませ!おや、これは美麗様ではありませんか!ということは、お隣の方は昨日の...?」
建物に入ると、自分の前方やや下の位置から、女性にしては少し高めの声が聞こえてきた。察するに、女将さんのような立ち位置にある人物で、かつ若い人物なのだろう。
まだあたりが良く見えていない直巳は、声の聞こえた方に向かって、適当に頭を下げた。ここが異世界であり、文化の相違も見られることを考慮すれば、あまり褒められた行為ではないかもしれない。とはいえ、頭を下げることが敵意を向けることには早々ならないだろう。
それに、どうやら向こうはこちらの事情を知っているらしい。ならば、自分が間違ったことをしても優しく訂正してくれると思うのは、人に頼りすぎだろうか。
「初めまして、ではないかも知れませんが...。私の名前は草苅直巳と言います。よろしくお願いします」
「くさか...なおみ?...素敵なお名前ですね!私の名前は凛とした音という意味の凛音です。今後どのような関係になるかはわかりませんが、以後お見知りおきを!」
丁寧ながらも快活で、どこか無邪気さを感じさせる挨拶を受け、直巳は肩の力を抜いた。
知らない世界と言うだけでも未知の体験なのに、さらに知らない建物に来ているのだ。それなりに信頼できるらしい人物が隣にいるとはいえ、緊張していたのも仕方の無いことだろう。
「それで、美麗様。本日はどのような...なんて、聞くまでもありませんか。...でも、珍しいですね?いつも厄介事は後回しにするのに」
「そう?ま、いいじゃない。たまにはそういう日があっても。それで...」
「はい、クロノス様は、いつもの部屋に居らっしゃいます!」
(クロノス様...ねえ。ま、名前は覚えておくか)
察するに、それが今回の目的となる人物なのだろう。会った時に自己紹介くらいはしてくれると思うが、その人物に会う前に一度だけ使いたい場面があるため、今のうちに記憶しておく。
「さっすが凛音、話が早い!それじゃ、上がらせてもらうね」
「はい!...どうぞ、ごゆっくり!」
言うが早いか、凛音の返事半ばで美麗は乱雑に靴を履き変え、さっさと上がったのを、ようやく慣れてきた直巳の目が捉えた。それは、自分の言うことが断られるはずがないと、確信に充ちた上での行動なのだろう。
「あ、直巳様!靴は私が揃えておきますので!どうぞ、気にせずお上がりください!」
(...?...まあ、いいか)
靴は揃えておく、とは言われたものの、せめてもと自分の靴だけは揃え、凛音に一礼してから、直巳は美麗の後を追った。
直巳が知識として持つ、古風な建築と同様に細長い廊下は、直巳の経験則とは異なり、走っても軋むような音をたてない。それは、刻神亭は上質な資材を用いて建てられており、また適切な維持が行われているということの証左だろう。
こういった高級旅館のような建物は、値が張るため需要が少ない傾向にある。が、供給はそれを遥かに上回るレベルで少ないので、大体の場合は多くの富裕層の客で賑わっているというのが直巳の経験だ。刻神亭もその例に漏れず、それなりに客が多いように見受けられる。ただ、廊下をうろついている客を見た訳ではないので、富裕層か、ということまではわからない。
「そう言えば美麗さん。クロノスという方はどういう方なんですか?」
「どういうって...。んー、この辺りで一番偉い人?...かな?」
「...はぁ?」
想定を遥かに超えた答えに唖然とする直巳。
何故この巫女は、今日逢いに来た人物がどのような者か、と言うことさえもおぼろなのだろうか。昨日既に実感したが、やはりこの巫女に異世界から人を召喚するような力を持たせてはいけない気がする。
というか、昨日聞いた限りでは、美麗は現人神のような部類らしいが、果たしてそれが崇める対象としてどうなのか、と疑問を持たざるを得ない。
「ゴホッゴホッ...。そ、そうですか...。...じゃあ、今日はその人のところに何をしに来たんですか?」
「んー。実は...それもよく知らないんだよね!」
(んんんんん!?知らないだと!?)
あまりに衝撃の事実に、再び声が出そうになるのを必死に抑える。先程の応答で耐性がついていたとはいえ、その驚き具合で声が出なかったことは、褒められてもいいと思う。
確かに直巳自身も、元の世界に異世界から来た人物が来たとして、その対処法など知る筈もない。もし異世界人が来たら、適当に役場など、近場の行政組織にでも連れていっただろう。無論、何をするかも知らずに。
だが、この世界では異世界人が来ることは珍しくないらしい。ならば、異世界人が来た場合の取扱説明書のようなものが、文書にしろミームしろ、いずれかの形で存在するはずである。それを知らない...否、調べないのはどういうことだろうか。いや、どういうというか、どうかしている。
直巳は膨らんだ胸に軽く手を当て、荒くなりかけた呼吸を整える。そして、こんなことは想定内じゃないか、と自分に何度も語りかけた。もちろん、これは完全に想定外の出来事だ。だが、無理矢理想定内だとすることで、精神をなんとか落ち着かせようとする。
「ふぅ...。そう、ですか。ならせめて、クロノスという人物に対して、何かしてはいけないことなどなありますか?」
「してはいけないこと、ね。んー、理由もなく殴りかからない、とか...かな?」
「...」
してはいけないことというか、もはやそれは当たり前すぎて、誰も意識すらしていない行為だろう。一体どこの世界に、そのような注意をわざわざせねばならぬ輩が存在するというのか。
(あ!でも、この程度のことをわざわざ注意するのも変な話...だよな?普通。とすると、他になにか意味があるのか?)
例えば第一に、直巳が人を殴る輩だと思われている可能性。これは、そのようなことは元の世界も含め一度もしたことがないし、昔ならともかく今の見た目―幼気な少女―ではそのようにみられるのは考えにくいことから排除。
第二に、クロノスという人物が殴りたくなるような人物という可能性。偉い人物というのは、往々にして性格の悪いことがよくある。そう考えれば有り得そうだが、先程凛音がクロノスの名を口にした時、そこには確かに敬意が含まれていたので、これも除外。
第三に、この世界では人を殴ることが極端に忌避されている可能性。しかし、それでは悪気はないとはいえ、美麗から受けた数々の暴力行為―鯖折りや関節技―の説明がつかないので、これは考えるだけ無駄だ。
とすると、やはりこれは美麗が何も思いつかなかったために、適当に言った言葉、という推測が成り立つ。
馬鹿馬鹿しいといえばその程度なのだが、裏を返せば、その程度のことしか浮かばないくらい、この世界にはタブーが少ないと示唆していることになるだろう。美麗がそこまで考えて発言したとは思えないが。
「ま、まあ、直巳が守れないなんて思ってないけど、一応ね!一応!」
直巳が怪訝そうな顔をしていたからか、少し焦り気味に美麗は補足を加えた。明らかに、何かを誤魔化そうとしている。
「わかってますよ、それくらい」
だが、美麗が何かを誤魔化そうとしているのはわかるが、それが何なのか、直巳にはわからない。なので、ここはひとまず当たり障りのない返事をしておく。
しかし、美麗の表情は良くならない。いやそれどころか、先ほどよりも難しい顔をして、こちらを観察するように見つめている。
「で、でも、私は異世界から来てますから、万が一ってことがありますし!それを美麗さんは汲んでくださったのですよね!ご忠告、ありがとうございます!」
「え...?あ!そ、そーゆーこと!さっすが直巳!理解が早くて助かる!」
先程の素っ気ない言い方が悪かったのかと、やや焦り気味ながらも微笑み―というか愛想笑い―ながら、僅かに頭を下げ、恐らくは精一杯のアドバイスをくれたのだろう美麗に感謝の意を表した。
自分の訝しがっていた表情が改善されたのが良かったのか、それとも素直に感謝したのが良かったのか、或いはその両方か、それ以外のことも関係するのか。それは分からないが、ともかく、美麗の表情は一瞬呆けたあと、元の傍若無人でお転婆そうだと感じされるそれに戻っていた。
「ま、今回のは必要なかったみたいだけど、直巳が知らないこともあるだろうし、そういう時は積極的に聞いてくれたらいいからね!」




