6
総ての光が天に昇り、辺りは平常に戻る。
しっかりと地を踏みしめたはずの足。だが、膝がひどく震える。それに驚くよりも先に大きくよろめいてグレープは派手に転倒した。
「…………っ」
露出していた肌を乾いた地に擦る。
痛みに歯を食いしばってなんとか身を起こすと、震える腕と足でなんとか立ち上がる。不安定な体勢のまま辺りを見渡した。
ここは荒野。岩石だけの世界。肌に感じる空気は乾燥していて、どこか淀んでいる。
先程のような、心地よい世界では決してない。すぐそこに危険は在る。
だが――自らで選び、進んだ。
だって、確かにここに居る。――気配がする。
「リチウムさん……!!」
微かに響いた鈴の音に、リチウム達はすぐに反応した。
「リチウム! グレープの声!!」
「やっぱ近くにいたか……!」
微かに響く彼らの声を頼りに、グレープはよろよろと歩き始めた。
「…………?」
身体が、どこかおかしい。
痺れているように、何も感じない。
――いや、全身が異様に軽いのだ。
感覚が掴めない。これは、本当に自分の身体か。
如何なる動きに対しても、謙虚なまでに自身を襲う小さな違和感に首を傾げながらもなんとかグレープは崖淵までやってきた。
遥か眼下に――魔族と対峙しているリチウムとリタルの姿が見える。が、その光景にグレープはギョッとなった。
これは何の冗談か。魔族に囚われたリチウムの背後で、リタルが銃を構えているではないか。
こんなのまるで悪夢だ。グレープの思考はそこで総て飛んだ。
「リチウムさん! リタルさん!!」
叫ぶや否や、ぐらりと揺れる身体。崩れるように地に沈んだグレープの身体。
――落ちる……?
辛うじて倒れる前に両手を崖淵に着くと、再び身を乗り出して全身で叫ぶ。
「大丈夫、ですか……!?」
「無事か! グレープ!」
「グレープ!! あんた大丈夫なの? 怪我してない!?」
三者三様、互いの身を案じる声がほぼ同時に飛び交う。
グレープは苦笑した。あんなとんでもない状況でさえ彼らの声はいつもの彼らだった。緊迫した状況下で何故か気が緩んだ。
「はい……っ はい、大丈夫ですっ」
「よっしゃ! そこにいろグレープ!」
喉を圧迫され、それでも渾身の力で叫んだリチウムは、眼前の敵に集中した。
向けられた強い眼光に、狼人は思わず怯む。
「俺様がなんとかしてやる!」
「……いやです……っ」
間髪入れずに降って来た鈴声にずっこけるリチウム。
「な、何……っ?」
「いやなんです、私もう、……見ているだけでは、駄目なんですっ 私だって…………何か……っ」
「…………?」
「何か、したいですっ」
それは、全身から搾り出したような、悲痛な叫びだった。
「……グレープ……?」
リタルの驚いたような声があがる。
大人しい彼女が他者の意見を遮ってまで自己主張するのは、三ヶ月間共に暮らしてきた中で初めての事だった。
呆けていた、その時――
リタルの頭の中で、すでに全身を支配していた何かが再び蠢く。
「……っ」
瞬時に全身を伝う悪寒。
リタルの抵抗も虚しく、そのか細い指が……今。引き金にかかった。
銃口の先は、狼人に首を掴まれ身動きの取れないリチウムの後頭がある。
気配に気づいていないのか、リチウムはグレープの言動に対し不敵に笑んでいた。狼人の口端が、僅かに上がる。
「上等だ! ……ンじゃ」
「はい」
「そこで祈ってろ!」
「…………え……?」
訝しげな声を上げたグレープの耳に、
「リチウム避けて!!」
リタルの悲痛な声が劈いた。
一瞬後、乾いた銃声が轟く。
「……っ!」
少女達の視界の中心で、リチウムの全身が、大きくブレた。
「リチウム!」
「リチウムさん!!」
確かな手ごたえに狼人は勝ち誇る。
が、その表情は一瞬にして凍りついた。
「なに……?」
狼人の視界の隅で、崖の上から転げ落ちる何かが見えた。
「きゃあ……っ!!」
思わず身を乗り出したグレープがバランスを崩して崖から落ちたのだ。
自身の仕留めた男の最期に興味を失くしたか、それよりも重要な何かがあったか。狼人の眼には、既にリチウムは映っていなかった。
「馬鹿な、奴は一体何を……!」
何事かを小さく呟いて、リチウムを拘束したまま別の腕を上げ……かける。
しかし、
「…………この……っ」
たった今後頭部を撃たれ脱力した男が突如活力を取り戻したかと思えば、
「~犬野郎っ!!」
渾身の力で狼人の腹を蹴りつけ力任せに豪腕から逃れた。
リタルと、狼人は、目を丸くした。
呆然と、未だ動き続ける彼を視界に入れている。
思考が追いつかない。
…………生きている……?
「……そうか貴様! 体内で発動させたか!」
そう。
魔力を発動させる時、全身を流れる魔力は体内から体外へ、その出口に向かって恐ろしい速さで流動する。狼人はこの流れを感知する自信があった。ましてや『死球』を発動させる程の強大な魔力量である。感知出来ないはずがなかった。
微量でも魔力の流動が感知されれば、リタルが消されてしまう。考えた末リチウムは、『死球』を体内で発動させたのだ。
それも、最小限の魔力量で。
魔力は通常時にも体内を流動している。彼はそれを利用した。
狼人がグレープに気をとられている隙に、リチウムは背後に意識を集中させていた。
自身に向かって放たれる魔弾は、着弾後対象内で魔力を発動させる代物だ。だから、勢いを利用して着弾と同時に弾を消し去ろうと考えた。
リタルの叫び声。一瞬遅れて、目にも留まらぬ速度で空気を裂き何かが接近する。その、魔力を秘めた極小の弾の気配を、リチウムは超人的な感覚で感知する。
瞬時に、予想される着弾地点――体内に在る魔力だけを認識。
意識を集中させ、到達した異物が体内に侵入する瞬間、体内で『死球』を平面展開。限りなく薄く張った『死球』の網にかかった異物の、それでも奥深く侵入しようとする力を利用して、リチウムは体内の脅威を完全に消滅させる事に成功した。
他人の頭部に触れその内部で『死球』を発動させその人物の持つ記憶をも消去するという度外れた真似をする自身に自信が無かった訳でもなかった。が、それでも初の試み。様々な危険性を考慮……する余地なんてそう無かったが……して、この方法なら万一『死球』の操作に失敗したとしても自身以外への影響は少なくて済むだろう。そう彼は考えたのだ。
これが、着弾したにも関わらず、リチウムがぴんしゃんしているカラクリであった。
瞬時に悟った狼人がすぐさま人質の消去を実行に移すが、それは一瞬遅かった。
闇を従えたリチウムの左手が、未だ事態に着いていけていないのか呆けた表情のリタルの頭に伸ばされる。
瞬間。
「…………グレープっ 来なさい!!」
リチウムの手が触れ彼の生を実感したか、『死球』により脅威から解放されたリタルは瞬時に覚醒し、左手を掲げた。
生じるエメラルドの輝き。今まさに地面に叩きつけられようとしていた少女の華奢な身体が包まれ――リタルの背後に、グレープが現れる。
途切れかけた意識が繋がり、重力が戻ると同時によろけるグレープの身体をリタルが支えた。
まさに、一瞬の出来事だった。
「……さて。形勢逆転ってか」
静かに響くバリトンの主を、狼人は忌々しげに睨みつけた。
「俺様的にも一か八かの賭けだったんだが……こうも上手くいくとは思わなかったぜ」
そして、狼人はその目をぎょっと見開く。
目の前の男が、闇を従えていた。
いや、その左手に在るのは――無だ。
黒よりもなお黒く。深い。そして。
それは一瞬で――
「……っ」
急激に膨らんだ。
視界を埋め尽くす程の巨大な虚無。
「……馬鹿なっ」
そして、狼人は視る。
リタルの背後――両手を胸の前で組んだグレープが全身に纏う、青白い光に。
「そうか、『増幅』の力……!!」
呟くや否や、鋭い眼光をリチウムの背後の少女達に向け――その力を行使する。
それよりも早く、
「二度もくらうか!」
狼人の目前に転位したリタルが、構えた銃でその双眼を撃つ。
だが、狼人は抜群の反射神経でこれを避けると、リタルを捉えようと豪腕を彼女の片足へ伸ばした。これをリタルが、小さなクッションを投げつけて阻止する。
「……な!?」
小さなクッションは狼人の顔面に当たると、途端、巨大なマットに変化する。
「寝てなさい……っ」
狼人との境に現れた巨大マット目掛けて、着地後高く跳躍したリタルのドロップキックが炸裂した。
反動で小さな身体が跳ね飛ばされると同時に、同じ力が反対側にも掛かった。これには面していた狼人も成す術も無くマットと共に跳ね飛ばされる。
狼人より早く着地したリタルは、無理な体勢のまま再び『転位』の石を掲げた。
「いくわよリチウム!」
輝くエメラルドは、狼人をマット毎、リチウムの目前に転位させる。
「……!?」
現状を瞬時に把握し慌てた狼人は、即座に自身の目の前の空間を歪ませ人界に通じる孔を開ける。
が、その孔はマットのみを目標と定めたか、マットを掻き消すや否や瞬時に収縮してしまう。
「ま、待て! それではな……!?」
「てめぇの魔力じゃねぇもんなぁ……。そりゃあ、制御も難しいだろうよ……!」
狼狽した声に、冷たく告げる声が重なる。
「…………!」
閉じゆく空間の孔。視界を塞いでいた巨大な障害が消えた向こうに、青い双瞳があった。
強い青は殺気と共に痛い程鮮やかな光を放ち。
――今、狼人の脳裏に、刻印のように焼き付く。
リチウムの右手が伸び完全に無防備な顔面を掴んだ。狼人の視界はそこで塞がれる。
後ろに引いた左手の中で、巨大な無が急速に収束する。
「俺様の手下に手ェ出した事! 消え去る瞬間まで後悔しやがれ!!」
叫びと共に掌毎、小さな『死球』が狼人の腹に打ち込まれた。
崖の上から、冷静に見下ろす二つの褐色の瞳。
「……だから、忠告してやったのだ。
幾ら我の肉体を奪い魔力を行使しようと、貴様では無理だと。
目標を追うばかりに魔族の在り方をも捨ててしまった貴様はもはや尊厳死も望めまい。
……認めてやろう。ククミスに取り憑かれた貴様は実に哀れな存在だった」
死が数秒前まで迫った、かつて自身を支配していたモノに冷たく告げると、鷹人は歪んだ空間の中に姿を消す。
リチウムが掌に従えた『死球』は、狼人の腹に押し付けられて一瞬、その体内に吸い込まれ消失したかのように見えた。
――直後。狼人の体内で、無が、暴力的に膨張する。
「…………!?」
押し付けられたそこに痛みなどなかった。
いや、痛みどころか。
何も失い。
何も無い。
無い。
ない、
ない。どうしよう。どんどん、競りあがって来――
「 」
狼人は、その脳裏に青い二つの強烈な光を焼き付けたまま膨張した無に呑まれ――
今。完全に、消失した。




