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「…………っ」
飛び起きてしばらくグレープははぁはぁと、荒い息を繰り返していた。
「……夢?」
肩を撫でる蒼い毛束。噴き出しては雫となって頬を伝う汗。いつの間にか身体は白い滑らかな手触りの布に包まれていた。
指先に触れる地の感触がやけにふわふわしている事に気づく。
濃い霧が、特に下方に溜まっていた。自身の下半身ですら白い靄に呑まれて見えない程だ。雲の上にでも居るような妙な気分だった。
「…………ここ、は……」
荒い息を落ち着かせ、辺りを見渡す。
乳白色の世界は相変わらず狭かった。
先程見た夢の世界と違うのは、霧がかった向こうに微かに外界が見てとれる所か。
球界の外は、殺風景な岩肌の世界。比較的霧の薄い天を仰げば、濁った青が広がっている。
見知らぬ場所だという事しか判らなかった。
「目覚めたか」
驚く程すぐ側にソレはいた。
その姿は大きな鷹だった。鋭い目と先の湾曲した鋭利な嘴。丁度グレープの目線の高さに頭部がある。しかしよく見てみると、鷹の部分は頭だけである事に気づく。肉体は人間のそれであった。霧世界からでは上半身しか確認できないが、衣服を纏わぬ上体は筋肉質で、褐色の皮膚が筋肉に基づいて隆起している。
まるで人が精巧に出来た鷹のマスクを被っているようだった。実際グレープは一瞬それを疑った。マスクを取ってこちらを驚かせようと絶好のタイミングを計り、待ち構えているのではないだろうか。
……残念ながら、そうではないらしい。
球体の隣で腕を組み目線だけを寄こして、こちらの様子、状態を確認しているその眼差しが、どこまでも異質であった。褐色の眼球の中央に鎮座する漆黒の点は、対象の深部まで射抜き硬直させるまでに至る威圧を放つ。強すぎる眼光は、決して人間のものではない。
しかし不思議なことに、敵意は微塵にも感じられなかった。
「この球体は、お上が創ったモノだ」
「おかみ?」
「どれ程破壊されていようが完全に復元させるそうだ。元の状態に修復するまで」
「……破壊?」
そこで、ようやく記憶が呼び起こされる。
犬の胴体に追い詰められたクレープ。駆けつけてくれたトラン。
クレープは上空で幾度も背中を裂かれ、二人は追い詰められ、ついに宙より落下した――
「クレープさんとトランさんは!? 無事なんですか!?」
球体の中、柔らかな感触の壁に両手を付き半立ちになる。少し驚いたように瞳孔を収縮させた鷹人は、しかし何事もなかったかのように正面に向き直った。
「我の役目は、魔界に送り込まれた目的の保護、連行だ。その過程や、他の末端が仕出かした事態の顛末など、我の知り得るところではない」
「……そんな」
鷹人の感情を見せぬ淡々とした口調にグレープは愕然と俯いた。
クレープは、大丈夫だろうか。
どれほどの傷を受けようとそれは肉体を保有している自分がダメージを受けるだけであって、離脱したクレープ自身が傷を負ってしまった事はこれまでなかったのだが……いや、なんのダメージも無かったなどと本当に言いきれるだろうか。ダメージがあったとしても、それを見せないのがクレープなのだ。その身に傷を負う事は無くても痛覚は鮮明に残るのではないだろうか。
クレープは確かに強い。だからこそ生じる脆さがある。そのことをグレープは誰よりも理解している。
優しさ、楽しさ、痛み、悲しみ、苦しみ、怒り。同一の身体に在る中、心と心が密着した状態で、その触感を通してクレープという存在を認識する。
時には温かく、時には冷たく。熱く、痛い。
しかし、内に持つ激しい感情をクレープが直接グレープに訴える事は無かった。
だが口にしなくとも、グレープは察する事が出来る。あらゆる痛みを受け、耐え続け、故に震えている。痛みを避ける事なく、漏らす事も無く。ただ総てをそのまま受け入れる。それが出来るクレープは強い人間だ。だからこそ、傷だらけの彼女は脆い。
だからグレープは、クレープを支えたいと願う。そうやって互いの精神が、心が重なるように同調を果たす事で、クレープは『増幅』の能力を発揮する。
今回は……いつものように支えることすら出来なかったのだが。
自分には落下直後から記憶が無い。決して楽観視出来ない状況であった事は確かだ。
しかしこの身体には、落下の際に負ったであろう傷は愚か、背中の裂傷さえ何一つと残っていない。幾度も背を裂かれた記憶、その痛みだけは鮮明に残ってはいたが、どうにも傷を負ったという実感が湧かなかった。あの出来事が全部夢であったかのような。
体内に居ながら実際に動いていなかった為か、記憶が余計希薄に感じられる。
その為だろうか。こんなに不安を感じるのは。
自分の意識が無いところで何か、取り返しのつかない事が起きたのではないだろうか。
…………また。
「自身の心配はしないのか?」
横からかかった声に思考を裂かれる。
顔を上げると、鷹人は鋭い目を正面に向けたままだ。
「修復が完了次第、お上より二通りの命を受けている。未来は状況に応じて変わる」
「命?」
「このままいくと、おまえをお上の元へ連行することになっている」
「……おかみって」
「我等の主だ」
「主」という聞きなれない言葉をつい先日耳にした覚えがある。『死球』を求めて人界に来た蜘蛛の魔族が何度も口にしていた事を思い出すと、グレープはまじまじと鷹人を見た。この外見からして鷹人は魔族だろう。あの蜘蛛の魔族の仲間だったのだろうか。だとしたら主とは……。
「主とは、『死球』の事では」
「『死球』は、かの主だ」
グレープはますます困惑の表情を浮かべた。
あの時大蜘蛛は『死球』こそを主と呼び、取り戻そうと自分達を狙ってきた。
あの事件から今日までの間で、主が変わったのか。
それとも、鷹人らは大蜘蛛の仲間ではないのだろうか。
浮かんだ問いに、しかし鷹人は答えない。グレープは仕方なくぺたんとその場に座り込んだ。
鷹人に命令しているという今の主――オカミの目的は一体何なのだろう。
自分を捕らえ治療するよう命じた理由も解らない。『死球』を手に入れるための人質……にしては、何か妙だ。
鷹人の話からするとここは「魔界」で、彼は自分を連行、保護しろというオカミという存在の命令で動いているという。自分を見る鋭い視線に殺気は全然感じられないから、それは真実なのだろう。さらに、オカミの元へ連れて行くのは「修復が完了次第」とも、鷹人は言っていた。
既に、どこをどう動かしたって身体はどこも痛まなかった。もう身体の重みも無ければ熱っぽさも引いている。見ると、装着していた手袋の光はすでに消失していた。調子は快調……いや、普段よりも軽い位だ。この分だと移動はもうすぐ。この事態を目論んだオカミという者がどういう存在なのかはすぐに判る。ただその時を待つ事しか、今の自分に出来ることはない。
もう一度、視線を手袋に落とす。
彼らは、どうしているのだろうか。
まだ戦っているのか。無事なのか。怪我なんてしていないだろうか。大丈夫だろうか。
自分一人だけがのうのうと、こんなところで回復してもらっている。
このまま魔界に居ては、知り得る事も……もう出来ないのかもしれない。
「…………ごめんなさい」
視界を閉ざす。
いつだって、自分は無力で。事態を混乱に陥れるような真似ばかりして周りに多大な迷惑ばかりかけてきた。
半年前。クレープが来る前まで、自分は独りだった。
進んで、一人になろうとしていた頃もある。だって独りはとても楽だったのだ。誰にも迷惑や負担をかけない。楽しげな空気を、自分が入る事でぶち壊したりすることもない。
だから、一人増え、二人増え。クレープ、リチウム、リタル、トラン。三ヶ月前から今のみんなで暮らすようになって、最初はとても戸惑った。
案の定、自分は迷惑や負担をかけまくる。そのたびにグレープは謝り続けた。彼らの前から去ろうとした。だが、彼らは「責任とれ」だの「逃げんな」だのブツブツと文句を言いながら、それでも決して離れようとはしなかったし、離れようとする自分を許しはしなかった。
溜息をつきながらも、仕方なくではありながらも、結局は「ほら」と伸ばされる手。
……そんなはずはない。
こんな自分、居ない方がいいのだ。
まぁ、焦らずともまた、すぐに別れが来る。
また、すぐに離れる。
また、すぐに――
……好きになっては、駄目なのだ。自分は。
そんなことになれば、きっと恐ろしいことが待っている。
いつもそんな漠然とした不安に囚われていて。それがなんであるのかわからずに、ただ怯えていた。
……でも。いつからだろう。
それでも厭きずに伸ばされ続ける手を、躊躇いながらも握り返すようになったのは。
騒がしくも賑やかで、おもしろくて楽しい、お祭りのような鮮やかな色を放つ。そんなみんなが騒ぐのを……見ている事が好きになってしまった。
もっと見ていたいと思った。そんな小さな欲が、いつしか膨れ上がって不安を押さえ込むようになった。
それぞれの個性が強すぎて、一見、不協和音。だが、いつの間にか居心地の良いハーモニーとなっている。いつの間にか、全員が一緒に居ることが自然で当たり前のように感じられた。
そんな中で、彼らはそれぞれの態度、それぞれの言葉、それぞれの反応を自分に示す。自分もここにいてもいいのだろうか。そう思わせてくれる、それはなんて心地よい。なんて温かな空気。穏やかな、夢。
いつからだろう。それは、自分にとってとても大切なものになっていた。
いつまでも尽きなければいい。放っておけばすぐにでも湧き出る不安に対抗するように、そう祈るようになった。
かけがえの無いたった一つの世界。独りのままじゃ決して知り得なかった愉しさを、両の掌で抱くように包み込んで。
このまま、このまま。どうか、このままで。
決して壊したくなかった。だから、せめてじっとしていた。自分が動くことで、行動することで、発言することで、瞬きをすることで、息をすることで、何かを考え、何かを思い出して……そうした小さな衝撃が積み重なってやがて、総てが崩れてしまう――それが、とても恐かった。みんなと笑い共にはしゃぎながらも心のどこかではずっとそんな恐怖が渦巻いていた。だって。
何故なのだろう。やっぱり自分のやっている事は――ここにいることは、とても、いけないことのように思えてならなかったから。
嫌だったんだ。
愛した世界が、バラバラに砕けてしまう事。
底なしに怖かった。
けれど同じ位に。自分が世界の中に存在していることが、堪らなく嬉しかった。
きっとそれだけでもう。十分だった。
瞳を開く。
赤い瞳は、もう誰も映さなかった。
一人だ。
戻ったんだ。
もう、誰も居ない。
これは、どこかで恐れていた、……そしてどこかで予感していた事態だ。
自分はここから逃れる術を持たない。持たない……はずだったのだ。今までが奇跡だったのだ。
例えば、自分がこのままみんなの下に戻る事が無くても……その方が、良いのではないか。
自分ひとりが居なくても、彼らは決して困らない。
少しの寂寥と、どこか、安心感。
この安堵は、これ以上の禁忌を犯し、バラバラになってしまう――その不安から解放されたためなのだろうか。
けれど。
それは、なんて……。
……と、唐突にどこからか爆発音が耳を劈いた。
近い。
球体の中で振動は感じなかったが、それでも景色は揺れ、音は十二分にその威力を告げた。
「……今のは」
「始まったか」
「え……」
「おまえの仲間だ」
淡々とした鷹人の声に、赤いルビーが大きく見開く。
「魔界に侵入した事は把握していたが……まぁ、そう長くは持つまい」