結婚の定義
エレベーターのB2のボタンを押すと、真理子さんはしばらく黙っていた。沈黙の重苦しさに息を潜める。そして。
「困った人」
ぽつりと零れた一言が、真理子さんとCNPの仲を想像させた。恋人? だよな。LINE電話で連絡して、マンションの鍵も持ってたんだもんな。ももしお残念。おっさんには熟女だよ。それにしても美人。
「あの、お一人だと車から降ろせませんよね。一緒に行っていいですか?」
図々しい申し出をしてみた。
「大丈夫? お願いしてもいいですか?」
真理子さんは申し訳なさそうにミナトとオレを見た。
マンション地下2階の駐車場に白い軽のワゴン車があった。かわいい犬の絵と「しのはら動物病院」の文字が書かれていた。ミナトとオレは、CNPを抱えて荷台に乗り込んだ。
真理子さんがCNPの変色した左手を手に取ると、目を閉じているCNPの顔がびくっと痙攣した。
車はほんの15分ほど走ってこじんまりした「しのはら動物病院」に到着した。
真理子さんは玄関脇の車庫のシャッターを開け、車を入れた。シャッターを閉じてしまえば、車から人を運びだすところは通りから見えない。車庫からは直接病院の診察室に入れる造りになっていた。
CNPをレントゲン室に運び、畳1畳ほどの大きさの台の上に乗せた。
「……ん」
CNPの意識が戻った。
真理子さんは鋏でCNPのTシャツを切った。現れた肌には複数の殴られた痕。その痣を撫でて真理子さんは涙を浮かべる。鼻をすする音と溜息が聞こえた。
「真理、子?」
「痛いのはどこ? 左手とお腹の上の方? 目は見えてる?」
涙を浮かべていても、てきぱきとCNPに尋ねる真理子さん。
「左手、思いっきり踏まれた。殴られた……体中」
「腕と脚は?」
「腹」
レントゲン室にCNPを残し、撮影。レントゲンの映像は、即、診察室のパソコンに転送されていた。
右の下から2番目の肋骨にひびが入っていた。左手の手の甲の中指に繋がる部分と薬指に繋がる部分の骨。その他は打ち身と擦り傷。
レントゲン室から診察台に運ぶと、動物用だからか、台からCNPの膝から下がはみ出てぶら下がった。真理子さんは骨折した左手を丁寧に処置していた。
「あの、骨折してるとこ以外は拭いてもいいですか?」
あまりに汚れていたから聞いてみた。口の周りには血の塊なのか泥なのかよく分からないものがたくさん付いている。
「ありがとう。お願いしていい? タオルはあそこにあるのを使って」
タオルで拭く前にティッシュでCNPの口元を拭くと、ぱらぱらと汚れが剥がれてきた。
「吐いたの?」
「殴られたとき。それと、口の中切れた。ああ、ありがとう」
真理子さんの問いかけに答えるCNP。剥がれてきたのは血や嘔吐物が固まったものらしい。CNPはさっきより普通に話せるようになっていた。
「友達がご迷惑をおかけしました」
ミナトがももしおのことを謝罪した。
「オレが勝手にやっただけ。こっちこそ、お世話になって。痛っ」
「いえ、とんでもありません」
「昨日、黒岩さんが連れて行かれて、その友達がすっごく心配してたんです。連絡してもいいですか?」
「もう大丈夫って伝えてあげて」
CNPの許可を貰い、オレがももしおに連絡しようとすると、ミナトは目配せして、視線で真理子さんを指した。んーっと。ももしおに真理子さんのことは伝えるなってこと? 取り敢えず、CNPが帰ってきたってことを知らせりゃいっか。
『おっさん、戻って来た』
手短に。
ぶぶぶーぶぶぶー
即行でももしおから電話がかかってきた。
「はい。ももしお?」
『どうなったの? CNPさん、大丈夫?』
「あー、今手当してる」
『行く』
「マンションじゃねーって。病院だから切るぞ」
ぷっ
ぶぶぶーぶぶぶー
またももしお。
「大丈夫だって」
『どこ?』
「教えない」
ぷっ
またかかってきそうだったから、スマホの電源を落としておいた。
時刻は8時45分。
CNPの処置は一旦終わって、顔にデカいガーゼ、左手は石膏で固められていた。肋骨が折れているというのに、胸には包帯が巻かれていない。肋骨のひびは、そのままにしておくか、コルセットをつけるくらいしか対処できないとのこと。
「犬用のコルセットしかないの」
「大丈夫。じっとしてる」
「あ、これ、飲んで」
「犬用?」
「大丈夫。作ってる製薬会社は人間と一緒だから」
真理子さんはCNPに錠剤を6粒渡した。
「なんでこんなにいっぱい」
「超大型犬よりも大きいから」
「……」
ミナトがコップに水を入れて持ってきた。CNPは顔をしかめながら半身を起して、渋々薬を飲んだ。
「もうすぐ助手の子が来るから、2階へ行ってて。動ける? あ、左手はそっとしておいて、まだ石膏が固まってないから、治療の途中だから」
ミナトと2人でCNPに肩を貸し、階段を上った。 2階が住居スペースになっていた。
白で統一されたシンプルなインテリアは、CNPの黒で統一された部屋と正反対の色なのに、ただのオセロの裏と表というように同じ印象を受けた。
「どんな姿勢が楽ですか?」
「これでいい」
CNPはソファに仰向けに横になった。
階下から「おはようございまーす」と助手らしき女性の声が聞こえた。
「もう大丈夫なんですか? それとも、まだ終わってないんですか?」
踏み込んではいけないのかもしれない。でも、聞かずにはいられなかった。
「終わった。懐がでかいんだよ。もう抜けろってこと」
「抜ける」って、暴力団組織からってことなんだろーな。
「その結果でよかったんですか?」
ミナトが念を押すように聞いた。
「よかった。よかったよ。昔、株で借金作って、首が回らなくなった。真理子とも、あ、手当してくれたのは、元嫁。オレといたら共倒れんなるから、離婚してもらったんだ」
「奥さんだったんですか」
「どうにもならなくなって、怪しい所から金を借りて、気づいたら暴力団の資金を作る為に株を売買してたよ。で、このざま」
つまり、ももしおを株の暴落から助けた金は、暴力団の資金だったってことか。
「昨日、いくら損したんですか? 友達は100万くらいだろうって心配してました」
「ひどいなー、うさぎちゃん。プラス87万だよ」
「プラス?!」「87万……」
これが神なのか。
「ただね、先週金曜に手仕舞いするように言われてた」
「金曜日に、もうですか? 日経平均が下がり始めたのは、昨日の後場の途中からでした」
株の知識があるミナトが難しい単語を繰り出す。
「会議の日程が分かっていたから、結果が出る前にってことだよ。そんなトップシークレットを教えてもらったのに、小さな企業に結構な大金ぶっこんだからね。信用なくした」
「ご迷惑をおかけしました」「本当にすみませんでした」
「いいんだ。久しぶりにエレベーターみたいに動く株で勝負できて楽しかった。昔のリベンジにもなったし。なにより足を洗えた」
ミナトと2人で再度頭を下げた。
ちょっと待った。だったら、石爺やその他の老人には、何をしてたんだ?
「あの、1つお聞きしたいんです。石野さんには、何をしてたんですか?」
「はははは。セコイこと言いつけられたんだよ。古希特湯制度で金を増やすために、爺さんらに口座を作らせて、金を寝かせてる。大金を入金すると色々と問題があるから、微々たるもんだよ。それも終わりだよ。オレが持ってた爺さんらのキャッシュカードも取られた」
オレが祖父に頼んだことと同じじゃん。セコイって言われちまった。
「石野さんは、タバコが貰えたって喜んでました」
「タバコも高くなったもんな。ま、セコイ仕事は、下の方のヤツラが小遣い欲しさに考えたことだ。ときどき残高をチェックしてたんだよ」
「カードを持ってるなら、自分でできるのにですか? 残高照会ならネットででもできますよ?」
ミナトが指摘した。ホントだ。なんでわざわざ。
「監視カメラに映る。ネットで接続すると個人を特定される。そこは気をつけないと。繁華街にはそこら中に監視カメラがある。監視カメラの死角で接触するようにしてた。もう終わったけどね」
悪いことをするのも大変なんだな。確かに、監視カメラは至る所にある。CNPが石爺とコンビニの外でやりとりをしてたのは、そういうわけだったのか。
オレ、もう1つ聞きたいことがあるんだよな。
「あの、前に西口五番街の辺で石野さんと話してる時に、女の子2人が邪魔したのを覚えてますか?」
「ああ、あったね。そんなこと。女子高生が」
「それ、この間、恵比寿で会った2人だったんです。気づいてました?」
男だったら、あんな美少女忘れないと思って確認したかった。
「そうだったのか。全く気付かなかったよ。若い女の子って、みんな同じに見えるんだ。ナントカKBとかも全員、区別がつかなくて。歳をとるとね、そんなもんだ」
まじか。考えられん。ももしお、重ね重ね、残念。
じゃ、ももしおが可愛いから助けたってことじゃないわけね。
ぐるるるる きゅーー
オレのお腹が激しい空腹を主張した。
「あー、腹減るよな。こんな重いおじさんを運んでくれて」
「そんな」
「大丈夫です」
「キッチンの上の戸棚にラーメンやパスタがある。鍋は下。ご飯もあるはず。冷凍室には作り置きのおかずがあると思う」
「そんな」
「大丈夫です」
「頼む。オレも食いたいから、じゃ、パスタ作って。この体じゃ作れない」
「「はい」」
「まるで離婚してないみたいですね」
「結婚の定義なんて紙切れ1枚。そんなもん。週の半分以上はここに住んでる。結婚してると財産は1つになる。だから、借金も2人で抱えることになる。早めに離婚届け出して良かったよ。この診療所を開業できた」
世の中、知らないことだらけ。普通に暮らしてたら、知らなくてもいいことなんだろな。




