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「殿下……」
「うん? どうかした?」
「お店がいっぱいです」
「そうだね」
「人もいっぱいです」
「そうだね」
待ちに待ったお休みの日。
上機嫌のお母様に見送られて、迎えに来た殿下の地味な馬車にレオンスお兄様と乗り込んでやって来たのは、ルルシエヌ通りにあるお店の裏手。
そこから少し歩いて、以前迷子になった大通りに出てきたわたしは、興奮のあまり馬鹿なことを口走っていた。
あの時はたくさんの人が怖くて、半泣き状態で歩いたけれど、今はとてもわくわくしてしまう。
それはきっと、隣に殿下と少し離れた場所にお兄様たちがいるからよね。
今日の殿下は帯剣していなくて、周りにいる男性たちと同じような格好。
それなのに雰囲気が上品というか、どこか違うから注目を浴びているみたい。特に女の子から。
その女の子たちと、わたしも似たような格好なのは、マイアが用意してくれたもの。
お母様はあまりいい顔をしなかったけれど、お兄様が口添えをしてくれて、問題にはならなかった。
クラエイの村でコレットさんに借りていたような服だから、けっこう馴染んでいてわたしもなかなか様になっていると思うのよね。
それに何より動きやすくて好き。
「エリカさん、今のうちに露店を見て回ろうか。午後になるとかなり混むから」
「はい、わかりました」
しっかり頷くと、殿下が手を差し出してくれた。
また迷子になったら困るものね。
あのとき程の人はいなくて、まだ馬車も通り抜けられるけれど、念のため。
「お願いします」
「……うん」
殿下としっかり手を繋いで歩き始めると、興味を引かれるものがたくさんあって、ついきょろきょろしてしまった。
クラエイのお祭りも楽しかったけれど、その比にならないくらいの露店の数なんだもの。
うむむむ。あれもこれも気になるわ。
「せっかくの機会なんだし、遠慮せずに気になるものは片っ端から見ていこうよ」
「いいんですか?」
「もちろん」
殿下がこんなに親切だなんて。
ううん。本当はもう気付いている。
殿下は意地悪だけれど、すごく優しい人だって。
困っているときにはいつも助けてくれる、とても信頼できる友達。
「ありがとうございます、殿下」
「うん、どこに行きたい?」
「どこと言うか……この香ばしい匂いは……」
「ああ、それはあそこだよ。あの肉を焼いている店」
「お肉? 露店でお肉まで売っているんですか?」
「ここの市には何でもあるからね。食べ物だけでなく、日用品から武器や家畜まで揃っているんだ」
「家畜まで!?」
「そうだよ。ところで、あのお肉、食べてみる?」
王都の市の規模に驚いていると、殿下があの香ばしい匂いのする露店を指さした。
うむむむ。とてもとても心惹かれるお誘いだけど……。
「いいえ、やめておきます」
「どうして?」
「あの……お昼前ですし、やっぱり……」
「そう? じゃあ、やめておこうか。他にもチュロスみたいな軽いお菓子もあるしね」
「はい」
本当はすごくすごく後ろ髪を引かれるけれど、仕方ないわ。
さすがに往来で立ったままお肉にかぶりつく勇気はないもの。
それからも色々と殿下に勧められはしたけれど、やっぱり立って食べることはできなくて遠慮した。
変装はしていても、なぜかクラエイの時のように羽目を外せないのよね。不思議。
殿下はびっくりするくらい街に詳しくて、わたしの質問にしっかり答えてくれる。
だから十分に市は満喫できたし楽しかった。
歩き疲れてきたところで、最初のカフェに入る。
そこはとってもお洒落な内装で、本で読んだ通りのお店だった。
しかも軽い食事もできて、お昼を頂く。
ああ、幸せ。
デザートは追加したいくらいだったけれど、このあと他のカフェにも行くから我慢。
「幸せそうだね」
三軒目のカフェで、最後のプティフール・フレを口に入れたところで、殿下がやんわり微笑んで呟いた。
ふむむ。それはもちろん当然なんだけれど、ちょっと待って。
これを味わってからじゃないと、口を開けられないわ。
「――カフェをこうして何軒も〝はしご〟できて、とても勉強になりました。ありがとうございます、殿下」
「それは良かった」
「はい。でも……お兄様たちには付き合わせてしまって、申し訳ないです」
「ああ……。レオンスたちも、ある意味〝はしご〟には慣れているから、大丈夫だろう」
「近衛の方たちもカフェに行かれるのですか?」
「いや、彼らは……」
殿下は何か気まずげに言いかけたけれど、お店の入口の方が急に騒がしくなって振り返った。
わたしも気になってそちらに目を向ける。
どうやらお客さんと店員さんが何か揉めているみたい。
慌てて店長さんらしき人が駆けつけていた。
「ひとまず出ようか」
「はい」
このお店はすごく人気らしくて、わたしたちも席に着くまでにしばらく並んだから。
あまり長居しては悪いもの。
殿下が目で合図するとすぐに店員さんがやって来て支払いを済ませる。
今回の支払いは全て殿下に任せてしまっているのよね。
だから、あとできちんと清算してもらわないと。
わたしだって、ちゃんとお金は持ってきたんだもの。
席を立ってお店を出る時、揉めている人たちから庇うようにして殿下が先に通してくれた。
そこに、神経質な男性の声が耳に入ってくる。
「どうして並ばなければならないんだ。私は男爵だぞ? その私がこんな店にやって来てやっただけでも君たちは礼を言うべきだろう! それが何だ、待たされるなどと、失礼極まりない!」
「失礼なのはあなたのほうよ」
思わず口をついて出た言葉は小さい声だったけれど、しっかり男爵の耳に届いたみたい。
ぎろりと男爵の目がわたしへと向いた。
「何だって?」
しまったわ。今日は騒ぎを起こさないって約束したのに。
何があってもおとなしくして、余計なことには口を挟まないって。
だけど身分をかざして自分から特別待遇を求めるなんて間違っているもの。
「そこのお前、今何と言った?」
「あの――」
「彼女はあなたの失礼極まりない態度を指摘しただけですよ。もちろん僕も同じように思っていますがね」
真っ直ぐにわたしを指さして、男爵がもう一度居丈高に問いかけた。
それに答えたのは殿下。
わたしを傍へと引き寄せて前へと出てくれる。
それに入口付近で待っていてくれた騎士たちがさっと近づいてくるのが見えた。
また殿下たちに迷惑をかけてしまった。
そう思ったけれど、なぜかしら。
今度ばかりは殿下も積極的な気がするわ。
「何を貴様、偉そうに……私を誰だと思って――」
「よく存じ上げておりますよ、トルベン・ライモンド男爵。あなたの御先祖はトンブランケの戦いで功績を上げ、クリストフⅡ世陛下に男爵位を授けられたのでしたね。そして先代のライモンド男爵であるあなたの御父上はとても立派な方でした。ですが、後継者には恵まれなかったようだ」
「ぶ、無礼な! 私を知っていてなおその態度、不敬罪で縛り首に――」
「それ以上はおっしゃらないでください、男爵。それにヴィーも、わたしを庇ってくださるのは有難いのですが、何度縛り首を言い渡されれば気がすむんですか」
二人の間に割って入ったのはわたし。
わたしが言うのも変だけれど、これ以上騒ぎを大きくするわけにはいかないもの。
それなのに殿下はこの状況を楽しんでいるみたい。
いったいどうしたのかしら。
「小娘が偉そうに私に命令するでない! そもそもこの若造が――」
「男爵……、旦那様、やめてくださいな」
さらに言い募る男爵を止めたのは一緒にいた若くて綺麗な女性。
てっきり娘さんだと思っていたけれど、どうやら違うみたい。
男爵はしかめつらしい顔をしながらも鼻の下は伸びたまま。
「しかし、アマリー。お前がこのカフェに来たいと言ったのではないか」
「ええ。ですが、待つことは苦になりませんもの」
女のわたしでも思わず惚れ惚れするような艶めいた笑みを浮かべて、アマリーと呼ばれた女性は男爵を宥めた。
そして、わたしたちへと向き直る。
「――ヴィクトル殿下、そして、こちらはアンドール侯爵家のエリカ様でいらっしゃいますね? わたくしの我が儘でお二人にも、皆様にもご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした。わたくしどもはまた出直させて頂きますので、どうか皆様ごゆっくりなさってください。殿下、エリカ様、お言葉を頂き、ありがとうございました。どうかこの後も、お二人で街を楽しんでくださいませ」
「で、殿下? まさかそんなっ、いてっ!」
「――ありがとう、アマリー殿。では、失礼する」
「あの、アマリーさん、ありがとう。さようなら」
アマリーさんの言葉に、男爵は青ざめ、息をひそめるようにしてやり取りを見ていた店内はざわつき始めた。
だけど殿下は何事もなかったようにアマリーさんに頷くと、わたしを連れて外へ出た。
そんなわたしたちを見て、騎士たちもすぐに離れていく。
「あの方、男爵の奥様なんでしょうか?」
「いや、彼女は……友達だと思うよ」
「友達?」
お店を後にして、ずいぶん増えた人波に流されないように歩いてようやくルルシエヌ通りに戻る。
そこでほっとひと息ついて、殿下にアマリーさんのことを訊ねると、意外な答えが返ってきた。
(友達って……あっ!)
どういう意味かわかって、何を言えばいいのかわからなくてうろたえてしまった。
すると殿下がたまりかねたように吹き出す。
「エリカさんといると、本当に退屈しないよね」
「ええ?」
「トラブルは避けられないと言った方がいいかもしれない」
「……すみません」
「いや、謝らないでほしいな。正直なところ、騒ぎにしたくないからと理不尽なことを見て見ぬふりをするほうが間違っていると気付いたんだから。ありがとう、エリカさん」
「……どういたしまして?」
やっぱり何を言えばいいのかわからなくて無難に返事をすると、殿下はさらに笑い出した。
殿下がこんなに笑うなんて珍しいわ。
まあ、間違いなくわたしを笑っているんでしょうけど。
「殿下、今日は本当にありがとうございました。すごく勉強になりました」
待たせていた馬車に向かいながら改めて今日のお礼を言うと、殿下は笑いを引っ込めて首を振った。
「先ほども言ったけれど、僕も十分勉強になったから。それに楽しかったよ。ありがとう、エリカさん」
「わたしも、すごく楽しかったです。まるでデートみたいでしたね」
「……そうだね」
殿下は考え込むように静かに頷いてから、にっこり微笑んだ。
この笑顔にはちょっと警戒して身構えてしまう。
「まるでデートみたいで、僕も練習ができて助かったよ」
「……練習?」
「うん。近い将来、本当に好きな相手とデートするための練習」
「それは……良かったです」
思っていたような意地悪じゃなかったのに、なぜか動揺してしまって、また無難な返事しかできない。
本当に好きな相手って、殿下には好きな人がいるの?
それなのに、わたしと婚約しているの?
恋や愛は邪魔でしかないから?
心の中がもやもやしたままのわたしは、すっかりおとなしくなっていたようで、帰りの馬車では殿下やお兄様に心配をかけてしまった。
でも大丈夫。ちょっと疲れただけだから。
明日になればきっとまた元気になるわ。




