番外編:結婚式の日に
「準備はいい?」
「――はい」
力づけるようにわたしの手を握ってくれる殿下に笑顔で答えて手を握り返す。
もう「大丈夫?」なんて問われたりはしない。わたしは強くなれたから。
ううん。本当はまだまだだけれど、殿下はわたしを認めてくれている。
期待と不安を胸に、高等科に進学したのはちょうど一年前。
あの頃のわたしは夢ばかり見ていた。
この一年でたくさんの経験をして、現実の厳しさを知って、失恋もして、新しい恋もした。
その恋が実って愛になった。
隣に立つ殿下を見上げると、励ますような温かい笑顔。
そして手袋越しに握られた手を、そっと殿下の腕へと置かれた。
いよいよ式が始まる。
厳かな曲に合わせて、宣誓者がゆっくりと歩み、わたしたちはその後ろに続いて進んだ。
緊張でパニックになるかと思っていたけれど、殿下のたくましい腕が支えてくれているから大丈夫。
それに参列席からは祝福に満ちた温かな視線が向けられて、自然と笑みがこぼれる。
だから宣誓者の言葉も落ち着いて耳を傾けることができた。
この次はいよいよ宣誓の言葉。
静かな式場の中に、殿下の凛とした声が響きわたる。
続いてわたし。だけど、声の震えを止めることはどうしてもできなかった。
それでもどうにか最後まで言えたことにほっと息を吐いて殿下をちらりと見上げると、すごくすごく優しい笑顔が返ってきた。
ううう。ただでさえ胸がどきどきして苦しいのに、これ以上はきっと心臓が止まってしまうわ。
じっと殿下を見つめていると、わっと大きな拍手の音が聞こえて我に返る。
いつの間にか宣誓者の認証の言葉が終わっていたみたい。
ということは、このあと……。
恐る恐るもう一度殿下を見上げると、先ほどまでとは違う、とても爽やかな笑顔。
まさかそんな。でも、一瞬だもの。ええい!
〝王宮の尖塔から飛び降りる〟つもりで目を瞑ると、殿下の温かな唇がわたしの唇に触れた。
「…………」
「…………」
い、一瞬。
一瞬のはず。
でも、こういうときはすごく長く感じるって言うもの。
だからきっと。
ごほんごほんと誰かの咳払いが聞こえて、ぱっと目を開けると、琥珀色の瞳が本当に本当に目の前にあって、それからゆっくりと離れていった。
その顔には意地の悪い笑み。
一拍置いてかっと顔に熱が集まって、ふらりとしたわたしをしっかり抱きとめてくれたのはもちろん殿下。
入場のときとは違って、退場のときは落ち着くどころか恥ずかしくて、祝福してくれるみんなに微妙な笑顔を向けることしかできなかった。
「……ひどい」
人前であんなキスをするなんて。
ぽつりと呟いたわたしの言葉は、にぎやかな中でも殿下にしっかり届いたみたい。
殿下はそっと耳を近づけて囁く。
「ごめんね、エリカ。宣誓者の宣誓だけじゃどうしても物足りなくて、みんなに僕の妻になったんだって知らせたかったんだ。王太子妃ではなくね」
そう言われて気付く。
確かに今日の結婚式はわたしたちの式というより、英雄である王太子と聖女であるエリカ・アンドールの式の意味合いが大きいから。
それなら仕方ないかな、なんて思っていると、殿下はまた意地悪く笑った。
「でもそれよりなにより、エリカの困った顔を見るのが大好きなんだ」
「な……」
「それに驚いた顔も、怒った顔も」
驚いて、それから怒って顔をまた赤くしたわたしの頬に、殿下はかまわずキスをした。
みんな見ているのに!
「でも、笑った顔が一番好きだな」
ああ、もう!
そんな優しい顔で、そんな甘い言葉を囁かれたら、怒るに怒れない。
つい笑ってしまったわたしを殿下は抱き寄せ、今か今かと近づいて来ようとしていた人たちに向き直った。
仕方ないわ。約束したんだもの。
ここからは王太子妃としての役目をきっちり演じてあげるんだから。
ちょっと、いえ、かなり不機嫌なお父様の相手も殿下はそつなくこなし、たくさんの人たちからの祝福の言葉を受けた。
やがて侍従に促されてその場から王宮へと足を向ける。
目指すは謁見の間。
そこに座す国王陛下に、式が無事に終了したことの報告と、正式にわたしが王太子妃の位を賜るために。
「エリカ・アンドール、そなたを我が後継者、ヴィクトルの伴侶となることを認めよう。よって、そなたは今より王太子妃となるのだ。その責を肝に銘じ、この先ヴィクトルを助け、支えてやってほしい」
「――はい。有り難きお言葉、謹んでお受けいたします」
厳粛な雰囲気の中、殿下の隣で膝を折り、深く頭を下げる。
すると、なぜかくくくと笑う声が聞こえた。
「ま、面倒なしきたりはここまでとして、そう畏まらず顔を上げてくれ」
今までとは打って変わった陛下の言葉に戸惑い、横目で見ると、殿下はにやりと笑って顔を上げた。
それに倣ってわたしも顔を上げると、柔和な表情の陛下とばっちり目が合ってしまった。
ちょっと焦ってしまったものの、そこからは驚くほど打ち解けた会話が繰り広げられて、わたしは内心で驚くばかり。
まさか高等科でのクラス編成に実は陛下が関わっていたなんて。
なんでも妃殿下が口を出しているとお知りになって、わたしのお父様と相談してわたしとリザベルを殿下と同じクラスになるようにしたとか……。
なるほど。確かにロレーヌさんたち貴族士族の女子はどちらかというと妃殿下派のお家だったものね。
これにはさすがに殿下も驚いたみたいだけど、余計な口出しをして悪かったとおっしゃりながらもにやりと笑う陛下に、殿下もわたしも笑ってお礼を述べた。
だって、もし違うクラスだったら今日この日はなかったかもしれないものね。
新事実がわかったところで、陛下の侍従からそろそろお時間ですと声がかかった。
陛下もお忙しい方だし、何よりわたしたちにはもう一つやるべきことが残されているから。
「さあ、行こう」
「はい」
殿下に差し伸べられた手を迷いなく取る。
明るい日差しに照らされたバルコニーの向こうから聞こえるのは驚くほどの大歓声。
今日だけ特別に解放された王宮前広場にはたくさんの人たちが詰めかけているらしい。
それはわたしたちを祝福してくれるため。
その気持ちに応えるため、陛下に続いて殿下とゆっくりバルコニーへと出ると、歓声は地響きがするほどにどっと沸いた。
思わずびくりとしてしまったわたしの手を、殿下が強く握ってくれる。
そして引き寄せ、腰に手を添えて、頬にキス。
今度は黄色い声も混じった歓声が上がる。甲高い指笛の音も聞こえたわ。
わたしはちらっと殿下を睨んでから、集まった人たちに向けて笑顔で手を振った。
ええ、もちろん、殿下の足を踏むことを忘れていないわ。
もう一度殿下をちらっと見て、ふふんと笑って足を外す。
そのとき、前に向き直ったわたしの視界の隅で、殿下が爽やかな笑顔を浮かべたことに気付いた。
ええ、もちろん、手遅れだったわ。
まさかぐっと抱き寄せられて、唇にしっかりキスされてしまうなんて。
陛下の前で。みんなの前で。
「もう何度も言ったけど、今日のエリカは一段と綺麗だよ」
ああ、もう!
そんな嬉しい言葉をくれたって、許してなんてあげない。
やっぱり殿下は意地悪だわ。
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