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第八十一回(西暦180年)

【光和三年(百八十年)・春】

 并州五原郡、陰山山脈の南麓に張られた軍陣は、硬質な漢語の怒号と、蹄の音に満たされていた。


 かつて百六十九年に臨洮の地で私兵を募り、武の基盤を固めてから十一年の歳月が流れていた。この間、北辺の過酷な前線に駐屯し続け、泥と血にまみれて戦い抜いてきた巨頭の武威は、今や完全に、一人の男の威威たる支配としてこの峻烈なる大地に結実していた。


 董卓(37歳)は、漆黒の鉄甲を軋ませながら、天幕の前に不動の姿勢で立っていた。その背中は岩壁のごとき厚みを帯び、発せられる声の調子は周囲の風砂さえも圧する重低音を響かせている。兜の深い鉄の庇が落とす暗い陰と、左右から挟む無骨な頬当てにより、その顔面は完全に闇に沈み、一切が兵卒には窺い知れぬ深淵の奥にあった。ただ、その足取りが僅かに進むだけで、周囲の将兵は畏怖のあまり息を呑む。


 その傍らには、絶対の右腕たる親衛隊長、華雄(27歳)が、金環の鳴る長柄の大刀を大地に突き立てて控えていた。百七十八年の合流から二年の月日が流れ、華雄の武威はすでに軍の厳たる柱石であったが、その背中にはどこか求道者のごとき冷徹な覚悟が漂う。


 二人の眼前を、紅蓮の疾風が駆け抜けた。董卓が駆る二代目の駿馬「赤兎」である。その蹄が荒野を削る凄絶な覇気は、長きにわたり血を吸わせ続けてきた北辺の辺境を、完全に鎮圧していた。


 その前線の覇気の中、董卓の大きな手の中にあったのは、遠く涼州臨洮の邸より、正妻の王綏の手によって転送されてきた一枚の絹布であった。


 主君が前線に遠征中、実家に届く全ての書簡は主母たる王綏が受け取り、検分するのが董家の厳格なる鉄則である。

 布に記されていたのは、洛陽の官吏である弟・董旻(35歳)が、実家の王綏へ宛てて丁寧に認めた中央の崩壊の記録であった。


「義姉上。洛陽の空は完全に濁りきっております。何貴人が皇后の座に冊立され、朝廷の位階はすべて金銭で売買される極致に達いたしました。天子は私財を肥やすことに狂奔し、天下の骨髄を絞り尽くそうとしております。ですが、兄上が并州にて武威を示し、後方の補給網を完成させつつあることは、唯一の光明でございます。どうか、朝廷の腐敗に惑わされることなく、独自の基盤をお固めください」


 生真面目な弟の気性が滲む、澱みのない丁寧な筆致。だが、その絹布の余白には、それを受け取った妻・王綏の、冷徹にして峻烈な文字が独自の差配として付け足されていた。


『——洛陽の腐敗に合わせるかの如く、かつて夫君と同僚として並び立った馬元義が、今や太平道という新興の巨頭として不穏な動きを見せております。あれは、国を壊す道にございます』


妻からの冷徹なる警告を黙読していた董卓の喉から、地鳴りのごとき低い呟きが漏れた。

「……元義が、牙を剥くか」


漆黒の曲刀『烏騅』の柄へ無言でかけられた大きな手が、鉄の手甲を軋ませる。その地を這うような主君の声と鉄の鳴動を耳にした瞬間、華雄は身じろぎもせず、大刀を握る手に凄絶な力を込めた。かつての主である元義との対決が避けられぬ宿命であることを、華雄は言葉を返さずとも理解していた。主従の間に走る沈黙は、深く、冷徹であった。



  ところ変わり、遠く離れた涼州臨洮の董家の邸。

同じ春の息吹が吹くこの地でもまた、一族の未来を見据えた、冷徹にして峻烈なる布石が打たれていた。邸の広間には穏やかな陽光が差し込み、卓を囲む一族の眉間には、それぞれの秘めたる覚悟と、温かな情愛が静かに通い合っている。


「母上、この婚姻、謹んでお受けいたします。董家の牙となるためなれば、いかなる豪族の家へも赴きましょう」


華児(16歳)の瞳には、涙ではなく、冷徹な理知の光が宿っていた。彼女の細き指先は、父から託された、一族の血戦を象徴する「骸隻(がいせき)の面」の乾いた木肌をなぞっている。


董家の主母、王綏(36歳)は、気強く、かつ冷徹な慈愛の微笑みを娘に向けた。


「よくぞ言いました、華児。あなたの覚悟が、我が一族と涼州の豪族を結ぶ盤石の鎖となります。董家は決して朝廷の力など借りませぬ」


王綏の差配の才は、すでにこの婚姻を通じ、軍が朝廷の手を借りずとも、三つの冬を飢えずに戦い抜ける独自の経済圏を構築しつつあった。


 その傍らには、本日、13歳にして異例の元服を迎えた次男の董弦が佇んでいた。字は仲衡。


仲衡の顔には、少年の面影を排した兵站総監としての峻厳な意志が刻まれている。彼は朝廷から提示された虚飾の官位を明確に拒絶し、母の後方支援実務をすべて継承した。豪族たちを兵糧の鎖で支配する、血脈の知恵がそこにあった。


「母上、姉上。この日のために、大秦国より至高の牝馬を買い付けさせました。御覧ください」


仲衡が指し示した中庭には、極東の地には存在し得ぬ、燃えるような赤毛を持つカッパドキア種の牝馬が繋がれていた。その引き締まった強靭な肢体と、陽光を弾く至高の毛並みは、董家が執念の果てに手に入れた新たな血脈の証明であった。


その華やかな胎動の陰で、中庭を固める私兵集団の猛々しい怒号に混じり、一心不乱に木剣を振るう少年がいた。嫡男、承(11歳)である。


大人になりきらぬ細き身でありながら、年長の大男たちに一歩も引かず泥にまみれて打ち合うその姿には、すでに董家の次代を背負う峻烈な風格が宿り始めていた。激しく交わされる木刀の風切り音と、承の荒い呼吸だけが、董家の底知れぬ熱量を孕んで中庭へ響いていた。


 百八十年の春風が、涼州の砂塵を巻き上げる。


朝廷の瓦解という中央の腐敗を他所に、董卓の一族は、独自の経済圏、至高の血脈、臨洮の兵糧の鎖を以て、来たるべき天下の崩壊へ向けて、静かに、しかし確実に牙を研ぎ澄ましていた。

【何貴人の皇后冊立と売官政治の絶頂】

 董旻の書簡にある「何貴人の皇后冊立」は、光和3年(180年)に起きた史実です。何氏は肉屋の出身という極めて低い身分ながら、大金を積んで後宮に入り、ついに皇后の座まで上り詰めました。これにより彼女の兄・何進が台頭し、朝廷の売官政治と権力闘争は完全に歯止めが利かなくなります。中央が金と権力に狂奔し、自滅の道を突き進む中で、董卓たちが辺境で着実に独自の軍事・補給基盤を構築していく対比を描いています。

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