第八十回
涼州の秋風は乾き、荒野の砂を巻き上げては邸の瓦を鳴らす。
并州の動乱をその目で捉え、董家の次世代たる牙として臨洮の地へと帰り着いたのは、まだ日差しの強い初夏のことであった。長旅の汗と砂に塗れた夏の衣はすでに薄暗い衣櫃へと収められ、今は肌寒い秋の仕立てに身を包んだ華児(14歳)は、ふと中庭の向こうにある厩舎へと視線を向け、数ヶ月前のあの日の光景を静かに思い出していた。
あの夏の日、帰郷した華児が何より先に気遣ったのは、父の初代愛馬として数々の修羅場を潜り抜けてきた老馬トトの体であった。年相応の声を弾ませて真っ先に厩舎へと連れていくと、そこには邸の守り神たる赤毛の牝馬、ザルマが静かに佇んでいた。久方ぶりの再会を果たした二頭の老境の戦友が、言葉もなく互いの鼻先を寄せ合い、長旅の労をねぎらうかのように小さく嘶いた光景が、今も鮮明に胸に焼き付いている。
あの穏やかな帰郷から季節は巡り、いまや庭の木々も秋の装いを見せている。トトはザルマの傍らで深い安息の日々を過ごしていた。華児は満足げに目を細めると、静かに歩を進めて奥御殿の敷地へと向かった。
◇
中庭を抜け、外の埃っぽさから隔絶された奥御殿の敷地へと入る。華児は歩みを進め、その片隅にある静かな一角へと向かった。そこには、一つの絹の包みがもたらした董家の歴史が、静かに形となって据えられている。
棚の特等席に飾られていたのは、かつて過酷な戦場で敵の猛攻を受け、無惨に砕け散ったはずの「骸隻の面」であった。
華児が初夏に命懸けで持ち帰ったその破片の数々は、いまや侍女頭の木蓮(39歳)の手によって、一分の隙もなく美しく繋ぎ合わされている。華児が愛おしそうにその面に近づき、割れ目を滑らかに埋める漆の跡にそっと指先を触れた。
その背後に、静かな足取りで近づいてきた主母・王綏(34歳)が佇む。その涼やかな瞳には、普段の冷徹さとは異なる温かな光が宿っており、背筋は相変わらず鉄の芯が通ったように美しい。
「漆の匂いも、ようやく抜けましたね」
その一言に、華児は小さく頷いた。夏にこれを受け取ってから数ヶ月、董家の人々がどれほど深い思いを込めてこの面を修繕してきたか。その歳月の堆積が、多くを語らぬ母の声音から、華児の胸に静かに染み渡っていく。
「夏にお前がこれを持って帰ってきたとき、私は若き日の主君の姿を思い出しました。これを着けて必死に戦場へ赴いていた不器用な姿をね。……ですが、あの方はもう仮面を必要とせぬ本物の怪物となられた。武勇だけではこれからの乱世は生き残れぬ。主君がこの面をお前に託して臨洮に還したのは、華児、かつての手に負えぬじゃじゃ馬が、董家を支える確かな理知となって帰ってきたからに他なりません」
母の言葉に、華児は胸の奥が熱くなるのを感じながら、亡きリアの思い出を残すその面を見つめ返した。
しばしの沈黙ののち、華児は面から手を離すと、少し気まずそうに視線を泳がせ、お母さまの顔をのぞき込むようにして囁いた。
「……あの、お母さま。前線でのお父様のことなんだけど。お父様、小麦色に焼けた肌の女性と寝てたんだけど……大丈夫?」
大好きな母が嫉妬で傷ついていないか、おずおずと心配そうに尋ねる娘の告白。その純粋な眼差しを受け、王綏の涼やかな瞳がほんの少しだけ柔らかく和らいだ。主母は声を立てずに微笑むと、愛おしそうに娘の頭を撫でた。
「心配してくれたのですか。優しい子ですね、華児。ですが、大丈夫ですよ。すべて承知しています」
「え……お母さま、知っていたの?」
「ええ。あの部隊はもともと、都の戦災孤児や身寄りのない女性たちを連れてきて、私が自ら最終面接を行って編成したものです。表向きは前線の後方支援ですが、その真の役目は、過酷な日々に狂いそうになる前線の男たちの情欲を受け止め、あの方や兵士たちを慰安するためのもの。軍の士気を董家の統制下で繋ぎ止めるための仕組みに他なりません」
王綏は撫でていた手をそっと離し、その眼差しを再び冷徹なる支配者のそれへと戻した。
「ですが、並大密の女では、猛者ぞろいの前線兵士やあの部隊を統べることは叶いません。だからこそ私は、ルカの下で鍛え上げられた女性兵士の中から、確かな実力を持つあの娘を選び抜き、頭領になってほしいと自ら願い出たのです」
主母は薄く唇を釣り上げ、すべてを見透かしたような、深みのある笑みを浮かべた。
「都の着飾った軟弱な美姫たちよりも、荒野の血の匂いと強さを帯びた、あの小麦色の肌の女兵士こそ、お父様が最も好む女の姿。私はあの娘を送り出す際、あの方の元へ行けば必ず男女の深い仲になるだろうこともあらかじめ伝え、それを織り込み済みで、董家の未来を託す頭領の役目を頼み込みました。あの方の心など、私の審美眼と算段を狂わせるものではありません」
夫の情欲の癖すらも信頼の手札に変え、生え抜きの強者と固い盟約を結んでみせた母の采配。華児(十四歳)はぽかんと呆気に取られ、ただただ圧倒的な畏怖と感嘆の眼差しを母へと向けた。
「あの床の裏で、あの方の寝所に近づく都からの刺客を闇から闇へ葬り、万が一の際には董家の印章をこの臨洮へ持ち帰るのが、あの頭領に託した真の任務。お前がお父様の傍らでその女の存在を見据えた眼は正しい。これからも董家の内と外、そのすべてを冷徹に見極めなさい」
母の厳かなる声音に、華児は背筋を正し、董家の真の統治者たる主母の凄みを深くその身に刻み込むのであった。
◇
母との密談を終え、奥御殿の回廊へと出た華児の耳に、小気味よい木剣の風切り音が飛び込んできた。
中庭の土を蹴り、泥にまみれながら必死に剣を振るっていたのは、董家の嫡男たる承(11歳)である。華児の姿を認めた瞬間、そのひたむきな少年の佇まいは一変し、木剣を抱えたまま、弾かれたように駆け寄ってきた。
「姉上! お帰りなさい! 并州の戦の話、俺に聞かせてくれ! 俺も父上のように、姉上のように強い武人になりたいんだ!」
無邪気に声を弾ませ、憧れを隠さぬ弟。華児はその幼き総領の姿に、かつての自分自身のじゃじゃ馬な面影を重ね、目元を優しく緩めてその頭を小突いた。
「戦の話なんて、お前にはまだ早いわ。毎日泥まみれになって、お母さまを困らせては駄目よ」
「ちぇっ、子供扱いするなよ。俺だって董家の男なんだぞ!」
不満げに口を尖らせる承の姿を眺めながら、華児の意識は、ふと初夏の帰郷の道中で潜り抜けた実戦の記憶へと引き戻されていた。
あの初夏の日、涼州の険しい山道を往く華児の隊列の前に、欲をかいた三十余名の野盗の群れが牙を剥いた。
并州の修羅場をくぐり、軍事の眼を養っていた華児にとって、その襲撃は児戯に等しかった。喚声を上げて無秩序に突っ込んでくる賊の足取り、呼吸の乱れ、および得物の構えの不格好さ。それらすべてが、冷徹な数字のように華児の頭脳に吸い込まれていく。
華児は一言も発せず、ただ馬上で顎を小さく引いて私兵たちに合図を送った。ルカの下で厳格に鍛え上げられた女子私兵らは、声を挙げることもなく即座に左右へと散り、賊の退路を断つ完璧な鶴翼の陣を敷く。
先頭の賊が華児の愛馬トトの頭絡に手をかけようとした瞬間、華児は手綱を鋭く引き絞り、その強靭な馬体を微塵の狂いもなく御してみせた。老いてなお歴戦の覇気を失わぬトトは、華児の合図に応えて激しく前足を跳ね上げ、その容赦なき足蹴りを賊の胸板へと叩き込んだ。
骨の砕ける不気味な音が響き、先頭の賊が背後へと吹き飛ぶ。崩れ落ちる肉体の生々しい衝撃をトトの腹でいなしながら、華児の視線はすでに、後方で恐怖に足を止めた賊の頭領を捉えていた。
「みんな、囲んじゃって。一人も逃しちゃ駄目よ」
凛とした少女の号令とともに、左右から女子私兵らの無慈悲な刃が一斉に閃く。退路を失い、恐怖に叫ぶ野盗どもを、董家の私兵らは家畜を屠るが如き手際で一網打尽にしていった。
華児はトトの首筋を優しく撫でて労わりながら、戦とは剣を振るう腕力ではなく、敵の隙を冷徹に見極める理知の崩しであることを、その身で深く理解していた。
「……姉上? 聞いてる?」
承の衣を引く手で、華児は我に返った。目の前には、未だ本物の血の匂いを知らぬ、ひたむきな弟が立っている。
華児は中庭の隅を見やった。そこでは、亡きリアの遺児である弦児(13歳)が、木蓮の隣で冷徹に算木を弾き、秋の収穫と軍馬の蹄鉄の摩耗具合を計算している。
「承。お父様のような強い武人になりたいのなら、まずは泥を払って、弦児の隣で算術の一でも学びなさい。董家の強さというのはね、ただ剣を振るうことだけではないのよ」
姉のその妙に重みのある言葉に、承は首を傾げながらも、その言葉の裏にある董家の凄みを本能的に察したのか、小さく木剣を握り直すのであった。
【王綏の気概と『不嫉』の最高美徳】
王綏が夫の女性関係を平然と受け入れる場面ですが、当時の漢代では、正妻が個人の嫉妬を完璧に抑え込み、夫の側室や女性関係を寛容に認めることは「不嫉」と呼ばれる最高の美徳でした。
王綏の対応は単なる我慢ではなく、戦災孤児を救いつつ軍の士気と情欲を「董家の統制下」で管理するという、極めて高度な生存戦略です。綺麗事の道徳を超え、夫の覇道を内宮から完璧に支える、辺境の女傑たる彼女の凄みを描いています。




