マガツヒ 後編 無敵さん(完結)
マガツヒに表情はない。
表情とは、他者との交流の手段だ。単体で完結したマガツヒには根本から、外部へ表現をする必要がないのだろう。
ーマガツヒの考察より抜粋ー
曇天だった。
日の一切が遮られるような黒々とした空。それでいて雷雲でもない静かで重い空だった。完全な無音……鳥や虫の気配はなく、漂う不穏な空気のせいか彼が大学時代に住んでいたアパートを懐かしむ気にもなれなかった。
アパートの裏手に周るとそれはすぐに見つかった。
生い茂った雑草たちもが避けるようにして作られた小さな砂地、砂に触れた手からは硬い……鉄の感触がした。砂を払い、現れた鉄板を退けるといかにも悍ましい石の階段が口を開ける……こんな暗い階段に沈んでいくなど正気ではないが、かつて『無敵さん』と呼ばれていた彼ならばそうしたのだろう。それとも、そんな彼でもここだけは恐ろしかったのかもしれない……マガツヒの事を知ってから思う。彼はこの恐ろしさを知っているから、他の何ものもを恐れなかったのではないかと。
……
マガツヒの感情は、分からない。
思考など想像も及ばないが、恐らくマガツヒは停滞を好まない。でもなくば広い宇宙でも指折りに騒がしい地球、人類の前に現れる頻度に説明がつかない。
ーマガツヒの考察より抜粋ー
湿り気のある石段を降る。
石の階段は人が2人は並んで歩ける広さで、鉄の壁は今でも劣化が見られない。ボロアパートの裏手にあるものとは思えない頑強な造り……恐らくはアパートが建設される以前よりここにあったものではないだろうか。例えば防空壕、そんな用途で造られたと思う方がよほどしっくりくる造り……外から命を守ることに特化した様な構造だ。
「……俺に霊感が無くて良かったな」
もし、ここが防空壕なら潜んでいるのはマガツヒだけとは限らない。
これだけの堅牢な造りだ。恐らくは何十もの人が避難する目的の防空壕で、その数に見合う悲劇もあったのだろう。
嫌な想像だった。
だけど、それが救いだった。今から俺が遭う恐怖に比べれば、人間だけで生まれる悲劇なんてものはどれをとっても小さいものなのかもしれない。
確信だった。
だってほら、階段を降りるほどに足が重くなる。暑くもないのに汗が吹き出し、手が震える。身体が、本能が恐れているんだろう。俺の大した事ない頭が考えるよりも過敏に……。
階段を降りきる。
視界が大きく広く開け、頭痛を伴うほどの情報が飛び込んでくる。
一室と言えるほどの広い空間。
コンクリの壁を覆う引っ掻き傷、散乱した書籍の山。蔓延した鉄の匂い。痛いほどの無音。視覚と嗅覚、それから聴覚から感じる情報はどれも異質だ。
本能的な確信だった。
俺はその理解に苦しむべきな景色、それを作る背景を瞬く間に垣間見た。
「防空壕、裏切り……惨劇? 怨念の溜まり場……追い出された? なる、ほど……お前がきたからか」
俺の旦那様はどこまでも罪深い。
生爪で掻きむしられた壁に張り付く灰色の靄。微動だにせず、その靄の中心には赤いナイフが突き立てられている……それが、俺に見えるマガツヒの姿だった。
ただの靄に吐き気がする。
それを見ているだけで息が吸えない様な緊張、空に放り出された様になす術がない感覚……蛇に睨まれた蛙の方がまだマシだ。
「……お、お客様が来てもだんまりかよ?」
精一杯の虚勢だった。
俺は旦那様の本を何度も読んだ。読めば読むほどに理解できた事は、マガツヒは化け物で……人が作った化け物なんて言葉ではどうしようもなく足りない存在だという事だ。
俺には理解できない事が分かっている。
マガツヒを見て確信した。気配を感じたあの日だけじゃない……随分前からマガツヒは俺を見ていた。ここへ来る事も分かっていた。その上で、マガツヒは何もしていない。
マガツヒは分かっていても何もしていないのだ。
旦那様が子供の頃にマガツヒを殴る事も、その後の行動もだ。
どうしようもなく理解できない事を理解した。
すると、自然に……あの日は読めなかった頁に書かれていた文字が分かった。
ーマガツヒの考察ー
マガツヒは『個』ではない。
『個』であり『全』だ。マガツヒに『死』はない。
このマガツヒは『本体』の『血』の『一滴』に過ぎない。
「その姿で血の一滴? はは、じゃあ本体は……」
思い出す。
旦那様はマガツヒから見た人間をジグソーパズルのピースだと喩えた。それが意味していたのは……本当はこういう事なのではないだろうか。
マガツヒの大きさは、1人の人生を指で摘むほどの巨大な……。
「か……考えるな。どうしようもない情報は邪魔だ。いらない……必要なのは俺がどうしたいかだ。その為に俺が何をすればいいかだ」
マガツヒがどれほど規格外かなんて今更どうでもいい。
どうしたいかは決まっている。マガツヒを倒す……いや、マガツヒから解放される事だ。俺や旦那様はいいし、息子達にも謝った……でも、これから生まれる孫やその先に続く未来の家族に迷惑になる事は避けなくてはいけない。
ただ、その為にどうするかは……分からない。
倒せばいいのか、謝ればいいのか……本来あり得ない選択であるマガツヒを食うだとか、目の前で踊るだとか……そんな事さえも並列の可能性に思えるほどに理解ができない。マガツヒには善も悪も愛もないとはよくいったものだ。それこそ、幼児が社会の善悪も利益不利益も分からないのと同じように……俺にはマガツヒの一切が理解できない。
「分からない事が分かったんだから……仕方ないよな」
だから俺は……マガツヒにする行動を感情で決めた。
俺はマガツヒを『倒さない』し、マガツヒに『謝らない』事を選んだ。
「ありがとう……」
俺はただ、感謝をした。
マガツヒがいなければ俺は旦那様に出会えていないかもしれないのだから。マガツヒに関わった俺と旦那様の人生は、見た人によっては不幸に思うかもしれない。だが、俺にとっては最高の人生なのだからだ。
俺と旦那様の物語には奇怪なマガツヒというものが登場する。
でも、マガツヒは俺たちにとって『怖いもの』じゃない。『怖いもの』であってはならないんだ。
「ありがとう……お前は俺たちの『キューピット』だ」
これが、俺と無敵さんと呼ばれた彼の物語……『怖いものが登場しない恐怖譚』だ。
……
俺がマガツヒに感謝した時もマガツヒは動かなかった。
動かないまま、徐々に薄れていった。俺の行動が正解だったのかは……分からない。
マガツヒが完全に消えると、どうしようもなく暗かった地下が白く染まった。
いや、白く染まったのは地下ではなく世界中だったのだが……それが分かったのは後に息子と話した時だった。
その頃、息子は嫁と俺の無事を祈っていたらしい。
お互いの手を握り、ただ祈ることしかできずにいたらしいが……『母さんがやったのはすぐ分かった』という。我が家の居間も、日の差し込む窓辺さえもが一律に白みを増していったからだ。
聡明な息子夫婦はすぐに確信した。
世界を塗り替えた白光が収まるとすぐに、置き換わった新聞で今の年号が旦那様の子供の頃だと確認したらしい。まぁ、自分たちが移動するよりも早い手段だからと見切り発射でアパートへと救急車を手配したのはどうかと思うが……実際に俺はアパートの入り口に倒れていたらしいからそこは良いだろうか。
これは余談だ。
この時に息子はポケットからスマホを取り出そうとして、契約済みの折りたたみ携帯電話を触って少しだけ驚いたという。息子にとって見たこともないガラパゴス携帯が自分のものと認識でき、番号のボタン操作も使い慣れているかの様に自然に指が動いたのだ。
「それで、俺は息子の病院に運び込まれる羽目になったと?」
「正確には母さんが入院してから、息子が病院に就職したんだけど……この世界でも医師免許が有効で良かったよ」
「ああ、本当に理解できない事ばかりだ」
息子の職業は医者だ。
ただし、その資格はマガツヒのいた世界で取得したものだ。だが、この世界でもその資格は本物として登録されている。他者の認識だけじゃなく、免許証の認定日や識別番号が切り替わり整合性も保たれているから疑いの余地は俺たちの記憶にしか無い。
どこにでもある殺風景な、懐かしい病室だ。
俺は検査入院という事になっているが、今のところ身体に不調は見当たらない。
「心配し過ぎでちょっとキモいぞ……マザコンか!?」
「そんなこと言っても、もう血の繋がってる家族は母さんしかいないんだぞっ!!」
「孫を産めっ!! 孫をっ!!」
退院が遅れているのは心配性の息子のせいだ。
それでもあと数日もすれば退院できるだろう。そうしたら暫く、ここに戻る予定はない。息子夫婦は心配しているが、余生は旦那様と建てた我が家で過ごすと決めていた。
「だいたい、お前働かなくても良いんじゃないのか? 宝くじと株、馬とボートと……自転車だっけ?」
「ああ……なかなか興味深い体験だったよ」
「ったく、抜け目のない息子だね。その性格は間違いなく……」
「父さん譲りだろうね」
息子は過去に来る準備をしっかり済ませていたらしい。
俺たちが迷い込んだ年からの宝くじの当選番号や競馬の勝ち馬、更にはこれから急成長する企業への株式投資。それら未来の知識を用いて息子は大きな富を手にしていた。
「でも、全部上手くいったわけじゃないよ。超高確率ではあったけど、宝くじの番号でも変化して当たらなかったものもあった。馬はもっと当選率が低かったし……何が原因か分からないけど、この世界は前の世界と少しずつ違うからね……多分、これが人間3人分の歪みなのかな」
「どうだろうね……。俺はそれが俺たちのせいで起きた問題じゃなかったら嬉しいな。そういうさ、物語の行間みたいな……人間に日々許された細かい変化を奇跡って呼ぶんだと思うからね」
「母さんって意外と浪漫家だよね……」
「やかましいわ!」
どうでもいい話だ。
きっと、この世界の仕組みも……人間なんかに理解できるものじゃないのだから。
「で……なんで働く? 労働収益より株の方が儲けてるだろうに……」
「母さん、人間は働かなければダメになる生き物だと思うんだ」
「ほう……」
立派な意見だ。
その悲しげな顔が『家庭に居場所がない』事を指していない事を切に願いたいが、息子の人生だ……他言はするまい。
とにかく、息子達は一見上手くやっている。
前述通り資金面は順風満帆。マガツヒの時代に置いてきてしまった友好関係もあるが、この時代で新しく得た友好関係も多い。これに関しては良し悪しの言い難い問題だが、当人達は図太い事に『海外に引っ越した様なもの』程度の認識らしい。
……
退院の日。
俺は病院の中庭で息子の嫁を見た。
「このファッション誌の人は……人気が出そうですね」
「あら、言われてみると美男子ぃー。 やだ奥様、この前もドラマの主演になった新人を当ててたじゃない。凄い審美眼ねぇ」
「はは……」
乾いた笑いが出た。
俺が苦手だったやつ……女子の超上辺だけトーク。そこに未来情報を持つ嫁のマウントが混じっているものだから尚のこと悪辣だ。
息子夫婦をこの世界に巻き込んだのは、やはり負い目だった。
あれから俺はもう一度、これで良かったのかと聞いた事があった。だが息子は『元々友達いないからなぁ……職場の仲間も転職したら会わないタイプだし』と答え、更に『嫁は嫁で上辺で付き合うのが得意だし。むしろ他人としてだけど、早くに他界した両親に会えて喜んでいたよ』と言っていた。
なるほど、大した上部付き合いぶりだ。
息子が言った言葉の意味が分かった気がした。そして、これほど上辺付き合いの達者な嫁だ。その懐に入り込んだ息子の物語もまたなかなかに長く険しい逸話なのだろうが、それを俺が知る日は来ないのだろう。
……
手続きを済ませて病院を出る。
俺は息子の静止を無視して足早に自動扉を抜けた。荒々しく到着した救急搬送のタンカを見送り心の中でタッチ交代の気分。スロープの横の階段を一段抜かしに降り、大きく伸びをしながら言った。
「んああーっ、娑婆の空気は美味いねっ!」
「母さん……医療従事者的には病院を地獄扱いするセリフはあんまり聞きたくないかな」
「細かいね……おっ! ……そうか。今は、ここにいるんだな」
今日はなんて日だろうか。
病院の前で小言の煩い息子と俺、その傍を元気に走っていく背丈の高い少女の顔を鏡や写真以外では初めて見た。
「今の子……母さんって、大学まで地元だったの?」
「いや……小学生と大学生の間だけ。大学は1人暮らしだが、あの頃は祖父母のとこにいたからな……」
「え? なんか複雑なんだけど」
「ああ、まぁ……つまらない話しが色々あるんだよ。人間にはみんな……な」
「別に話したくないならいいけど……。母さん、あっちの話は聞いてもいい?」
「聞くも何も見た通りだよ。はぁ……あの辺で身長が止まってくれるといいんだけどね……」
「いや、あの歳で止まったら今度は小さすぎるだろ!?」
「……そうか。でもそれも悪くないけど」
「息子の立場としては、彼女の健やかなる成長を祈るばかりだよ……」
「祈るなよ。お前は牧師じゃなくて医者だろう?」
俺は声をかけるでもなく彼女を見送る。
安心していい……何も言う必要はないんだ。
だって、彼女の人生が素晴らしいものになる事は……他の誰よりも俺が知っている。
……
人様の人生をどうこうという趣味はない。
ただ、俺の人生は嫌に濃かった様に思う。
息子夫婦の元にはあれから数年で長女が生まれた。
目に入れても痛くないというのはこういう事なのだろうか。俺によく懐き、息子夫婦の良いところを取った様な聡明で気の利く可愛らしい孫娘だった。
長い時間が過ぎた。
俺にも息子夫婦にも大きな事件はなく、小さな失敗と小さな笑い話が幾つも続く……退屈のない人生だった。それに関して、俺と旦那様が良い手本だったのかは分からないが、そうであれたなら良いとは思う。
そして、あの日から15年後……俺はこの懐かしい病室へと戻った。
70歳、俺は旦那様が亡くなってから15年も生きた事になる。
その年は、蝉の鳴き声も重苦しく聞こえる様な格段の猛暑だった。
空調完備の殺風景な病室。
空室とはいえ、4つのベットが置かれた相部屋は寿命の迫った老婆を置くにはあまり相応しくないが……それは俺が望んだ事だった。
「あの部屋で死にはしないから安心しなよ」
「縁起でもない事言うなよ……」
「源を担ぐなよ……医者が。人間だものいつかは寿命が来るさ。運命の部分は誰にも変えられないんだからな」
「……うわ、そのセリフで分かった。もしかしなくても、あの部屋に今日入院する子どもってこの時代の父さんだよな?」
「……ふっ、さぁね」
「ああっ、もう絶対そうだよ。何考えてんだ母さん!?」
「やかましいわ。そういう運命なんだよ!! だいたい、俺だけ旦那様を看取って俺は旦那様に看取ってもらえないなんて不公平だろっ!?」
「いやっ、それ普通だから!!」
これが最後の親子喧嘩だろうか。
少なくとも、俺の最後の我儘はこれだ。今日熱中症で運ばれる大学生を相部屋にして欲しい事と、その検査入院を少しだけ長引かせて欲しいというもの。
なに、別に妙な企みなんてものはない。
ただ……もう一度旦那様とそれを見舞いにくる大学生の俺と過ごすだけだ。それは俺の望みでもあるし、運命でもある。
俺が語る事はもう何もない。
何も語らずに『ほっほっほ』と笑う。昔の2人のくだらない喧嘩を見て笑う。孫娘が来て下手な優等生を演じる2人を見て笑う。
そして心の中で旦那様へとつぶやくのだ。
ほら見ろよと。俺たちはこんなにも……最高の時間を過ごしたんだと。




