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親の心と輿水幸子 3

「なんかもう…ホントごめんねカペちゃん…」


先ほど起きた事の顛末を楽しげに聞いていたアネエルは、天界神の名が出るとその表情を曇らせた。

そして話が終わると、その小さい身体を背中の羽で覆うように縮めてカペルコに謝った。



あの後、カペルコはモナ達のいる執務室に戻っていた。

普段であれば仕事場は玉座の間だが、工事中の今はこちらに場を移している。

モナとアネエルと同室で仕事をするのは賑やかで騒々しくもあったが、魔王と共に過ごす事の多かったカペルコにとってその時間は新鮮で心地良いものだった。



その日の就業時間も終わりの頃、いわゆるアフター5。

カペルコからの話を聞いていたアネエルには、天使の羽と輪っかが顕現している。

天界神との関わりが浮上した先日の件以来、仲間内の間では天使である事を隠しても仕方ないと割り切るようになったらしい。


…そもそも隠れてなかった様な気もするが。

しかし本人が公認するかしないかでこちらの対応が変わる所もあり。

隠しだてや誤魔化しの無い方がカペルコとしても好ましい様に思えた。



「アネエルさんが謝る事ではないような…気になさらないで下さい」

「うう〜そうかもしれないけど…ホントうちの神様出しゃばりって言うか、心配性っていうかさぁ…」

「なんというか、アレですね。授業参観の時にちょっと目立っちゃうお父さんみたいな」

「ふふ、微笑ましいじゃないですか。心配でつい様子を見たくなるぐらいアネエルさんの事が可愛いって事ですよ」


ニコニコと笑みを浮かべながらモナもこちらの話に入ってくる。

仕事の時は邪魔になるようで、胡桃色のロングヘアーを後ろで緩く縛っている姿は元聖職者という風にはあまり見えない。

服装を変えれば中堅どころの頼れるOLのお姉さんといったところだ。



「そうだねえ…」


そして、そこにもう一人。


「すっごく可愛いもんねえ…これはお姉さんも心配になっちゃいますねえ…」


アネエルと斜向かいになるような位置に座るウェーロが、某司令よろしく机に肘を付いて両手を組みアネエルを凝視していた。

その日の作業を終えたボス達大工集団は魔王と共に、もとい連行して飲み屋街に向かっていったが、ウェーロは付いて行かずこちらに残っている。

てっきり一緒に行くと思ったのだが、理由を聞くと『面倒だから』との少し意外な返答が返ってきていた。


因みに連行されていった魔王であるが、


「これ経費で落ちるよな?」


と言われたので、


「私的な飲食なので、無理です」


と返したら、


「おぉん」


と妙な呻き声を上げてしぼんでいた。

若干気の毒ではあるが、まあ大丈夫だろう。魔王だし。



「ウェーロさん。目が据わっていて怖いですよ」

「アネエル…ちゃん?くん?は男の子なんだよね?」

「えっ、はい…そうですけど…」

「ちょっっっとにわかには信じられないねえ…お姉さんに確かめさせてもらってもいい?ほんの数か所じっくりねっとり触らせて貰えるだけでいいんだけど」

「言いにくいんですけど、もうそのくだりなら間に合ってますんで」

「君たちがやっててもさぁ、私がまだなんだよなぁっ!元四天王・セクハラ担当として触れずにいる訳にはいかないんだよなぁ〜!」

「なんなんですかその私利私欲にまみれた肩書は…」



にへらと笑うウェーロから身を隠すように、アネエルがカペルコの後ろにサッと移動した。

心なしかモナが寂しそうな顔をしているが、日頃の行いが祟っているとしか思わない。



「いいじゃんいいじゃん減るもんでもなし。ね?アネエルくん。優しくするよ〜?むしゃぶりついたり咥えたりするってんじゃないからさ」

「カペちゃぁん…」

「あの…そのくだりも済んでますんで」

「…!? 済んでるの!?」

「済んでないよっ!僕は純潔!潔白!」


背後のアネエルが喚くが、耳元で大声を出されると頭が痛い。

まさか天界でも似たようなやり取りが繰り広げられていたとは思わないが、確かにこんな事では天界神の苦労も絶えないのかもしれない。


「…天界にいた頃からこう、神様はアネエルさんに優しかったんですか?」

「え?うーん…そうだね。優しいっていうか、過保護かな。孫馬鹿って感じ。お仕事とかもちょっとでも危ないようなのは任せてもらえなかったし」

「孫…って、神様がおじいさんなんですか!?」

「うん、そうだよ」


あっけらかんとした様子でアネエルが答える。

アネエルを巡る天界との外交上の問題が想像以上にナーバスなこの現実に、カペルコは眩暈を覚えた。



「天界ではアネエルさんはどんな仕事をされていたんですか?…はい、どうぞカペルコさん」

「…あ、すみません。ありがとうございます…」


いつの間にかお茶を用意していたモナが全員にお茶を配る。

本来の立場的には自分がやるべき事なので恐縮するが、普段からモナはそういう事を気にしない性質だ。

礼を言って受け取ると、モナの好みだというハーブの香りが温かな湯気に乗って鼻腔をくすぐった。

魔王はよくカペルコの淹れたお茶を褒めてくれるが、モナの淹れるお茶もなかなかに美味しい。



「えっと、そもそもボクたち天使の主な仕事はね。人間界と魔界の均衡を保つ事なんだけど」


背後にいたアネエルがカペルコの隣に移動して、ストンと腰を降ろす。

行儀良く座っている姿は、まるで等身大の西洋人形の様だ。


「あまりにもパワーバランスが傾いたような時には、どちらかを応援するのが大きな役目かな。基本的にはバフをかけてあげる程度だけど、必要な時には天使が直接加勢する、って事もあるみたい。ボクは経験ないけどね」

「あ〜…そういえば人間側がやたら強くなった時あったなあ。あれそういう事だったんだね」

「ウェーロさん、経験があるんですか?」

「ん。前の魔王が前の勇者を倒した時にさ、そのまま人間界に一気に攻め込む流れになったんだけど、なんでか人間側の兵士がもの凄く硬くなって反撃にあったんだよね…あれはキツかったなあ…」

「そんな事があったんですね…」


どこか遠い目をして自らの肩を抱いたウェーロが、影を落とした様な声で言う。

カペルコはその時まだ幼かったが、先代の魔王が先代の勇者を倒した事も、その後人間界に大規模な侵攻を企てて失敗に終わった事も話には聞いている。


カペルコがウェーロの戦う姿を見た事は無いが、当時は苛烈な戦いの中に身を置いていた事は間違いない。

暴虐の限りを尽くしたと言われる先代の魔王、その最も近い場所に仕えていたウェーロに、カペルコは少しだけ思いを馳せた。



「そりゃあもうカッチカチのビンッビンでさあ。私も必死に攻め立てたんだけど向こうの攻めも激しくて、くんずほぐれつで堪らずイっちゃう所だったよ。はぁ、思い出すだけで身体が疼くなあ…」

「ツッコミませんからね」

「また突っ込んで欲しいなぁ…固くて太」

「絶対にツッコミませんからね」

「ま、まあとにかくそういう世界の均衡を保つのが天界の役割なんだよ。でもボクはそういう大きな仕事は任せてもらえなくて…やってた事といえば簡単な事務作業と、それほどは大勢に影響を与えない他の均衡を守る仕事をしてたかな」

「他の均衡ですか?」

「きのこ派とたけのこ派の均衡とか、兼近派とりんたろー。派の均衡とか」

「ツッ…こんでいいのか分からないんですけど、保つ必要あるんですかそれ。特に後者」

「ボクもそう思うんだけど、本当にそういう仕事を与えられてたから…。どっちかに均衡が崩れそうになったら、SNSで片方をしこたまネガキャンして世論をイーブンに保つんだよね」

「や、やり方が陰湿…明治はまだ許してくれそうですけど、吉本が知ったら黙ってないんじゃないですか?」

「それでね、ボクももっとちゃんとした仕事がしたくて。そんな時に魔王軍の四天王を募集してるって言う話を聞いて、思い切って募集してみたんだよ」


ふふん、と胸を張るアネエルだが、思い切りの方向が明後日の様にカペルコには感じる。

天界神(おじいちゃん)の心配が、なんとなく理解できるような気がした。



「ここでしっかりと働いて、頑張りを認めてもらって、一人前の天使になれるように頑張るんだ!…あ、でも安心してね。何かあっても、カペちゃんの事は守ってあげるから!」

「そ、そうですか…」

「むっ、信用してないでしょ〜?」


カペルコとしては魔王軍で働いて天使として成長できるのかが大変引っかかるのだが、日和気味の反応に自らの力を疑われているとアネエルは思ったらしい。

それはそれとして、アネエルが戦うイメージも全く想像がつかないが。



「ボクはこんなに可憐で可愛いけど、こう見えて結構強いんだから。ね、モナ!」

「ふふ、そうですね」

「そんなエピソードがあるんですか?私の知らない所で何か荒事が…?」

「アネエルさんはですね、一緒にお買い物に行くと必ず一番重たい袋を持ってくれるんですよ」

「わ、わあ〜たのもしい」

「それも何個も。おかげでまとめ買いの時なんか、とっても助かります」

「わあ~」

「お米と牛乳と猫砂と鶏糞が一緒に入ってても大丈夫だよ!」

「いやわざわざなんていう取り合わせの物を一緒にしてくれちゃってるんですか。そしてなんで魔王城で園芸始めようとしてるんですか。というかどこで買い物するとそういうラインナップになるんですか?」

「大体モナと一緒に行くのはコメリ(※1)かなあ?この辺りで一番大きいし」

「ど、どこにでもあるんですね、コメリ…いやカインズだろうがホーマックだろうがなんでもいいですけど」

「うーん。なんか話聞いてるとさあ、私らの思う天使のイメージとちょっと違うねえ」



傍から話を聞いていたウェーロの横槍に、アネエルが少し口を尖らせた。

アネエルの気持ちは分かるし口には出さないが、しかし正直カペルコからしても少々イメージとは異なる。


「あーいうのはやってないの?恋のキューピットみたいなさ」

「ああ、そういうのを担当してる天使もいるよ?」

「意中の恋人同士がセッ〇スした時の的中率を上げて出生率に貢献するみたいな仕事は」

「そんな生々しいのはやってないよ!あくまでもお互いの気を惹き合わせるぐらいだから!」

「…でも素敵なお仕事ですね。お互いの恋心を成就させるなんて、なんだか甘酸っぱいです」

「うん。お酒が進んだ席とか、生命の危機を感じる状況にいる男女とかは特にやりやすいよ」

「世に言う『気の迷い』とか『吊り橋効果』っていうものの謎が今の一言で一気に解決しましたね」

「あ、あの…」


小さく手を上げながら、おずおずとモナが話に入ってくる。

様子は控えめであるが、その表情には抑えきれない好奇心が見て取れる。



「関係ない話かもしれませんが、前から気になってた事がありまして…アネエルさんって、どんな方がタイプなんですか?」

「あ〜それ私も気になる。どうなのアネエルくん?恋を仲立つ天使は、どんな子に恋しちゃうのかな?」

「え〜?そうだなあ…」


テレテレと頬をかくアネエルの仕草は、思春期の女子のそれだ。

可愛さは自他共に認める所であり、同性のカペルコからしてもグッと…いや、向こうは異性(おとこ)である。



「やっぱり…まずは優しい人でしょ?」

「ふんふん」

「あとは趣味とか、食べ物の好みが合う人でねー」

「なるほど、大事ですね」

「カッコ良くてー、美形でー、向上心があってー、家庭的でー」

「ほ、ほう」

「お金持ちでー、ファッションセンスが良くてー、頼りがいがあってー、ムダ毛が少なくてー、一定の地位があってー、話が面白くてー」

「ちょっと待ってください。まさか両の手で足りない数になるとは思ってませんでした」

「慎ましい生活でも楽しく暮らせてー、アウトドア派でー、料理上手でー、守ってあげたくなるような感じでー、ちょっと不器用な所があってー、インドア派でー、ワイルドな感じの人かなあ」

「ちょっとしたキメラが誕生してませんかこれ?」

「まあでも、なんと言ってもやっぱりボクのこの可愛さに吊り合うようの人じゃないとダメかな!」

「ああ~~〜…ええっと、ちなみに男性と女性ならどちらがいいとかあるんですか?」

「無い!」

「わあ、そこはこだわりが無いんですね…」

「ふーん…なら魔王はどうなの?」


ウェーロの言葉に、三人の視線が向いた。

注目を集めた当人は、何やら意地の悪い笑みを浮かべている。



「金持ちだし地位って観点なら抜群だし、優しいっていうか、少なくとも角は立たないよ?顔もそれほど悪いわけじゃないしね。ムダ毛はあるし面倒な所はあるし私服はアロハシャツだけど」

「情報が近所のお父さんなんですよねぇ…」

「え〜、流石に魔王様はちょっとなあ。魔王軍に入ったばかりのボクじゃ分相応だよ。ね、カペちゃん?」

「ふーんそっか。だってよ?カペルコ」

「あら、身分や立場違いの恋なんて素敵じゃないですか。ねえカペルコさん?」

「…なんで私に話を振るんですか。知りませんそんな事」

「ふ~ん」

「へー」

「ふふふ」



三者三葉の言葉が返ってきたが、皆一様に含みを持った笑みをカペルコに向けている。

居心地の悪さを誤魔化すように手元の茶を一気に飲み干すところで、「そういえばさ」とアネエルが口をついた。


「カペちゃんって、どうやって魔王様の秘書になったの?」

「…どう、と申されますと」

「魔王様の秘書になんて、なろうと思ってもそう簡単になれないじゃん。数多いる魔族の中から、たった一人選ばれる訳でしょ?」

「それは、まあ…」

「どんな縁があったの?ボクじゃないけど身内の人が魔王様の親戚とか…?それか、カペちゃんにはボク達の知らない凄い力が…」

「カペルコぉ。お茶があるのにお茶菓子が無いよ。お姉さんひもじいなあ~」

「…申し訳ございません。今お持ちしますので」

「お茶ももう無いよ。おかわりよろしくね~」

「かしこまりました」



アネエルの言葉を遮ったのは、ウェーロだ。

スッと席を立ち、カペルコが退出していくのを手をひらひらと振って見送っている。

普段から気ままな振る舞いの多いウェーロではあるが、今の割り込みにアネエルもモナも何かしらの意図を感じた。


「…えっと…?」

「カペルコに肉親はいないよ」

「あ…」


行儀悪く椅子の上に胡坐をかくように座り、手ずから茶を自らのカップに注いで、一気に飲み干す。

そしてまたカップに茶を注ぎながら、普段と変わらぬ表情と声色で淡々と話を続けた。


「まだ物心つく前に捨てられたみたいでね。どういう経緯かは分からないけど、それを受け入れて育てたのがおっかないサキュバスのお姉さん。私も一度しか会った事無いけど、あの子と同じ真っ白な髪の毛だった。何かしら縁を感じたか、押し付けられでもしたか、それともたまたまか。そこまでは私にも…多分、カペルコにも分からない、本当のところまでは。多分ね」

「そ、そうだったんだ…」

「…丁度いいかもね。私が知ってるカペルコの事、今話しておこうか」

「待ってください。本人が不在の中、そんな勝手に他人の事情を聞くわけには―――」

「本人の口からは話せない事だって、きっとあるでしょ」


非難するようなモナの言葉を、静かな口調でウェーロが制する。

普段とは違うその雰囲気に、アネエルはほんの少し気圧された。



「自分からは言えないけど、でも知っておいてほしい事。汲み取っておいてほしい事も、きっとある。君たちは選べばいい。私から聞いた事の中から、ね」

「……」

「そんなに身構えなくていいよ。私が知ってるのはカペルコが魔王の秘書になった経緯と…」


言葉の途中でカップを口に運び、また一息に(あお)る。

そのまま茶を注ぐと、カップが半分ほど満たされた所でポットが空になったようで、注ぎ口から数滴の雫が滴り落ちた。


「幼いカペルコがどう生きてきたのか。その僅かな断片だからね」








――――――――――








アンタみたいなのは掃いて捨てるほどいるんだ。

だから自分を悲劇の主人公かなんかだと勘違いするんじゃないよ。



幼い頃に口酸っぱく言われていた言葉が、それだ。

社会はおろか、家庭というものにすらまともに触れる機会の無かった年頃の子供に向けた言葉としてはあまりにも酷だと、今となれば思う。事が、出来る。


育ての親―――或いは、飼い主。

カペルコを育てた女は、娼婦だった。

カペルコと同じ柔らかな白髪に、大きく弧を描く角を持つその女は、自らをカペルコの母と名乗る事も、カペルコを娘として扱う事も無かった。

ただ、彼女が取り仕切る娼館の従業員に倣い、カペルコも彼女の事を『ママ』と呼ばされた。

不健康そうな肌の色は厚い化粧で隠され、口元には特徴的な匂いのする煙草の紫煙を常にくゆらせ、その目はいつも自らの現況に不満を抱くように不機嫌に細められていた。



いいか、アンタは孤児なんだ。

私はそれをわざわざ引き取って育ててやってるんだ。それを忘れるんじゃないよ。



各地で絶える事なく行われる人間と魔族の争い。そして魔族と魔族の争い。

数多くの命が失われ、多くの魔族が生きる余力を失う。

戦争によって両親を失った子供は路頭に迷い、また命を繋いだ者も困窮の為に我が子を手放した。

そうして大勢生まれた戦争孤児の、お前はその中の一人だ。

そう、事あるごとに言われ続けてきた。

我が子を見限った自分の親族が有無を言わさず押し付けてきたのがお前だ、と。


歳を重ねて争いという概念を理解し始めると、そんなものが無ければ良かったのにと、『争い』というものを漠然と呪った。

そんなものが無ければ、『自分』は生まれなかったのに。

その小さい体では全貌の見えぬこの世界を、漠然と呪った。


衣料、食料、そして住む場所。

今思えば、生きる為に必要なものは用意してもらえた。それは感謝せねばならない。


だが与えられなかったものもある。

愛と、そして知識だ。




「アンタは本当に…!!こんな事も満足に出来やしないのかい!!」

「いっ…!痛ぁ……!痛いっ……!」


歳が十を超えた頃から、カペルコは娼館での雑用を手伝わされるようになった。

掃除や洗濯といった作業が主であったが、覚束無い事があると決まって角を思いきり捻じる様に掴まれる。

それは娼館で働くもっと前、幼少期の頃から続く娼婦からカペルコに対する『しつけ』であった。

身が擦り切れるような仕事としつけ、そして僅かな食事と睡眠。それがカペルコを形作った全てであった。


固い角が歪む程に荒々しく捻られ、角の根元が力に負けて鬱血する。

泣いたからといって止めてもらえる訳ではない事など百も承知だが、それでも痛みに反応して両目からは涙が溢れ出た。



「客の歩く場所には塵一つ残すなって言ってるだろう!どうしてそう見落としばかりするんだ!」

「ごめっ…ごめんなさい…!」

「いいかい、窓や床はもちろん、欄干の桟一本一本だってきっちり磨き上げるんだよ!」

「わ、分かりました…」

「分かったらさっさと磨きな!」

「うぅっ…はいっ…」

「布なんか使うんじゃないよ。両手を使いな、両手を!」

「はい…!」

「そうだ。根元から扱き上げるように、全力で擦りな!」

「はっ、はぁっ、はぁっ…!」

「時折緩急をつける事も忘れるんじゃないよ。全体を強く扱いたあと、先を優しく撫でるようにするんだ」

「んっ…!ふぅっ…!」

「その調子で全ての桟をピカピカにするんだね!滑りが悪くなったら一度舐るように舌を使って

「おいいいいちょちょちょ!!ちょっと待って下さい!!」









「なにさカペルコ?人の回想に割り込んできて」

「いや他人(ひと)の回想というか私の回想ですからねそれ!」


執務室の扉の前。

ティーポットと籠に入れた茶菓子を両脇に抱えて息を切らす、顔を赤くしたカペルコがそこにいた。


「他人の幼少期を勝手に改変しないでください!シリアスからの落差が酷過ぎるでしょう今のは!そんな掃除の仕方一度もやった事ありませんから!」

「あれ?身体のありとあらゆる所を使って建物の掃除を反復して行ってたんじゃなかったっけ?」

「そんな卑猥なベスト・キッドみたいな幼少期送ってませんよ…!」



任せた自分も悪いには悪いだろうが、本当に油断も隙も無い。少し目を離すとピンク色の方向に話を持っていかれる。

大きく溜め息をつきながら足早に三人に近付いて茶菓子を各々に配り、空いたカップにお茶を注ぐ。

その途中、アネエルに服の裾を掴まれてカペルコは動きを止めた。


「…でも、全部が嘘ではないんでしょ?」

「……」



俯きがちに言うアネエルの言葉は弱弱しい。

裾を掴むアネエルの手を取ると、その顔を覗き込むようにしてカペルコは微笑んだ。


「私には血の繋がった家族はいませんし、ママは、確かに厳しい所がありましたけど…でも従業員の中には優しくしてくれる人もいましたし、辛い事ばかりだった訳ではないんですよ?」

「…そうなの」

「はい。それにお茶汲みもその時に習いましたから。皆さんに美味しいお茶を召し上がって頂けるのは、その時のお陰です」

「…うん」


アネエルがたどたどしく両手をカペルコの腰の後ろに回すと、ボフッと音を立てて胸元に顔を押し付ける。

暫しどうしたものかと逡巡した後、カペルコは目の前の小さな頭を優しく撫でてやった。



「…魔王様はそうした子供達を支援する取組みを行っていると、以前聞いたことがあります」


その様子を慈しむように眺めながら、モナが口を開く。


「素晴らしい取組みです。カペルコさんも、もしやそうした所から魔王様の秘書に…?」

「いえ、そういう訳ではなく…私も、皆さんと同じような経緯なんですよ」




金色の髪をくしゅくしゅと掻き分けると、ふわりと甘い匂いが漂う。

カペルコの目の前で、手の平程の大きさの天使の輪(ヘイロー)が微かに揺れた。









――――――――――


※1 コメリ

東方の国ジパンヌで出店数ナンバー1を誇るホームセンター。

その店舗数は2位であるDCMブランドが700弱であるのに対し、コメリは1400弱という圧倒的な差を付けている。

比較的人の少ない農村部に多数出店し、農業方向に極振りした商品をラインナップする事で多くの農業関係者を支え続けている。

その展開力は凄まじく、魔界にもあの鳥マークのオレンジ色の看板がチラホラと見られるようになってきた。


因みにアネエル達が買い物してるのはおそらくコメリパワーの方。

あと鶏糞は袋越しでも臭気を放つし牛乳の紙パックは周りの臭いを吸着するから一緒にするのは本当にやめよう。


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