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たとえ何十年生きようと貧しく、しかも決して幸福にもなれない(その感度が低い)人たち

これはまあ、そこそこ長く続いているこのエッセイを読んでくださった方には、僕の主張としては当たり前すぎて書く気はなかった。


けれどもう当たり前すぎるのに、「すげえな。こんなバカが世の中にはいるんだ(だから俺はどんどん幸せになっていってるんだな)」ということをくり返し思うため、もう付加的に書いておくか、ということで記すものである。


この話だけ読む人にとってはラッキー?である。

僕の(ネットでもだいたいそういう感じの記事がよく出てくる、幸福傾向の人間の)多幸感エッセンスを知れるということだから(笑)


まず今日、道路(ばた)で作業をしていた。

僕の場合は、だいたい剪定か除草作業になる。


自意識が非常に大きいため、たとえば僕が、「この会社のたたずまいなら、除草の境界線はここらあたりだろう」というスケールは、非常に大きい(と思われる)


「おい、そこまでやんの(来るの)かよ!バカか!?w」というあたりまで、僕は清掃、除草する。


山道でも車道沿いなら、車に草や枝葉がかすることなどないよう、徹底的に、ひと通り綺麗に見えるよう、処理する。


ゴミが捨てられているのを見つけると、「やった!未来の大谷翔平への道だ(爆)」と、喜んでゴミを拾いに行く。

ほんとに。人生で『自分の運』を投げ捨てて、それを他人に拾われていることにまだ全く気づいていない人間がいるのだ。


昔よりはずいぶん減ったように思うが。


ともあれ、他人の敷地との境界線を清掃、除草する上で、気をつけておいた方がいいのが、『少し多めに(相手の所まで)やる』というのが良いやり方のように思う。


それは何かの本で読んで僕も実践するようになったが、まず文句を言われることはない。


こちらが勝手に掃除するとしても、自分のところだけ綺麗にすると、相手は体面を失うことにも繋がるので(向こうは汚いままだから)、境界線あたりは「多めにやっておく」と、向こうも文句を言いづらく、時に感謝までされる。

…しかしまあ、こんな時代だからそれで文句を言ってくる人もいるだろう。

そういう場合はだいたい分かるものなので、その時はきっちり境界線でやめればいい。


大抵の場合が少し余分にやると、こちらも気持ちが良いし、運気も上がる気がするのだが…


何にせよ、僕が今回言いたかったのは、その車道の脇で作業している時の、車の通行の仕方である。


大まかに3通り。


○普通に走っていく人間。

○作業している人間がいると知って、こちらに気を使うように間隔を取り、アクセルをいくぶん優しく扱って行く車。(これは素晴らしい。ぼくもそうするよう心がけているが(むろん対向車に注意しながら)、そういう人間は他人から「こういう人は幸福でありますように」と思われやすい。僕はそういったドライバーに、いつもそう思っているw 人のそういう思いをあなどっている人間はかなり多いが、まあ将来大した人物にならない。人に対して無神経で、人に尊敬される人間になどなれるわけがないのだ。恨みを買ってると、死に様も良くないし。


〇そして最後に、何かの怒りをぶつけるように、またはこちらを踏みにじるように、突然アクセルを踏み込んで、不快な音をけたたましく立てながら通行していく車。


本当にいる。

「こいつバカなのか?」という、そういうあからさまな低脳が。


路側帯ギリギリまでわざとらしく近づいてくる者もいる。(人に対して充分な間隔を取れない場合は、徐行しなければならない、という道交法すら、そういう人間は把握していない。本物のバカだから)


今日も何台かいたのだ。

路側帯はおろか、側溝の土地側で作業しているにもかかわらず、「ブォッ、ブォーン!!」と通り過ぎざま、わけのわからない感情のアクセル操作で、嫌がらせとしか思えないような不快な音を立てていく人間が。(たぶん、本人も解っていない。自分は何にイラついていて、何に嫉妬し、何に八つ当たりしているのか)


僕は、近所でいつも他人に騒音攻撃している人間に対してと同じように、そういう人たちについて思う。


まず、貧乏である。

おしなべて、そういう人々はお金に汲々(きゅうきゅう)とした人生を送っている。

欲は深く、出費は多く、他人の良いところにいつも嫉妬し、自分が人生で成功者の側にいないのは、他人のせいだと本気で思っている。

高級車でも嫌らしい運転をする人間がいるが、そういう人物も、まず外見だけで、実際はお金に困った生活をしている。


目先の利益にとらわれて、人の心を踏みにじるという、未来の大きな損をしていることに全く気づいていない。


そしてなぜか(無神経だからか)、心と身体だけは頑丈で、いつまでも人への嫌がらせのような行為をやめない。


ずっと、貧乏だからそうなったのかと僕は思っていたが、逆だった。

そういう人間だから、いいトシになっても経済的に安定せず、貧しいままなのである。


不幸な人間と、人生で豊か、幸福になっていく人間の違いは、他人の行為や、何らかの題材によって、自分と他人の心を学んで、行動を変えていけるかどうかにかかっていると思う。


そして、どんなに成功しようと、学びを忘れると(人への行動を誤ると)不幸は襲いかかるように社会はできていて、やはり人生とは、どんな場所の誰にも平等な部分があるように感じる。


だから、幸福や安定した富は、一部の人間に集中していっても仕方ないと思うのだ。


そして周りから幸福そうに見える人間の、普段の、不断の努力は、本当にささいなことの積み重ねなのだと、実感する。


多くの人は“ささいなこと”をあなどり、“大きなこと”を成し遂げても、そののちに思い上がって不幸になる人間は多い。


ずっと幸福でいるには、やはり“気持ちを積み重ねていくこと”、今の自分は間違っていないか、確認し続けること。

ときどきミスを犯すのは当然で、それにどう対処、態度を正していくか、にしっかり向き合えるか、が良い道なのだと思う。


幸福になる方法は、もうネットにいくらでも上がっていると思う。


でも、後天的に健康じゃない人が多くいるように、「こうすれば健康になれますよ」を自分なりにでも実行できない人が、たぶん世の中には案外多いのだ。


そういう人たちが車に乗っていて、人が道路(ばた)で作業しているのを見つけた時、「ブォッ、ブォーン」とけたたましく吠える。


感情とともに自分の将来の幸福を投げ捨てて、不快なことをされても同様のことを誰かにせず、良い道を模索する人に、人生の良いものを持っていかれる。


まあ、それでいいのだと思う。

何を求めてどう行動するかは、人それぞれなのだ。


ただ生きてるなら、大抵イライラしてるより幸福な方がいいし、『沈黙は金、雄弁は銀』はやはり確かだと思う。


大声で騒ぎ立て、人生に波風立てている人よりも、静かに微笑む高齢者は、おしなべて幸福そうである(当たり前だ)


その経験知、実践力に、乾杯(完敗)。


(オヤジ化してきた…ダジャレ)












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