『幸福の種』をもらい、その効果を実感する。
虐待を受け続けている少女は幸福になれるのか?
大谷由美子は掌の種をじっと見つめた。
それは実に奇妙な形をしていた。ひまわりのように楕円形でもなく、鳳仙花のように球形でもなかった。大まかに分類するならばおそらく球形に含まれるのだろうが、全体的に凹凸があり隆起している部分もあれば陥没してる部分もあった。
もちろん初めて目にする物であった。
由美子は指でつまみ上げると今度は顔に近づけてみた。
黒や灰色が入り交じったような色をして表面には傷口を覆う瘡蓋のような物が数カ所にこびりついていた。
(本当にあの事が忘れられるなら…)
――吐き気がするほどのあの忌まわしい記憶を。
由美子は掌の中の種をぎゅっと握りしめた。握った種の感触は決して良いものとは云えなかった。
何かしら奇妙なものだと思うが由美子は『幸福の種』を植えてみることにした。
アパートのベランダに吹き込む風は生暖かく湿気を含んでいた。柵の向こう側には一階の地面から二階の由美子の部屋にまで延びてきている木々があり、それらは風に吹かれ、ざわざわと揺れていた。
白いブラウスに灰色のスカート、胸には小豆色のリボンという格好は中学の制服姿である。由美子は帰宅してすぐにベランダに出た。
コンクリートの上にしゃがみ込み、由美子は植木鉢の土に人差し指の第二間節あたりまでをすっと差し込んだ。湿った土の感触が小学生の時にやった朝顔の自由研究を思い出させた。
(あの時は楽しかったな…)
由美子は顔を伏せた。
優しかった父親は亡くなり母親は再婚した。そして今度は母親が、由美子が中学に入学してすぐ交通事故で死亡した。
残された義理の父親と二人きりの生活が始まった。
噛みしめた唇から血が滲んだ。
(――――本当に忘れられるなら…)
あの女性の言葉は今から思えば常識を逸脱していた。少し冷静に考えればおかしいとわかったはずだ。しかし、おかしいと判っていても由美子は試してみたかった。
――この奇妙な種を植えて水をかけるという行為を。
騙された可能性は充分だ。子供だからすぐに信じるだろうとあの女性は今頃、笑っているのかもしれない。そう思ったがあの女性はこの『種』の料金を要求もしなかった。
――――あの女性は何者で何を目的としていたのか。
そんな事はどうでも良い。問題はあの女性の言葉が本当であるかどうかである。
それは今から試してみればはっきりとすることなのだから。
由美子は土の中に種を入れ、上から再び土をかぶせた。みるみる間に歪な種が沈んでいく。家の中に入り台所からコップに水を汲んでくると再び植木鉢の前にしゃがみ込んだ。
ゆっくりと、水をかけた。じわじわと土は水を吸収していく。由美子は空になったコップを植木鉢の傍らに置くと互いの二の腕をぎゅっと抱えた。
(あの女性の言葉が本当なら幸福な気分になれるはず。忌まわしい記憶はなくなるのだから……)
由美子は植木鉢を凝視した。
あの女性の言葉が幾度も頭の中に響く。
これは『幸福の種』なのだと。
*
湿った風を頬に受けながら由美子は数分間、植木鉢を見つめ続けた。顎を伝って汗が首筋に流れ落ちる。しかし何の変化もなかった。
(やっぱり騙されたんだ…)
理屈で判っていても、種の効力を信じようとした自分が情けなかった。判っていたが信じたかった。
植木鉢を片づける気にもなれない。しばらくの間、脱力感に身を任せていたが、やがてのろのろと立ち上がるとガラス扉越しに部屋の中の時計にふと見た。
針は六時を指していた。
(こんな時間! 早く夕飯の支度をしなくちゃ…また)
昨晩、殴られた部分がまだ鈍く痛む。赤黒い内出血の痣はそこだけではなく身体中に散らばっていた。慌てて扉を開けてサンダルを脱いだ瞬間、背後に広がる空間がざわざわと揺れ動く様な気配を感じた。
そして次の瞬間、足許から全身に何かが這い上って来たような感触が生じた。全身に何かが、ねっとりと絡み付くような感触。
――目に映る景色すべてが一瞬、歪んだ。
――微かな眩暈と虚脱感。
――そして、後方から自分の身体が何かに引きつけられるような奇妙な感覚が生じた。
軽い痺れに似たそれは胸、心臓部分そのものを刺激する。
(えっ、何…?)
後ろを振くと植木鉢があった。
目には見えない力がゆっくりと由美子の身体を包み込んだ。そして怪我をした際に傷口から血膿を絞り出すように鬱積した厭な気持ちを絞り出し始めた。
血膿をじゅくじゅくと出つくすと胸が軽くなり、何カ月も忘れていたやすらぎが戻ってきた。羽が生えた様に心が軽くなった。
(まさか…本当に?)
自分の胸に手を当てた。気のせいではない。あれほど鬱積していた不快感は不自然なほどに跡形もない。完全に消え去った。
(あの女の人が云った事は本当だったんだ)
由美子自身も『種』の効力を完全に信じてはいなかったがもう信じるしかない。気のせいでなければ思い違いでもない。
真実であったのだ。
これほどにも心が晴れ渡ったのは数カ月ぶりである。そう、義父が失業して以来なので半年ぶりであった。そう思った瞬間、由美子は空腹を覚えた。
由美子はエアコンの室外機の横に植木鉢を置いた。ここなら目立たないし義父が酔っぱらっても壊すことはないだろう。
ふと空を見上げると灰色の空が広がっていた。今朝の天気予報では晴れだと云っていたはずだが。しかしここなら植木鉢が雨に濡れることもないだろう。
大切な『幸福の種』
信じられない事だが事実である。
しかしこの種をくれたあの女性は一体何者だったのだろうか。
由美子は数時間前に出会った不思議な女性の事を記憶の中からゆっくりと思い起こした。