幸福の種との出会い
不思議な女性であった。
何もかも奇妙で異質さを醸し出していた。
由美子が出会ったのは下校時であった。街を一人で歩いていると視線を感じたのだ。生来、そういう感覚には鈍い方であったがその時ばかりは違った。
右斜め後方を振り返るとその女性はいた。商店街を抜けた場所で人通りは少なくはなかったのだが由美子はその視線が彼女からだと何故かすぐに分かった。
薄汚れたビルとビルの間にテーブルと椅子があり、そこに座っていたのだ。占い師の様だった ビルの影になっているせいかその場所だけひどく暗く感じられた。まるでその空間だけ墨を溶けこませたような重く沈んだ色調であった。
彼女の姿はその場所に溶けこんで薄闇に同化されていたが、何故か存在感は強く誇示されていた。由美子が思わず足を止め、ためらっているとその女性は手招きをした。
金銭的余裕もなかったので占いなどをする気は全くなかったのだが、足が勝手に彼女の方に進んだのだ。
テーブルには黒い布が敷いてあり、水晶玉が置かれていた。女性は由美子に座るように勧めた。綺麗な女性であった。透けるような白い肌、流れるような長い漆黒の髪、彫りの深い顔立ち。長い睫毛に縁取られた大きな黒い瞳を見ていると吸い込まれそうな気すらした。存在そのものが、神秘的な雰囲気をかもし出していた。
(…すごい、綺麗な人)
女性に見つめられると由美子の身体は再び独りでに動いた。ふと気がつくと女性の真向かいの椅子に腰を下ろしていた。
水晶玉を撫でる手は白く、爪は長く鋭かった。そして女性が微笑んだ時、微かに動いた唇は血を舐めたように赤かった。
「――助けてあげましょうか?」
女性はそう云った。不思議な声だった。高くもなく低くもなく女性とも男性とも思えない声であった。近くからでもなく遠くからでもなく、どこから聞こえてくるのかもよく分からない気した。
由美子が言葉に詰まっていると、女性は更に同じ言葉を繰り返した。
「……どういう、意味ですか?」
由美子はやっと口を開くと途切れ途切れに尋ねた。自然と声が掠れた。
この女性は何を知っているというのだろう。
「隠さなくてもいいのよ。あなたも大変よね。あんなお義父さんと暮らさないといけないなんて」
背筋に冷たいものが這いあがってきた。喉が痺れ、口の中がすさまじい早さで乾ききっていく。この女性は一体、何を知っているのだろうか。初対面のはずなのに。
「身体中、痣だらけでしょう?かわいそうに」
「…何を知っているのですか?」
「一昨日の晩は最悪だったでしょ?まだ小さいのに」
由美子の全身が粟立った。
(この人は知っているんだ! 一昨日の晩にお義父さんが私にした事を!)
由美子の凍り付いた表情を見ると女性は悲しそうな表情を浮かべ、歪な形をした種を一つどこからか取り出してテーブルの上に置いた。
「あなたにあげるわ」
女性の白く細い指が小さなその種をつまみ上げた。
「あなたの様な子はほっておけないの」
ねっとりとまとわりつくような口調であった。女性の瞳の中に底知れぬ妖しさが在るように一瞬、感じられた。
しかし、それは一瞬であった。
「これはね、『幸福の種』と云うの。悲しいこと、辛いことがあった時は土に埋めて水をかけてあげて。そうすればこの『種』がそういった苦痛や厭な気持ちを吸い取ってくれるのよ。だからいつも笑顔でいられるの」
「……」
一体どういう意味なのだろう。女性の口にした言葉がよく分からない。
「嘘みたいな話と思うかもしれないけど真実なの。家に帰って試してみたらすぐに分かるわ」
「…」
「試してみたら私の言葉が正しいと分かるわ」
瘡蓋の貼り付いたような歪な種と女性の顔を交互に由美子は見つめた。
(この人はどこまで本気で云っているのか分からない……たぶん、もし欲しいと云ったらすごくお金を取られるんだ)
「お金はいらないわ」
どう答えたら良いのか分からず、うつ向き加減に女性の顔と種を交互に見つめた。どう考えても嘘のような話で信じがたい内容であるが無料というのは少々不思議である。
霊感商法のような類でないかとも思われたがそれならば無料というのはおかしい。普通なら莫大な金額を巻き上げられるはずである。
「試してみるだけでも損はないと思うわ。それに、あなたは欲しいはずよ」
見抜かれていた。
正直に云うと欲しかった。効果についての信憑性は薄いが、気休めには充分である。無料と聞いてはなおさらである。
「騙されたと思って…ね」
「……」
女性が指で種をつまみ上げると由美子は自然と手を出していた。掌の中のそれを見つめると女性は笑みを浮かべた。
「家に帰ってさっそく試してみたらいいわ。必ず効果はあるから」
「お金、当にいらないんですよね」
遠慮がちな由美子の問いに女性は頷いた。
「これって、植えて水にかけるだけでいいんですよね」
「そう。でも、涙の方がもっと効果があるわ」
「…涙?」
「涙よ。辛さや悲しみによる涙の方が」
「本当に悲しい事とか忘れさせてくれるんですか?」
「今更、何を云っているの?本当よ。でも忘れさせてくれるっていうよりは『負のエネルギー』を吸い取ってくれると云う方が正しいわ。だから結果的には悲しい出来事も悲しい記憶ではなくなるわけ。記憶自体がなくなる訳じゃないの」
「…負の…エネルギー?」
云っている言葉の意味がよく分からない。
「とにかく試してみて。でも一つだけ約束して欲しいの」
「約束?」
「そう。誰にもこの『種』の事を話してはダメよ。内緒にしてほしいの」
それくらい簡単なことだ。
由美子は頷くと頭を下げた。女性に礼を云うと足早に家に向かった。
***
女性の言葉はすべて真実であった。
台所で夕飯の支度をしている時も、料理をする事が楽しかった。生活が苦しいため、賞味期限の切れた物や切れかけた物が中心の料理だがそれはそれで工夫次第ではご馳走になると思っていた。
由美子の部屋はアパートの二階にあった。築二十年、少々痛んでいるがまだ充分住める。母親の紀子が義父の忠の結婚した時から住んでいるので五年くらいだ。
義父の忠は生来、陽気な性格であった。紀子が亡くなった時も、この父親となら上手く生活していけるだろうと思った。紀子が亡くなったのは去年の春、中学の入学式のすぐ後だった。忠は二人でやっていこうと云ってくれた。
ところが歯車は大きく狂い始めた。忠の会社が今年の一月に倒産したことがきっかけであった。初めのうちは再就職先を探したりしていたが、次第に飲酒を繰り返し、暴力を由美子にふるうようになった。そして呑む量は日毎に増していった。
(仕事、早く見つかればいいんだけど)
由美子が溜息をついた時、鞄の中から携帯電話の着信音が鳴った。
「はい、大谷です」
「あっ、由美ちゃん?」
受話器越しにクラスメートの佐野京子の声が聞こえた。小学生からの友人でなんでも話せる間柄だ。
京子は心配そうな口調で、
「今日、一緒に帰れなくてごめんね。委員会があって」
京子はクラスのホームルーム委員を務めていた。
「別にかまわないのに。わざわざそんな事で?」
本当にかまわない事であった。今日の放課後に委員会があるのも知っていた。
「何か相談事があったんじゃないかなって…。昨日は学校、休んでいたし、今日は一日中、顔色が悪かったし」
さすがは親友である。全くその通りであった。
しかし、もう心配事は消滅した。『幸福の種』が厭な気持ちを取り除いてくれたのだから。今や義父に対しての嫌悪感は皆無であった。
「…本当に大丈夫なの?正直に云ってくれていいのよ」
「実は今日の帰りに……」
由美子は云いかけて慌てて口を閉じた。思わず『幸福の種』の事を話してしまいそうになった。電話越しに京子が、どうしたのか、と問いかけてきたが何でもないと答えた。
話してはいけない。
秘密にするという約束であった。
「お義父さん、仕事見つかったの?」
「ううん」
「…本当に大丈夫なのね?」
「うん」
「…」
京子の思案する雰囲気が感じられたので由美子は大丈夫だと、心配ないと答え続けた。
「分かったわ、でも何かあったら相談してね」
京子にだけは忠の暴力を相談していた。しかし、それでも一昨日の晩の出来事は云いづらかった。
だがもう、そんな心配も無用である。由美子は電話を切るとカーテンを開けて外のベランダに出た。




