七話 安心感
バカでかい顔をした異形の怪物。見たことのない化け物。
そいつを前にして、僕は足がすくんで動けなくなった。
脳みそは逃げろって指示を出しているのに、体が反応しない。
大声を出して助けを求めるって手もあるけど、それもできない。
逃げられないし、助けを求められない。怪物に立ち向かうのは無理だとしても、このくらいならできていいのにできなかった。
必要なことはできないくせに、体は不要な反応ばかり示す。奥歯をカチカチ噛み鳴らしたり、怖くて涙がにじんだり。
僕が動かない代わりじゃないけど、怪物が動く。
でかい顔に不釣り合いな胴体をしているのに、なぜか動いている。
機敏とは言えないし、僕の足でも走れば逃げ切れそうだけど……
でも、僕の足はほとんど動いてくれない。
逃げなきゃ、逃げなきゃって必死で足掻き、わずかに後ずさりするだけだ。
こいつがなんなのか、僕は知らない。見たことも聞いたこともない。
僕の頭がおかしくなって、幻を見ているって考える方が筋は通る。
それほど非現実的な光景だけど、この恐怖感や存在感は幻とは思えない。
まごうことなき現実だ。
一体、なんなんだ?
こんな怪物がいるとか勘弁してよ。僕はいつから映画の世界に紛れ込んだの?
変死事件の犯人かとも考えたけど、これだけ目立つ怪物なら噂になっていてもいい。というか、なっていなきゃおかしい。
学校でも町中でも、誰かが噂しているはずだ。
何も聞かないってことは、変死事件とは無関係なのだろう。
事件とは関係がなくても、非常に恐ろしい存在であると分かる。見た目も恐ろしいけど、本質が特に恐ろしい。
僕はここで殺される。真実を知ることなく死んでしまうのだ。
嫌でも理解してしまう。
まあ……しょうがないよね。
しょうがないって言いたくはないけど、しょうがないんだ。
四季と殺人犯の話をしていた時も考えたように、死にたいわけじゃない。
死にたいわけじゃなくても、僕の力が及ばないことはいくらでもあるし、殺されたら殺された時だと思って諦めるしかない。
自分の身は自分で守らなきゃいけないのに、守れる力がないから悪いんだ。
僕一人でまだよかったと考えよう。
さっきこいつに遭遇していたら、紺屋さんも殺されていた。
このタイミングだったのは、不幸中の幸いだ。
怪物は僕に接近し、大口を開けた。
大きさ以外は人間の口そのものだ。白い歯が並び、赤い舌も見える。上と下の歯の間には、唾液の線がつーっと伝っている。
でかい口だから、僕をパクリと食べてしまえそうだ。
噛まれたら痛そうだなってバカな思考がよぎる。
でもさ、どうせ死ぬなら楽に死にたいよね。噛み切られたり押し潰されたりしながら、じわじわと死んでいくのは苦しい。
死ぬのは嫌だ。痛いの怖いのも嫌だ。
そんな考えばかりが頭に浮かぶ中、不意に四季の顔も浮かんだ。
失礼だとは思うけど、大口を開ける怪物が四季に重なったんだ。
中華料理やハンバーグをおいしそうに食べていた四季に。
死の間際に、親しい友人である如月や紺屋さんの顔が浮かぶなら分かる。
出会ったばかりの四季だったのが意外だ。あの変な女の子のことを、僕は結構気に入っていたらしい。
僕をからかう言動も、嫌じゃなかったよ。むしろ楽しかったよ。
死ななかったら、もっと仲良くなれたかな。残念だ。
怪物の口が僕に迫る。食べられてしまう。
「さよなら、四季」
助けを求めようとした時は声が出せなかったのに、最期の挨拶だけはできた。
目をぎゅっと閉じる。怖くて怪物を直視していられなかった。
心の中で、もう一度さよならを告げて、死を覚悟した。
「さよならは早い」
僕の耳に、女の子の声が届いた。
昨日と今日ですっかり聞き慣れた四季の声だ。
思わず目を開ければ、僕が見たのは怪物が吹っ飛んで行く様子だった。
「四……季……?」
「私は速峰四季。速峰春真のお姉ちゃん。お姉ちゃんは、弟を守る」
……どうしよう。物凄く嬉しいよ。
恐怖心からじゃなく、嬉しさから涙が出そうだ。
「紺屋四季になるんじゃなかったの?」
僕の口から出たのは、そんなセリフだった。
助けてくれたことへの感謝じゃなく、四季を心配する言葉でもない。家でしているみたいな軽口だ。素直じゃない。
口では素直になれないけど、酷く安堵していた。
普通に考えれば、四季の身を案じなきゃいけない場面だ。
物語の主人公なら、僕はいいから四季は逃げろ、とでも叫ぶのかな。自分が盾になって四季を逃がそうとするかもしれない。
格好いいよね。勇敢だよね。
僕は格好よくないし、勇敢でもない。逃げるように言わず、守りもしなかった。
四季に逃げてもらいたいって気持ちがまるで湧き上がらない。
薄情ってよりは、四季なら大丈夫だって気持ちがある。理屈じゃなく感覚で。
僕の期待に応えるように、四季は怪物に向き直る。
そして、でかい顔を全力でぶん殴った。
ぶん殴られた怪物は、またしても吹っ飛ぶ。十メートルは吹っ飛んでいるね。
小柄な少女が、異形の怪物をぶっ飛ばす。非現実的な光景だ。
武器を使っているなら分かるけど素手だからね。素手でフルボッコにしている。
怪物はでかいけど、でかいだけだ。動きはとろいし、手足が赤ん坊サイズだから殴る蹴るはできない。大きな口で食べるしかできそうにない。
僕だって、ほんの少し勇気があり、かつ鉄パイプや金属バットを持っていれば戦えそうだ。素手じゃ無理だけど。
四季は軽やかに動き回りながら顔面を殴り続ける。相手がでかい分、いい的だ。
怪物が四季を食べようと口を開けても、簡単に避けている。危ない場面は一切ないし、安心して見ていられる。
避けて殴って、避けて殴って。
何十発も殴り続ければ、怪物の顔がパンと弾けた。
血や肉片は飛び散らない。弾け飛んで消えてしまった。
夜の静寂が戻る。この場に人がきても、つい今しがたまで怪物がいて、戦闘が繰り広げられていたとは思わないだろう。
実際に目にした僕ですら、夢だったんじゃないかと感じてしまう。
ここで目が覚めて、朝になっている。僕は自分のベッドの中にいて、変な夢を見たなあって苦笑するんだ。
あいにく目覚めることはなかった。現実なんだね。
怪物を倒した四季は、僕に柔らかく微笑む。
「私、お姉ちゃん。弟を守った」
「そう……だね。四季お姉ちゃんのおかげで助かったよ。ありがとう」
自分で「お姉ちゃん」の言葉を出せば、頭がズキッと痛んだ。
お姉ちゃん? 僕には、お姉ちゃんが……
「ロリコン」
四季がいつものようにロリコン呼ばわりしたせいで、何か浮かびかけていたけど雲散霧消した。
「ロリコンじゃないよ」
僕もいつものように返事をした。
四季はそれ以上何も言わずに、僕の手を握る。
傍からは、妹が兄に甘えているように見えるだろう。
四季としては、お姉ちゃんが弟を安心させるために手を握ったんだ。
小さな手だ。怪物を殴り倒したなんて信じられない。
四季は自分を強いと言っていた。冗談だと思ったけど、本当に強かった。
やろうと思えば僕を殺せる。それだけの力がある。
なのに、四季の手を恐ろしいとは感じなかった。いつまでもつないでいたい。
「大丈夫。私、お姉ちゃん」
「うん」
「帰ろう」
「うん」
気の利いた言葉も出ずに、僕と四季は手をつないだままで歩き出す。
家に着くまで、いや、家に着いてからも、僕たちの手は離れなかった。
色々と聞かなきゃいけないことはあるけど、僕はそれもできない。
お風呂にも入らず、自室のベッドに潜り込んだ。
四季も僕のベッドに入り込み、一緒に寝てくれる。
シングルベッドに二人で寝るのは、僕たちが小柄なことを差し引いても窮屈だ。
今は窮屈な方がありがたい。人肌の温もりが落ち着きを与えてくれる。
こんな風に誰かと一緒に寝るのは初めてだ。
四季を拾ってから、僕は初めて経験することばかりだな。
そもそも女の子を拾うって経験が初めてだし、以降も一緒に朝食を食べたりロリコンだってからかわれたりとか。
下着姿で出迎えてくれたのも、こうして一緒に寝るのも。
怖い経験もあった。変死体を見ちゃったし、さっきは怪物に襲われたし。
いいことも悪いことも含めて初めてだ。
でもね、四季。
「四季がいてくれてよかったよ。ありがとう」
まどろみの中で、僕は感謝の言葉を口にした。
四季がいてくれるおかげで、あんなことがあったばかりなのに熟睡した。
男なのに恥ずかしいとか情けないとかって気持ちはないし、エッチな気持ちにもならない。
安心感。それだけがあった。




