終章 星霜の白河
時空の河。乳白色の深い霧が掛かり、大河は白を基調としつつも時折七色の輝きを見せる。
義娘が投げ込んだ革鞄から彼の服を、二百年前“蒼の星”で別れた時と同じ物だ、を着させ、膝枕をして横たえた。相変わらず中性的で奇跡のような綺麗な顔だ。幼い頃も勿論片鱗は見えていたが、あの頃は世界のせいで想像もしていなかった。
「ん………ぅん……」
「まーくん!?」
まだ魔祓いが完全に成功したとは断言出来ない。燐の魔に巻き込まれ、優しい彼の心が失われてしまった可能性はゼロではないからだ。
開いた瞼の奥には、虚ろな黒い目。ゆっくり光を取り戻し、首が俺の方へ曲げられた。
ガバッ!!
突然抱き着かれて吃驚する。彼は―――俺の胸で嗚咽を漏らしていた。
「ウィル、とうさま……かあさまが………皆が……」
「ああ」
二百年間耐えてきた別離の痛みを、誠は全て吐き出すように涙を流す。俺は少しでも楽になれるよう、頭や背中を撫でてやった。
「ん………っ!」
不意にキスされる。しょっぱい唇の奥を探り、舌の先端同士が触れ合った。――強引な所は母親譲りか?いや、今は平静でないだけだな。
「……落ち着いたか?」
「ごめん、なさい……とうさま。私のせいで……かあさまと……」
成程。とうとう彼も全部思い出してしまったのか。
「古い話だ。お前が気にするような事じゃない」
勿論こんな言葉では到底納得しないだろうが、それでも段々と泣き止んできた。
袖で涙を拭い、右肩の後ろから半透明な羽を広げる。彼の力の体現である慈悲の翼は、宇宙にあるどんなシルバーアクセサリーより綺麗な銀色で、思わず見蕩れてしまう。
「その鞄……私のバッグ?」
「ああ。ご丁寧に娘さんが持って来てくれた」
「ルザが……」
ポケットの一つの留め金を開け、古びた写真立てを取り出した。セピア色の四角には満開の桜の木、白鳩調査団が勢揃いで写っている。この頃の弟の顔半分は青紫色だ。それを意に介さず、フィアンセの詩野さんと仲良く手を繋いで微笑んでいた。
中央で並ぶ俺と誠も、直前に“黒の都”で酷い目に遭ったとは思えない程笑顔だ。こうしていると、普通のカップルにしか見えなかった。とすると足元のオリオールはさながら俺達の子供か。
「この時の事、覚えてる?」
「当たり前だろ。俺にとってはほんの一ヶ月前だ」
「え??」
俺は霧靄に覆われた河を指差し、見てみるといい、と言った。
「う、うん……」
まだ戻り切っていない幼い瞳が流れを覗き込み、え?え??どう言う事??、しきりに小首を傾げた。ここは上がってきた所より若干上流。つまり、見えるのは過去。
「珍しい物が映ってるだろ?」
「それ所じゃない……な、何でまだウィル達と私が戦っているの?私はちゃんとこうしているのに……?」“燐光”の埋まっている辺りを押さえながら問う。
「それは、ここが時間軸から隔絶された特殊な場だからだ」
「時間軸?確かに……」立ち上がって両腕を広げて見上げ、羽を動かしてアンテナのように周囲の氣を感じ取る。「不思議な感じがする……死んだ人達の氣もおぼろげにあるし……」
「あの宇宙の過去も、未来も――全ての時間が、その河に映し出されて繋がっているんだ」
「え?じゃあ、ここを通って二百年の時間を一気に飛び越えたの?」
「ああ、まーくんは頭が良いな。俺は何度も説明されてやっと理解出来たのに」
思わず舌を巻く。流石は天使人の一羽、と言った所か。
「説明?」彼はきょろきょろした。「ここ、他にも誰かいるの?」
「その内会うさ。安心しろ、一人を除いて皆エレミアでまーくんが会った事のある奴ばかりだ」
「エレミア……もしかして、ねえさま?」
それには敢えて答えず、俺は隣に立った。
「伸ばしたのか髪?」以前は肩までだった黒髪ストレートが、今は胸より下にある。
「う、うん。何となく、切るの面倒で……」
“黒の絶望”の影響で心を冒されていたせいか。大体予想が付く。この様子だと食事もロクに咽喉を通らなかったはずだ、何十年単位で。ジュリトもさぞや点滴のし甲斐があった事だろう。
「変?」
「全然」
どこか退廃的な色気さえ漂わせ始めた彼は、ますます女にしか見えなかった。
「ああでも、前髪は目に入りそうだから切った方がいいな。あと、何か食べた方が」
さっき着替えさせた時も、余りの骨の浮き振りと軽さに仰天したのだ。二百年前はまだ程々(と言っても普通の人間では立派な栄養失調レベルだが)に付いていた肉が全て落ち、骸骨すれすれの様相を呈していた。
「そう、だね……やっぱりウィルに言われると、やらなきゃって思うよ。最近は……起きててもまるで夢の中みたい。ずっとふわふわしてて、窒息しそうな……」
彼は苦しげに胸を押さえ、深い息を吐いた。羽がパサッ、後ろへ動く。
「……燐さん?……そう、ならいいの。何時までも待っているから……」
「あいつは一緒じゃないのか?何処へ?」
「悲しい鈴蘭の咲く場所……気が済んだら戻って来るって」
「そうか」
あの花売りの少女の所か……儚い彼女の愛情が、強力な魔を奴自ら祓う原動力になったんだな。
立っていた彼が突然、ぺたん!と尻餅を着いた。
「あれ?」
小首を傾げ、本人も摩訶不思議と言った表情をする。
「封印されていた力をいきなり使って疲れたんだな。――よし。まずは彼等と合流しよう」
「うん、わっ!?」
俺は背中と膝の下に手を入れ、驚く彼を抱え上げた。
「降ろして、一人で歩けるよ!」
「駄目だ。無理をさせたらお前の姉さんに怒られる」
「えっ!?やっぱりねえさまがいるの!!」
しまった、失言を。まぁいい。どうせすぐに会える。
彼をなるべく揺らさないよう、俺は時の河の淵をゆっくりと歩き出した。




