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青い涙の降る夜  作者: TIA
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第1話 青い流星



 その夜、汐見市の空を横切った光を、久我蒼真は救急車の助手席から見ていた。


 最初は花火だと思った。九月の終わりで、祭りの季節はとうに過ぎている。それでも光は、打ち上げ花火のように尾を引いて、北の山並みへ落ちていった。


 色が妙だった。流れ星といえば白か、せいぜい橙色だろう。あの光は青かった。冷たく濁った、深い水の底を覗き込んだときのような青。


「見たか、今の」


 運転席の宮野が、ハンドルを握ったまま身を乗り出した。


「流星ですかね」


「でかかったな。どこか落ちたんじゃないか」


 後部座席から、班長の大石が低い声で言った。


「前見ろ、宮野。患者乗ってんだぞ」


 後ろのストレッチャーには、階段から落ちて足首を折った七十代の女性が横たわっている。痛み止めが効いてきたのか、目を閉じて静かに呼吸していた。


 蒼真はもう一度、窓の外に目をやった。光が消えたあとの夜空には、何も残っていない。ただ、網膜の奥に青い残像が焼きついていて、瞬きをしてもなかなか消えなかった。


 ――ひかりは、かえるよ。


 不意に、そんな声が耳の奥で響いた。


 二十年前に死んだ妹の声だった。


 灯は、七歳で死んだ。蒼真が八歳のときだ。秋の初めに高熱を出して入院し、一度は回復しかけたが、秋の終わりに眠るように息を引き取った。病名は最後まで、両親にもはっきり説明されなかったらしい。


 入院中、灯はよく窓の外を指差して、同じ言葉を繰り返した。


「ひかりは、かえるよ」


 どういう意味かと尋ねても、灯は首をかしげて笑うだけだった。自分でもわからない、という顔で。


 なぜ今、あの言葉を思い出したのだろう。


 蒼真は小さく頭を振った。疲れているのだ。今夜で連続三回目の夜勤だった。


    ◇


 三日後の未明、午前一時四十分。


 汐見市消防本部の出動指令が鳴ったのは、仮眠室で横になってから二十分も経たないころだった。


『救急出動。汐見市北区山ノ辺町二丁目。四十代男性、高熱、意識障害。家族からの通報』


 蒼真は跳ね起きて、活動服の上着に腕を通した。廊下の蛍光灯がやけに白く、目の奥に刺さる。


「今夜、多くないか」


 車庫へ向かいながら、大石が言った。


「これで四件目ですよ。全部、発熱と意識障害」


「インフルエンザにしちゃ早いな」


「北区ばっかりなのも気になります」


 大石は答えなかった。ただ、無精髭の浮いた顎を指でこすった。考え事をするときの癖だった。


 救急車がサイレンを鳴らして走り出す。深夜の県道は空いていて、信号の黄色い点滅だけが規則正しく流れていった。


 山ノ辺町は、市の北の外れにある古い住宅地だった。その先は山になり、三日前の夜、あの青い光が落ちていったあたりにつながる。


 ニュースでは「隕石の可能性」と報じられていた。県と大学の調査班が入ったが、落下地点はまだ特定されていない。山林が深く、捜索が難航しているという。その程度の報道で、翌日には誰も話題にしなくなった。


「そういえば、例の流れ星」


 宮野が言った。


「うちの婆ちゃんが、あの夜から犬が鳴きやまないって言ってました。北のほうに向かってずっと吠えてるって」


「犬なんてそういうもんだろ」


 大石はそっけなく返した。


 蒼真は黙って、フロントガラスの向こうの暗い山影を見ていた。


    ◇


 通報のあった家は、二階建ての木造住宅だった。玄関の明かりの下で、パジャマ姿の女性が両腕を抱いて立っている。


「こっちです、主人が、主人が」


「落ち着いてください。どちらにいらっしゃいますか」


「寝室です、二階の」


 階段を上がると、廊下の突き当たりの部屋から、湿った熱気が流れ出していた。


 男は布団の上に仰向けに横たわっていた。顔が真っ赤に上気し、額に浮いた汗が枕を濡らしている。


「わかりますか。救急隊です。お名前言えますか」


 蒼真は男の肩を叩いた。反応がない。瞼は半開きで、眼球がわずかに動いているが、焦点が合っていない。


「体温計ります」


 耳式の体温計を当てる。表示された数字に、蒼真は一瞬、目を疑った。


 四十一・八度。


「班長」


「見えてる。脈は」


「速いです。百四十……いや、百五十近い」


「呼吸は」


「浅くて速い。でも、SpO2は九十六あります」


 妙だ、と蒼真は思った。これだけの高熱で、これだけの頻脈なのに、酸素の値は保たれている。まるで身体の内側だけが、何かに燃やされているような。


「いつからこうなりましたか」


 大石が妻に尋ねる。


「一昨日から熱っぽいって言ってて、でも仕事休めないって……今夜、トイレに起きたと思ったら、廊下で立ったまま動かなくなって」


「立ったまま?」


「はい。声をかけても返事しなくて。窓のほうをじっと見て……それで、急に倒れて」


 蒼真は、寝室の窓に目をやった。カーテンが半分開いている。その向こうに見えるのは、夜の底に沈んだ山の稜線だった。


 北だ。


「ご主人、最近、山に入られたりしましたか」


 尋ねたのは、ほとんど反射だった。


「え? ああ……はい、あの流れ星の次の日に。町内会の人たちと、見に行くって。何も見つからなかったって笑ってましたけど」


 大石と目が合った。大石は小さく頷き、無線を取った。


    ◇


 男をストレッチャーに乗せ、救急車に収容したのは午前二時五分だった。


 受け入れ先の汐見市民病院は、すでに発熱患者が三人運び込まれていると言いながらも、了承してくれた。


 車が走り出す。蒼真は患者の横に座り、モニターの数字を見つめた。心拍数百五十二。血圧は百四十の九十。体温は下がらない。


「冷却します」


 腋の下と鼠径部に保冷剤を当てる。男の皮膚は、触れた手袋越しにも異様に熱かった。


 ふと、男の唇が動いていることに気づいた。


「……何か言ってますか」


 蒼真は身を屈め、耳を寄せた。


 かすれた息の中に、音があった。言葉のようで、言葉ではない。舌で上顎を叩くような短い音と、長く引き伸ばされた母音。どこの国の言語でもない、と思った。けれど、その抑揚には、どこか聞き覚えがあった。


 ――ひかりは、かえるよ。


 背筋に冷たいものが走った。


 違う。そんなはずがない。灯の言葉は日本語だった。この男が呟いているのは、意味をなさない音の連なりにすぎない。高熱によるせん妄だ。よくあることだ。


 それなのに、耳が離れなかった。音の区切り方。息継ぎの位置。上がって、下がって、最後にふっと消える調子。


 子どものころ、病室のベッドで灯が歌うように繰り返していた、あの節回しと同じだった。


「久我、どうした」


 大石の声で、我に返った。


「いえ……うわごとです」


「顔色悪いぞ。お前も熱あるんじゃないか」


「大丈夫です」


 そう答えたとき、車が大きく揺れた。


 交差点を右折したのだ。市民病院は市の南にある。山ノ辺町から向かうなら、県道を南下して、中央通りで右に曲がる。


 右に曲がれば、車の後部は、北から東へ向きを変えることになる。


 男の首が、動いた。


 意識のない人間の動きではなかった。ゆっくりと、しかし迷いなく、頭がストレッチャーの上で回転していく。車が曲がった分だけ、正確に、逆の方向へ。


 男の顔は、北を向いていた。


 車の壁越しに、見えるはずのない山を見つめるように。


「班長」


 自分の声が掠れているのがわかった。


 大石も見ていた。男の顔と、蒼真の顔を交互に見て、それから何も言わずに、男の頸部に手を当てた。


「……脈はある。意識レベルは変わらず、JCS三百」


 痛み刺激にも反応しない深い昏睡。その状態の人間が、自分の意思で首を動かすことはない。


 車がもう一度、左に曲がった。


 男の頭が、また回った。北を向いたまま、ぴたりと止まる。まるで方位磁針の針のように。


 誰も口をきかなかった。サイレンの音だけが、夜の街に響いていた。


    ◇


 その帰り道のことだった。


 病院に患者を引き渡し、消防署へ戻る途中、雨が降り出した。細かく冷たい雨が、フロントガラスに斜めの線を描いていく。


 中央通りを北へ抜け、川沿いの道に入ったとき、蒼真は歩道に小さな人影を見た。


 子どもだった。


 十歳くらいの女の子。白いワンピース一枚で、裸足だった。濡れた黒髪が頬に張りついている。こんな時間に、こんな雨の中を、ひとりで。


「宮野、止めて」


「え?」


「子どもがいる。今、そこの歩道に」


 宮野がブレーキを踏んだ。車が路肩に寄る。蒼真はドアを開けて外へ飛び出した。


 歩道には、誰もいなかった。


 街灯の下で、雨粒が白く光っている。川の水音がやけに大きく聞こえる。左右を見渡しても、小さな影はどこにもなかった。隠れられるような場所もない。


「久我さん?」


 宮野が窓から顔を出した。


「……いた、はずなんだ」


「見間違いじゃないですか。夜勤続きですし」


 そうかもしれない、と蒼真は思おうとした。


 ただ、あの子の姿は目に焼きついていた。雨の中に立ち、濡れた髪の隙間から、じっとこちらを見ていた。そして、小さく唇を動かしていた。


 歌っているように見えた。


 蒼真の知らない歌を。


    ◇


 消防署に戻ったのは、午前三時半過ぎだった。


 事務所のテレビが、つけっぱなしになっていた。当直の職員が、画面を見たまま動かない。


「どうした」


 大石が声をかけると、職員は振り返らずに、リモコンで音量を上げた。


 深夜の臨時ニュースだった。アナウンサーの声が、わずかに上ずっている。


『……繰り返します。汐見市および周辺地域で、原因不明の高熱と意識障害を訴える患者が相次いでおり、現時点で少なくとも四十人以上が医療機関に搬送されています。県は感染症の可能性があるとして……』


 四十人。一晩で。


 蒼真はテレビの前に立ち尽くした。


 画面が切り替わり、どこかの病院の救急外来が映し出された。ストレッチャーが廊下に並び、防護服の医療スタッフが慌ただしく行き交っている。撮影しているのは、携帯のカメラらしかった。映像が揺れ、ピントが合ったり外れたりする。


 その中で、蒼真は見た。


 廊下に並んだストレッチャーの上で、意識のない患者たちが、みな同じ方向に顔を向けているのを。


 一人残らず。


 右の者も、左の者も、奥の者も。


 まるで、見えない何かに呼ばれているように。


「……北だ」


 誰に言うともなく、蒼真は呟いた。


 窓の外では、雨が強くなっていた。山のほうから吹き下ろす風が、ガラスを細かく震わせている。


 その風の音の中に、一瞬だけ、子どもの歌声が混じった気がした。


 ――ひかりは、かえるよ。


 蒼真は、振り返れなかった。


(第1話 了)

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