第1話 僕の影に、知らない美少女が住んでいる
その日、古神ダイチの不運は、朝から絶好調だった。
「うわっ」
家を出て三歩で、鳥のフンが制服の肩に直撃した。しかもピンポイントでネクタイの結び目だ。芸術点だけは高い。
「……うそだろ」
ため息をつきながらコンビニのトイレで応急処置を済ませ、遅刻ギリギリで駅へ走れば、今度は自動改札がなぜか彼だけを弾いた。定期を入れ直してもダメ。駅員に事情を説明しようとしたところで背中を押され、危うく将棋倒しになりかける。
やっとのことで学校へたどり着いた時には、朝のホームルーム開始一分前。教室のドアを開けた瞬間、担任の乾いた声が飛んできた。
「古神。朝から全力疾走か。青春だな」
「どこに青春要素があるんですか、先生」
「汗が青春だ」
「雑すぎません?」
クラスがくすくす笑う。いつものことだ。ダイチは昔から、妙に事件へ巻き込まれやすい。財布を落とした人を拾えば警察沙汰、犬に懐かれたと思えば飼い主が五人現れる。良いことをしようとすると、だいたい一段階ややこしくなる。
だが、その日の"ややこしさ"は、少し種類が違った。
着席しようとした時だった。自分の机の脚元、窓から差し込む朝日で生まれた影が、ぴくりと動いたのである。
「……は?」
見間違いかと思った。目をこする。影は普通に、ただの影だった。
だが教科書を取り出そうとしゃがみ込んだ瞬間、黒く落ちた輪郭が、まるで水面のように波打った。
そして。
「おはようございます、主様」
机の下から、黒髪の少女がぬるりと現れた。
「ぅおおおおお!?」
ダイチは盛大に椅子ごとひっくり返った。クラスが一斉にこちらを見る。だが誰も悲鳴を上げない。ぽかんとしている。つまり、今の少女は――
「……見えてるの、僕だけか?」
「はい。現在、認識制御を実行しています」
少女は無表情に頷いた。年の頃は十六、七。黒髪ショート、雪みたいに白い肌、そして黒い瞳だけがやたら深い。制服ではない。全身にぴたりと沿う黒衣が、まるで影そのものを着ているようだった。
「主様。ようやくお会いできました」
「待って。誰」
「ロデムです」
「知らない」
「では、今知ってください」
「情報の圧が強いな!?」
その間にも、ロデムは当然のようにダイチの机の横へ膝をつき、すっと顔を寄せてくる。近い。とにかく近い。距離感が壊れている。
「主様の匂い、登録完了」
「何を登録したの!?」
「心拍上昇、確認。主様は私にどきどきしています」
「してない! 驚いてるだけ!」
「驚きも心の振動です。つまり実質どきどきです」
「理屈の雑さがすごいな!」
その時、教卓からチョークが飛んできて、ダイチの頭に命中した。
「古神。朝から一人芝居が高度すぎる」
「ち、違っ――」
「青春はほどほどにしろ」
「だから何なんですか青春って!」
教室は笑いに包まれた。ダイチだけが笑えない。机の陰から生えた美少女と会話しているのが自分にしか見えていない時点で、精神科の門を叩く未来しか見えなかった。
休み時間になるなり、ダイチは人気のない非常階段へ逃げ込んだ。もちろん、影は逃がしてくれなかった。
踊り場の薄暗がりが揺らぎ、ロデムが音もなく隣へ現れる。
「主様」
「その呼び方やめて」
「ではマスター」
「もっとダメだ」
「ご主人様」
「悪化してる!」
ロデムは小さく首を傾げた。
「識別名の最適化に失敗しました」
「最適化とか言うな。怖いから。ていうか本当に誰なんだよ。なんで僕の影から出てくるんだ」
「私は、バベルの継承者に仕える第一のしもべ。影を統べ、姿を変え、主の意志に従うもの」
「バベル?」
「はい。あなたは選ばれました」
「何に」
「世界を滅ぼすか、救うか、そのどちらにも」
「朝から重い!」
冗談で返したが、ロデムは一切笑わない。彼女の目は本気だった。
「主様の右手を」
促されるまま視線を落とすと、いつの間にか右手薬指に黒銀の指輪がはまっていた。見覚えがない。外そうとしても、びくともしない。
「な、なにこれ」
「継承の証です」
「怖っ」
「安心してください。主様が死亡しない限り外れません」
「安心できる要素どこ!?」
ロデムが何かを言いかけた、その瞬間だった。
校舎全体が、ごうん、と低く震えた。
窓ガラスがびりびり鳴る。遠くで悲鳴が上がった。非常ベルが遅れてけたたましく鳴り響く。
「な、何だ!?」
「敵性反応です」
ロデムが立ち上がる。先ほどまでのぽんこつ会話が嘘みたいに、その輪郭が冷えた刃のように引き締まった。
「北校舎上空、無人戦闘端末三機。こちらの起動を感知したようです」
「ちょっと待て、何その物騒ワードの連打!」
ダイチが窓へ駆け寄ると、校庭の上を、黒い三角形の飛行体が滑空していた。ドローン、などという可愛いサイズではない。車ほどもある機体が、先端を青く光らせ、地上の人間を無差別に追尾している。
生徒たちが避難しようとして転び、逃げ場を失う。
「まずい……!」
考えるより先に、ダイチは階段を駆け下りていた。危険だとか、意味が分からないとか、そんなものを整理する時間はない。見えてしまった以上、走るしかなかった。
中庭に飛び出した瞬間、頭上で光が弾けた。
一機が照準を下ろしている。標的は、転んだ一年生の女子だ。
「伏せろ!」
叫ぶ。間に合わない。
その時、ダイチの影が足元から一気に伸び、獣のような黒い塊へ変形した。ロデムだった。彼女は女子生徒を抱えて転がり、光線を紙一重で回避する。
コンクリートが爆ぜ、砂塵が舞う。
「主様、命令を」
「え?」
「敵を殲滅しますか。拘束しますか。破壊しますか」
ロデムの声は静かだった。静かすぎて、逆にぞっとした。
彼女は今、たぶん本当に何でもできる。だけど、その瞳は空っぽだ。自分の意思ではなく、ただ命令だけを待っている機械の目。
ダイチは喉を鳴らした。
「……そんなの、僕が決めるのか?」
「はい。私は主様のしもべですから」
「違うだろ」
思わず叫んでいた。
「違う。僕はそんなの、知らない。世界を救うとか滅ぼすとか、急に言われても分かるわけないだろ。でも」
「……」
「でも、今助けたい奴がいるのは分かる。だったら命令じゃない。ロデム、君はどうしたい?」
その言葉に、ロデムの瞳が初めて揺れた。
無機質な黒の奥に、かすかな熱が灯る。
「……私、は」
「うん」
「主様の見る世界を、壊したくありません」
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
否。影へ還ったのだ。
校庭中の影がひとつにつながり、巨大な黒い獣のようにうねる。無人機の一機が照準を変えるより早く、影の牙が機体を呑み込んだ。金属の軋む悲鳴。続く二機も、上下左右すべての影から伸びた黒刃に貫かれ、火花を散らして墜落する。
ほんの十秒もかからなかった。
静寂。
砂煙の向こうから、人型へ戻ったロデムが歩いてくる。頬に煤をつけたまま、彼女はダイチの前で立ち止まった。
「報告。敵性反応、排除完了です」
「……すご」
「褒めてください、主様」
「そこは急に人間味あるな!?」
ロデムはほんの少しだけ目を細めた。笑った、ように見えた。
だが次の瞬間、ダイチの右手の指輪が熱を帯びる。激痛とともに、視界へ見知らぬ光景が流れ込んだ。
塔。雲を貫く巨大な塔。古代文字。荒れ狂う海。燃える都市。無数の声。
――第五継承、起動確認。第二機接近。
「っ……ああぁっ!」
膝をつくダイチの頭上で、空が裂けた。
正確には、空を白銀の軌跡が一直線に引き裂いた。
それは流星のように速く、けれど明らかに意思を持って落ちてくる。校庭の中心へ突き刺さる寸前で急制動し、舞い散る光の羽の中から、銀髪ツインテールの少女が姿を現した。
彼女は地面すれすれで静止し、腕を組んでダイチを見下ろした。
「ふぅん。あんたが五番目?」
「……五番目?」
「期待外れね」
鋭い視線。高飛車な声。けれど頬だけ、なぜか少し赤い。
「べ、別に心配して急いできたわけじゃないんだから」
ロデムが一歩前へ出る。
「第二のしもべ、ロプロス」
「その通りよ。で、そこの影女。主の隣、勝手に取ってんじゃないわよ」
びき、と空気が震えた。
ダイチは嫌な予感しかしなかった。
「え、ちょ、待っ――」
ロプロスの背に、光の翼が開く。
「さあ主。まずは言ってちょうだい。あの女と私、どっちが必要?」
朝の不運なんて、たぶん本当に序章にすぎなかった。




