第22話「守る者たち」
守ることは、
剣を握ることではない。
誰かの歩幅を覚え、
誰かの帰る道を知り、
その明日を失わせないと決めること。
人はその日、
初めて「守る者」になる。
朝の広場に、乾いた音が響いていた。
木剣と木剣がぶつかり、すぐに途切れる。
「足が止まってる」
低い声が飛ぶ。
砂の上へ転がった少年が、口を尖らせながら立ち上がる。
向かいにいる男は、木剣を下ろさなかった。
「もう一度」
アリアは水桶を抱えたまま、その様子を見ていた。
桶の縁から水がこぼれ、足元の砂を黒くする。
「アリア」
井戸のそばから呼ばれた。
振り返ると、女が空の甕を指している。
「あ、ごめんなさい」
アリアは桶を抱え直した。
水を移そうとすると、腕が震えた。女が黙って桶の底へ手を添える。
二人で傾けると、残った水が甕へ収まった。
「あれがガレス」
女が広場を見る。
「自警団の団長」
広場では、少年がまた砂の上へ倒れていた。
ガレスは手を貸さない。
少年は自分で起き上がった。
夜。
真白は火の向こうで本を開いていた。
アリアは膝を抱え、燃え崩れる薪を見ていた。
「師匠」
真白が頁から目を上げる。
「私、剣を使えるようになりたい」
「何のために?」
「守れるようになるため」
「誰を?」
アリアは口を閉じた。
商隊の人たち。
水を分けてくれた手。
昼間、桶を支えてくれた女。
何度も立ち上がっていた少年。
「分からない」
火が小さく弾ける。
「でも、守れるようになりたい」
真白は本へ視線を戻した。
「ガレスに話しなさい」
「師匠は教えてくれないの?」
「私は剣を教えられない」
それだけだった。
アリアは暗い広場を見る。
見張り台に一つだけ灯が残っている。
「明日の朝、行く」
真白は頁をめくった。
翌朝、ガレスは集落の外側で柵を直していた。
槌が杭を叩くたび、音が荒野へ広がる。
「ガレス団長」
槌が止まった。
「何だ」
「剣を教えてください」
ガレスはアリアを見たあと、傾いた杭を指した。
「そこを持て」
アリアは両手で杭を支えた。
槌が落ちる。
衝撃が腕まで走り、足が砂の上で滑った。
「動くな」
「はい」
杭が深く沈む。
ガレスは縄を巻きながら聞いた。
「何のために剣を持つ」
「守るためです」
「何を」
昨日と同じ問いだった。
「分かりません」
ガレスの手が止まる。
「でも、分からないから見ます」
「何を」
「周りを。見て、決めます」
ガレスは縄を引いた。
「なら来い」
「剣は?」
「まだだ」
詰所には、補修途中の車輪や革具が積まれていた。
ガレスは団員たちへアリアを示す。
「一人増える」
「その細いのが?」
「アリアです」
一人の団員が車輪を指した。
「じゃあアリア。そっちを持て」
二人で持ち上げる。
重みに耐えきれず、アリアの指が滑った。
「謝る前に持て」
「はい」
その日から、朝は井戸と柵を見回り、昼は荷車を押した。
風で剥がれた屋根布を張り、獣避けの灰を撒く。
夕方になって、ようやくガレスが木剣を投げた。
アリアは受け損ねた。
「構えろ」
木剣を持ち上げる。
ガレスの木剣が足を叩いた。
「開きすぎだ」
次は肩。
「力を抜け」
「振っていいですか」
「駄目だ」
「いつ振りますか」
「立てたらだ」
その日は、一度も振らせてもらえなかった。
何日か経つと、団員たちはアリアを名前で呼ぶようになった。
「アリア、縄を取れ」
「北の井戸を見てきてくれ」
「荷車を押すぞ」
仕事のあとには木剣を握った。
立つ。
歩く。
止まる。
後ろを見る。
「足元だけ見るな」
「石を踏みます」
「前だけ見ても踏む」
「じゃあ、どこを見ればいいんですか」
「全部だ」
アリアは石につまずき、砂の上へ倒れた。
ガレスは手を貸さない。
「もう一度」
アリアは自分で立った。
手のひらには豆ができた。
潰れた日、ガレスが聞く。
「続けるか」
休めば痛みは増えない。
アリアは布を掌へ巻いた。
「続けます」
「なら立て」
夕方、子どもたちを家へ送る役目を任された。
子どもたちは石を拾い、走り、路地へ入り込もうとする。
「離れないで」
「離れてないよ」
そう答えた一人が駆け出した。
アリアは追いかけ、その腕を掴む。
振り返ると、残りの子どもたちも先へ走っていた。
最後の家へ着いた時、一人足りなかった。
胸の奥が冷たくなる。
アリアは水場と広場を走った。
呼んでも返事はない。
鐘へ手を伸ばしかけた時、荷車の下から小さな靴が見えた。
覗き込む。
子どもが丸くなって眠っていた。
アリアはその場へ座り込んだ。
「起きて」
子どもが目を擦る。
「アリア?」
アリアは手を差し出した。
「帰るよ」
子どもはその手を取った。
詰所へ戻ると、ガレスが待っていた。
「見つかったか」
「はい」
「怪我は」
「ありません」
ガレスは木剣を取り、外へ出た。
「構えろ」
アリアはまだ震える手で木剣を握った。
「打て」
踏み込む。
弾かれる。
もう一度。
今度はガレスだけを見た。
肩。
腕。
木剣の先。
背後で空の桶が倒れた。
アリアが振り返る。
ガレスの木剣が肩へ触れた。
「今、見ていたのは誰だ」
「団長です」
「他には」
アリアは周囲を見た。
見張り台。
消えかけた火。
家々の灯。
「……見てませんでした」
「相手だけ見るなら、剣はいらん」
ガレスは構え直した。
アリアも木剣を上げる。
今度は風の音を聞いた。
見張り台の足音を聞いた。
その中にいるガレスを見た。
「打て」
木剣は止められた。
それでも、倒れなかった。
さらに日が重なった。
朝は見回り。
昼は仕事。
夕方は稽古。
夜には見張り台へ立った。
手の豆がまた潰れた朝、寝床のそばに薬草と新しい布が置かれていた。
真白は少し離れた場所で本を読んでいる。
「師匠」
返事はない。
アリアは薬草を傷へ当て、布を巻いた。
結び目がうまく作れず、歯で端を引く。
真白の手が伸び、結び目だけを作り直した。
「ありがとうございます」
真白は本へ視線を戻す。
アリアは巻かれた手を握り、木剣を持って立ち上がった。
一月ほどが過ぎた朝。
三台の荷車が、近くの採掘場へ向かうことになった。
途中には獣が通る窪地がある。
アリアが荷車の後ろへ回ろうとすると、ガレスに呼ばれた。
「今日は前を歩け」
列の先頭には誰もいない。
「私が?」
「嫌なら後ろへ行け」
前へ出るか。
いつもの場所へ戻るか。
アリアは木剣の柄を握った。
「前へ行きます」
「なら行け」
集落を出る。
後ろから三台分の車輪の音がついてくる。
アリアは道だけを見なかった。
足跡。
岩陰。
風向き。
時々振り返り、荷車と団員を確かめた。
窪地の手前で、新しい獣の足跡を見つけた。
アリアは手を上げる。
隊列が止まった。
風下から獣の匂いが流れてくる。
そのまま進めば早く戻れる。
迂回すれば、日が暮れる。
ガレスが隣へ来た。
「どうする」
アリアは窪地と、右手の乾いた水路を見た。
「回ります」
「遅くなるぞ」
「それでも回ります」
ガレスは後ろの荷車を見る。
「決めたな」
「はい」
隊列は水路へ下りた。
道は悪く、二度車輪が石へ乗り上げた。
全員で押し、縄を掛け、少しずつ抜けた。
集落の灯が見えた時には、空は暗くなっていた。
けれど、三台とも戻った。
怪我をした者はいなかった。
荷を下ろしたあと、ガレスが木剣を一本差し出した。
何週間も使っていたものだった。
柄にはアリアの手の跡が残っている。
「持っていけ」
「明日も使うんですか」
「お前のだ」
アリアは木剣を受け取った。
「今日は戦いませんでした」
「ああ」
「遠回りしました」
「ああ」
「遅くなりました」
「ああ」
「それでも、よかったんですか」
ガレスは戻った荷車を見る。
団員たちが水を分けている。
「全員いる」
ガレスは詰所へ向かう。
数歩進んだところで、足を止めた。
「アリア」
「はい」
「剣は、人を斬るために持つんじゃない」
振り返らないまま続ける。
「斬らずに帰るために持て」
夜。
アリアは最後の子どもを家まで送った。
扉の前で、子どもが振り返る。
「アリア」
「何?」
「明日もいる?」
アリアは腰の木剣へ手を置いた。
「いるよ」
子どもは笑った。
「じゃあ、また明日」
「また明日」
扉が閉じる。
アリアは家の前で足を止めた。
肩の力を抜き、息を吐く。
前を見る。
それから、後ろを振り返る。
見張り台。
井戸。
詰所。
真白のいる小さな火。
家々の灯。
アリアは木剣へ手を添えたまま、見張り台へ歩き出した。
第22話「守る者たち」了
その日、剣は誰も斬らなかった。
遠回りを選び、
歩みを止め、
帰る時間は遅くなった。
それでも灯は消えず、
笑顔は家へ帰り着いた。
守るとは、
勝つことではない。
明日も「また明日」と言えるように、
誰かと共に帰ることだった。




