第20話「選んだ傷」
傷は、一晩では消えない。
朝になっても痛む。
だから人は、
昨日、自分が選んだことを忘れない。
朝の冷たい風で、アリアは目を覚ました。
焚き火は赤い熾火だけを残し、商隊ではもう何人かが起きている。
鍋に水を掛ける音。
荷車を整える音。
家畜をなだめる静かな声。
昨日と変わらない朝だった。
ゆっくりと身体を起こす。
左肩が熱を帯び、腕を少し動かしただけで鈍い痛みが走った。
包帯へそっと触れる。
傷はそこにあった。
昨日の出来事を、身体だけが覚えている。
その隣には、灰色の刃。
夜露を受けても光らず、静かに横たわっている。
アリアは柄へ触れた。
冷たい。
重い。
何も変わらない。
そのことが、少しだけ安心できた。
「起きたか。」
振り向くと、年配の女性が木椀を差し出していた。
湯気の立つ野菜の煮込みだった。
「温かいうちに食べな。」
「ありがとう。」
両手で受け取ろうとして、肩が痛む。
思わず顔をしかめると、女性は何も言わず椀を支えた。
「今日は右手だけで十分さ。」
それだけ言って、自分の仕事へ戻っていく。
慰めない。
励まさない。
いつも通りに接する。
それがヴァルダだった。
食事を終える頃には、出発の支度が始まっていた。
アリアも荷運びを手伝おうとする。
木箱へ手を掛ける。
持ち上げた瞬間、肩へ鋭い痛みが走った。
力が抜け、箱が傾く。
近くにいた青年が受け止めた。
「今日は俺が持つ。」
「まだできる。」
アリアが言うと、青年は笑う。
「じゃあ、できる方をやれ。」
箱を抱え、そのまま歩いていく。
押しつけでも、遠慮でもない。
出来る者がやる。
出来ない日は任せる。
明日は逆かもしれない。
それだけだった。
アリアは小さく息を吐き、別の荷をまとめ始めた。
右手だけで持てる、小さな荷物を。
やがて出発の合図が響く。
列がゆっくり動き始める。
アリアは灰色の刃を持ち上げた。
荷車を見る。
荷台には空きがある。
そこへ積めば肩は楽になる。
歩くのも速い。
誰も困らない。
青年が荷車を叩いた。
「それも乗せるか?」
自然な一言だった。
アリアは荷台を見る。
肩へ手を添える。
灰剣を見る。
少しだけ迷う。
昨日なら、誰かに預けていたかもしれない。
でも昨日、自分は決めた。
持っていくと。
アリアは静かに首を振った。
「ううん。」
灰剣を抱え直す。
少し考えてから、腰の帯へ差し込んだ。
まだ身体には長すぎる。
歩くたびに刃が脚へ触れる。
何度か位置を直す。
ぎこちない。
似合わない。
それでも荷物ではなくなった。
自分で持つものになった。
商隊は朝の荒野を歩いていく。
風が砂を流し、足跡を少しずつ消していく。
真白が歩調を緩め、アリアの隣へ並んだ。
二人とも前だけを見る。
しばらく沈黙が続く。
やがて真白が口を開いた。
「痛む?」
「……うん。」
短い返事。
また静けさが戻る。
風だけが二人の間を通り過ぎる。
しばらく歩いてから、アリアがぽつりと呟いた。
「置いてこれなかった。」
真白は答えない。
灰色の刃へ一度だけ目を向ける。
そして、小さく頷いた。
「そう。」
それだけだった。
理由も聞かない。
意味も与えない。
その一言だけで十分だった。
昼過ぎ。
商隊は小高い尾根へ辿り着く。
アリアは足を止め、振り返った。
遺跡はもう見えない。
昨日までいた場所は、砂の向こうへ消えていた。
左肩が脈を打つ。
包帯の下で傷が疼く。
腰の灰剣へ触れる。
冷たい。
重い。
重さは昨日と何も変わらない。
それでも。
もう、その重さから手を放したいとは思わなかった。
「行くよ。」
前から声が飛ぶ。
アリアは振り向き、小さく返事をした。
「うん。」
そして歩き出す。
昨日と同じ荒野を。
昨日とは違う自分で。
商隊の列は北へ伸びていく。
その最後尾を歩く小さな背中には、
まだ大きすぎる灰色の刃が揺れていた。
旅は終わらない。
だから今日も、歩く。
第20話「選んだ傷」了
傷は残った。
剣は、何も語らなかった。
風も、
昨日と同じように吹いていた。
それでも。
昨日までと同じ少女は、
もう、どこにもいなかった。




