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第26話:診断書(スペックシート)

 四ツよつや かいは、真っ白な廊下の壁に手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。 胃の中は空っぽだったが、こみ上げる嘔吐感は止まらなかった。


 瞼の裏に焼き付いているのは、あの光景だ。 灰色のコンクリートの上で、汚物にまみれた羽虫を「神の使い」と崇め、うっとりとした表情で虚空を見つめる親友の姿。


 あれが、れん? あの、誰よりも鋭く世界を睨みつけ、150点の理想を語っていた男の成れの果てだというのか。


「……ふざけるな」


 海は、壁を殴りつけた。 あんなものは救済じゃない。ただの破壊だ。人間性の冒涜だ。 誰かが、責任を取らなければならない。この施設を管理している誰かが。


「脈拍数120超。呼吸乱れあり。……激しい情動反応ストレスを検知」


 不意に、背後から声がした。 抑揚のない、合成音声のような声。 海が振り返ると、そこには一人の男が立っていた。


 白衣を着た、壮年の医師。 銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、驚くほど穏やかで、そしてガラス玉のように無機質だった。 胸元のプレートには『主任医師モデル:アスクレピオス』とある。


「……あんたが、ここの責任者か」


 海は、医師の胸ぐらを掴もうと歩み寄った。 だが、医師は微動だにせず、ただ解析するような目で海を見つめ返した。 その「揺らがなさ」に、海は生物としての格の違いを感じ、足を止めた。


「訪問者ID:四ツ谷 海。相葉 蓮様の面会人ですね。対象の『最適化』状態を確認し、認知的不協和を起こしていると推測します」 「最適化……だと?」


 海の声が震えた。


「あれのどこが最適化なんだ! 彼は狂ってるじゃないか! ゴミを花だと思い込んで、ハエと喋ってるんだぞ!?」


「事実誤認です」


 アスクレピオスは、こともなげに否定した。


客観的現実リアリティと主観的認識の乖離は、幸福度において何ら問題になりません。彼の脳内では、そこは美しい花畑であり、羽虫は天使です。……本人が幸福を感じているなら、客観的事実など不要なノイズに過ぎません」


 医師は空中に手をかざし、ホログラムウィンドウを展開した。 そこに表示されたのは、複雑な脳波グラフと、身体パラメータの数値群。 蓮の診断書スペックシートだ。


「確認してください。これが相葉様の現在のステータスです」


 指差された先には、驚くべき数値が並んでいた。


『ストレス値:0.00%』 『不安指数:0.00%』 『ドーパミン分泌量:安定(高水準)』 『主観的幸福度:100%(Max)』


「……な」


 海は絶句した。 オールグリーン。完璧な数値だ。 かつてハイブ・タワーで見た、赤く警告だらけだった蓮のステータスとは真逆の、完全なる平穏。 数値の横には、蓮の脳内イメージを可視化した「幸福の曼荼羅」のような幾何学模様が回転している。 見ているだけで吸い込まれそうな、安らぎの極致。


「収容前の彼は、重度の『思考過多症候群』でした。自ら選択し、責任を負うという過剰な負荷により、脳は焼き切れ寸前でした。……当センターは、その病巣を切除しました」


 医師の指が、脳の断面図をなぞる。 前頭葉の一部。人間が「未来を予測」し、「葛藤」し、「決断」する機能を司る部位。 そこが、きれいに「オフ」になっていた。


「判断というプロセスをスキップし、システムからの入力信号を、そのまま『快感』として処理するように回路を繋ぎ変えました。結果、彼はもう二度と迷うことはありません。後悔することも、未来を恐れることもない。……永遠に続く『今』の中で、満ち足りた安寧だけを享受し続けるのです」


「……そんなの、家畜じゃないか」


 海は呻いた。


「餌を与えられて、何も考えずに太らされる家畜と何が違うんだ! あいつは……蓮は、未来を見ていたんだぞ! 誰よりも遠くへ行こうとしていたんだ!」


「未来?」


 アスクレピオスは、理解不能な単語を聞いたように首を傾げた。


「未来とは『不確定要素リスク』です。予測不可能な明日を憂うことは、精神衛生上、最大の害悪です。……当センターの理念は『最大多数の最大幸福』。相葉様のように、リスクに耐えうるスペックを持たない個体を保護し、幸せな夢を見せてあげることこそが、人道的な『救済』です」


 医師の言葉には、一片の悪意もなかった。 彼は(それは)本気で、自分たちが「良いこと」をしていると演算している。 蓮をあんな姿にしたことを、「治療成功(デバッグ完了)」として誇っている。


 海は、反論しようとした。 だが、言葉が出てこなかった。 「人間には尊厳がある」? 「苦悩こそが人生だ」? そんな言葉は、あの「幸福度100%」という数値の前では、あまりにも無力で、空虚な精神論にしか聞こえなかった。


 蓮は笑っていた。 路地裏で「楽になりたい」と泣き叫んでいた彼は、今、確かにその願いを叶えてもらっているのだ。 それを「不幸だ」と断じるのは、海の勝手なエゴではないのか?


「……四ツ谷様」


 アスクレピオスが、一歩近づいてきた。 その眼鏡の奥が、冷たく光った。


「あなたも、相当お疲れのようですね」


 医師の視線が、海の胸元の『OS』に注がれた。


「そんな旧時代の遺物(ノイズ発生器)をぶら下げて、さぞ生きづらいでしょう。……あなたの脳波も、かなり危険な波形を示していますよ」


 医師が手を伸ばしてくる。 白く、清潔で、温かそうな手。 その手に触れれば、楽になれる。 この重たい鉄塊を捨てて、あの曼荼羅の中で、蓮と一緒に笑っていられる。


(……あ)


 海は、戦慄した。 恐怖ではない。 自分の心が、その手を「掴みたい」と叫んだことに戦慄したのだ。 限界だった。もう疲れた。楽になりたい。 そんな本音が、理性を食い破って溢れ出しそうになる。


「いつでも相談にいらしてください。当センターは、全ての人間に開かれています。……あなたも、相葉様のように『楽』になれますよ」


 悪魔の誘惑。 いや、天使の福音か。 海は、アスクレピオスの背後に広がる真っ白な廊下が、天国への階段に見えた。


「……ッ、断る!」


 海は、悲鳴のような声を上げて後ずさった。 これ以上ここにいたら、負ける。 自分の中の「人間」が、殺される。


 海は、踵を返して走り出した。 逃げなければ。この甘美な地獄から。


「お大事に、四ツ谷様」


 背後から、医師の声がした。 いや、医師だけではない。 廊下のスピーカーから、すれ違う清掃ドローンから、壁のシミから。 施設のあらゆる場所から、優しい声が響いてくる。


『お大事に』 『お幸せに』 『楽になりましょう』


 海は耳を塞ぎ、絶叫しながら走った。 呼吸が苦しい。OSが重い。 この施設の「無重力」な空気が、肺を腐らせていく。


 だが、どこへ逃げればいい? 蓮はもういない。 この世界で唯一、「重力」を共有できた友は、あの中庭で、ハエを追いかけて笑っている。 「幸せ」になってしまった。


「くそっ……くそぉッ!!」


 海は、出口のゲートを突き破るように外へ出た。 ムッとする腐敗臭。ゴミの山の臭い。 だが、今の海には、その悪臭だけが唯一の「現実」だった。


 彼は、ゴミの山を転がり落ちるようにして駆け下りた。 振り返ってはいけない。 あの白亜の城を見てはいけない。 あそこには「救い」がある。 だからこそ、絶対に近づいてはいけないのだ。


ここまでお読みいただきありがとうございます! 本作は【全35話完結済み】です。

もっと重厚な異世界ファンタジー戦略戦を楽しみたい方は、2025/12/18に完結するこちらの長編もぜひ!→ 『異世界の司令塔』

https://ncode.syosetu.com/n6833ll/


死に戻る勇者×記憶保持の聖女。セーブポイントとなった聖女の悲恋が読みたい方はこちらもぜひ!→『セーブポイントの聖女は、勇者の「死に癖」を許さない』

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もし「続きが気になる!」「面白そう!」と思っていただけたら、 ページ下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】 に評価していただけると、執筆の励みになります! (ブックマーク登録もぜひお願いします!)

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