第八話 息もできない
心臓が止まりそう。
息が止まりそう。
ただ、あなたの、その言葉だけで。
【息も出来ない】
「リマ……」
驚きに言葉を発することすら忘れ、ただ、目の前の少女の名前だけを呼んだ。
リマは、シークだけを見つめて、微笑むだけだった。
何を言ったらいいのか、分からない。
呼吸さえ、困難になりそうなほど、心臓がどくどくと脈を打つ音ばかりが、頭に響く。
どうしてかは、分からない。
「俺、は」
「シークがあたしの王子様なの」
過去に繋がる。
まるで愛しい呪文のように呟いて、リマは泣きそうな顔を無理矢理に笑顔にしていた。
「ずっと、ずっと、昔から」
「リマ」
「あなたが、あたしに、真名を教えてくれた、あの時から」
別れの日。
どちらとも、きっと、二度とは会えないだろうと思っていた。
その、日。
神殿の中庭で、二人は最後になるかもしれない逢瀬を過ごしていた。
まだ幼くはあったけれど、その2年の間に二人はそれぞれのかけがえのない存在に、なっていた。
「……リマ」
シークは声を搾り出した。
本当に、かける言葉など、分からなかった。
また会いに来る、などという気休めの言葉すら、思い浮かばなかったからだ。
「リマにだけ、教えるよ」
「え?」
長から教えられていた。
真名は軽々しく名乗るものではない。
それは魔術を扱う者なら誰でも知っていることだった。
一般人にはあまり関係がないからか、そんなことは浸透していないけれど。
シーク、という名は、古語の一種で「探す」という意味があるのだと教えられた。
何を「探す」のかは分からなかったが、月神の名の一部を男子が名乗るのには特別な理由が必要であったから深い意味があるのかもしれなかった。
「俺の名前は、アヴィアトゥール。下の名前は知らない。俺は、自分が誰の子かも知らない」
初めて明かすその事実に、リマが目を見開いた。
シークはその時、拒絶されたと思った。
きっと、嫌われた、と。
けれど、リマが告げたのは、もっと違う言葉だった。
「……私も、両親を知らないの」
困ったような微笑みを浮かべる少女は、それでもしっかりとした口調で次の言葉を告げる。
「私の本当の名は、リュヌ=マティナル。古語で「朝の月」という意味よ」
「リマ」
「きっと、また、会えるよね」
それは、希望。
願い。
切望。
シークは、必ず、と言えなかった。
ただ、頷くことしか、出来なかったのだ。
「……あれは」
「あたしは、ヴィーのお嫁さんになりたいと思ってた」
「ヴィーはヴィクトールのことだろう?」
「そんなの、知らなかったわ。だってあたし、その時は聖王妃になるなんて、思ってもいなかったんだから」
「リマ」
どうしたらいいだろう。
どう言えばいいだろう。
「ヴィーは、アヴィアトゥールの、ヴィーよ」
笑う彼女の、その儚さ。
どう伝えたらいいのだろう。
まるで。
そうだ、まるで今の彼女は、彼女の真名と同じ。
朝の月のように、消えてしまいそう。
「シークは、あたしにとって、王子様だったの。巫女という立場から、あたしを救い出してくれる王子様」
「俺は、そんなんじゃ」
「シークだけが、あたしをあたしとして扱ってくれた。巫女姫ではなく、リマとして」
「リマ」
「あたしは、シークに救われたの」
どうしたらいい。
どうすればいい。
「シーク」
息が出来ない。
鼓動がただ、早くなるばかり。
どうしたらいいのか、分からない。
「リマ」
手を。
伸ばした。
どうにもならないことも分かっていたはずなのに。
その小さな、細い、華奢な身体を抱きしめた。
どうにもらないことも、分かっていた、はず、なのに。
「シーク」
優しい、柔らかな指先が、自分を抱きしめる。
それだけでよかった。
それだけで、よかった。
それ以上を望むことなど、出来なかった。
「好きよ」
愛しい声がささやく。
「好きなの」
涙をこぼしながら、ささやく。
「俺もだよ」
「シーク」
「俺も、リマが、好きだ」
抱きしめる温もりも。
すべて、今しか手に入らないものだと、分かっていても。
それから。
手をつないで、夜が明けるのを待った。
ただ、それだけだった。
ただ、それだけだった。
「もうすぐ、森が途切れる」
「……うん」
歩きながら、何処か口数が減っていくのを感じながら、二人は歩いた。
ユマは二人の空気の違いに気付いて、最初戸惑っていたが、何も口を挟まなかった。
息も出来ない。
この想いは、止めることも出来ない。
どうしようもないことも、分かっていても。
どうしようもないのだ。
どうしようも、ない、のだ。