第四楽章(非常に遅く)
祖国イギリスと、この国とは共通点がいくつかある。
島国であること。強大な経済力を手にしたが、衰退を続けていること。世界大戦が終わったあとは、やたら合衆国の顔色を窺うようになったこと。未だに共和制を選択しないこと、などである。
何よりも、自動車が道の左側を走ること。これが、この国にシンパシーを抱かせる最たるものだ。ホテルから散策に出ても、往来に違和感を感じない。
車道にも、故郷の車が時々走っている。不思議だ。
「MINI」
BMWと、インドのタタモーターに分割吸収されてしまったローバー社の名車である。自分の故郷ケンブリッジの近郊で生産されている。基本デザインは半世紀変わっていない。
この国と祖国とは軍事同盟を結んだこともあったし、世界大戦では祖父達がおぞましい殺し合いをしたこともあった。その世界大戦は、この国のほとんどの都市を焦土としてしまったらしい。
らしい、としか言えない。訪問するたびに変わり続ける東京や大阪、変わる事のない奈良や京都の寺社をみるにつけそう思う。
その国、日本が、つい数時間ほど前から深刻な危機に襲われている。自分もまだ危機のまっただ中にいる。マネージャーが整えた契約書では、コンサートを中止しても免責されるはずだ。
だが、自分はタクトを振ることを決断した。
無論、恐怖や不安を感じないはずはない。音楽家として、感性が鈍感と言われることは耐えられない。
「プレイしよう。私たちは音楽家だ。音楽家の仕事は音楽を奏でることだ。そのために君たちも私たちも、今日までトレーニングを重ねてきたのだろう?。不幸にしてクライシスとなったが、いまも開演の可否を尋ねるメールや電話は入ってきているんだ。お客さんが私たちの演奏を待ってるんだ」
そう告げたとき、余震がまたリハーサルルームを揺らした。ホールは予測しうる最大規模の地震に耐えられるというが、はたして、自分たちの心は耐えられるのか。ダメージとは物理的なものに限定されない。
これだけ過酷な状況で開演したコンサートがあっただろうか。
二つ思い至る。
ひとつは、一九一二年四月のタイタニック号。今ひとつは、一九四五年四月のベルリンフィル。
前者は、キャメロンが映画で描いたとおりである。バイオリニストのウォレス・ハートリーと七名の男達は、文字通り音楽に命を捧げた。
後者のコンサートには、常任指揮者の姿はなかった。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとベルリンフィルが、ドイツ第三帝国の国威発揚に協力したことは、覆せない事実である。だが、その一方でフルトヴェングラーは抵抗も続けた。ために、その年、一九四五年の二月、彼は亡命を余儀なくされた。ゲシユタポ秘密警察に逮捕状が発給されたからだという。
ベルリンに残された楽団が、空襲の相次ぐ四月十六日に演奏した曲のひとつが、リヒャルト・シュトラウスの「死と変容(浄化)」だった。それから二週間後の四月三十日、彼らにマーラーの演奏を禁じた男が自殺し、ほどなくベルリンは陥落した。
国家そのものが危機に瀕している状況でタクトを振るという点では、自分は、フルトヴェングラーに代わって指揮したロベルト・ヘーガーと重なる。
だが、決定的に異なる点がある。とりあえず自分には帰れる祖国があるが、楽団メンバーのほとんどはこの国に家と家族を持っている。大変なのはこれからなのだ。
ハープと弦楽器が大河のイメージを絶妙に醸し出している。
ハープが雨のしずくなら、せせらぎがバイオリンとビオラで、淵や瀬がチェロとコントラバスといったところか。ホールに集まった人みなの心にメロディを注ぎ込んでいく。どうか、潤いを、安らぎを取り戻して欲しい。困難の中にも、絶対に希望があると信じて欲しい。困難の中なればこそ、希望を捨てないで欲しい。
マーラーが生きたウィーンはドナウを挟んで発展した。ドナウの総延長はボルガ川に次ぐ。ドナウは人々が国境を築き争う前から存在し続けた。そして、人々に恵みをもたらし続けている。
マーラーが生きた時代、その流域の大半はオーストリア=ハンガリー帝国の下にあった。百年後の今日、ドナウが貫く国は十カ国となった。流れはそのままに。
いったい、人の営みとは何なのだろう。
川の流れは不変なのに、岸辺では国家が離合集散する。雄大な大河の穏やかな流れのように、どうして人は生きられないのだろうか。争いも、混乱もない、静謐な世界を人は手にできないのだろうか。この第四楽章を指揮するとき、自分もまたマーラーのように問いかける。
聴衆だけではなく、自分自身の内面にも。
幸いなことに、この国は世界大戦以降の戦争を経験してはいない。だが、祖国は北アイルランドやフォークランド、ボスニア、イラクやアフガニスタンと約一〇年サイクルで戦争を繰り返している。
カトリックもプロテスタントも、人の命を奪うことを禁じている。ただし、正義を執行することは尊ばれる。従って、正義を執行するための戦渦で人命が失われることが合理化できてしまうのだ。
本当にそれでいいのだろうか。
この国のように、銃に寄らず国を保ち、人々の営みを守ることはできないのだろうか。皆が一斉に銃を下ろせば、誰も、「守るための銃」などとらないで済むはず。そう考える自分は、センチメンタルにすぎるのか。この旋律のように。
だが、自分のセンチメンタリズムと現実世界はかいり乖離してしまった。
自らは決して銃を放たなかったこの国が、いままさに傷つき脅えている。皮肉にも、押し寄せたのは異国の軍隊ではない。
海底の果てから伝わった巨大な地殻変動波と、続いた巨大な海面上昇現象。これまで多くの糧をもたらしてくれた豊穣の海は、いま、この国に災禍をもたらしている。
今日を共に迎えた多くの命が奪われ、営みが破壊されてしまった。これから先も、それはしばらく続くだろう。
繰り返す。その災禍は、侵略者やならず者どもの手によるものではない。誰を恨めというのか。誰を憎めというのか。
あまりに理不尽である。
その理不尽に抗いきれない無力をかみしめ、いま、自分はバイオリンと共に、ビオラと共に、チェロとともに、コントラバスと共に、祈る。
この数時間で逝ってしまった命の光。
消えてしまったのだと思いたくない。次なる世界で輝き続けて欲しい。
案外すぐそばにあるかもしれない次なる世界こそは、せいひつ静謐で美しく、清らかであってほしい。この世界の最期がそうならなかったから、なおそう祈る。
祈りは自分のためでもある。
音楽家としての表現をもって、鎮魂と平安を祈るしかない自分の力の限界を許し給え。
そして、ホールに集った人全てに、無限なる幸いのあらんことを。
祈る。