第7章 今日の朝
町田クリニックに着くと、門の前にバンを雑に停めた。ここまでどうやって運転してきたのか、達也は何も覚えていないくらいに慌てていた。車を降りると、そのまま駆け込むようにクリニックのドアを叩いた。しかしこの日は木曜、休診日だったため、誰もいない。敷地内を建物に沿って移動し、クリニック横の町田医師の自宅の玄関から呼び鈴を押した。
キン・コーン、キン・コーン、キン・コーン
古っぽい玄関チャイムの音が響き、家の中の微かな足音で人の気配がした。
「先生、先生! 町田先生。開けてください。下村です」
「どうしたんですか。今日は休診ですよ」
インターホン越しに町田医師の返答があったかと思うと、ただならぬ達也の様子に、すぐに玄関まで出てきてドアの鍵が開けられた。そして町田は、そこに立ち尽くす達也を見て、
「下村さん。何かあったんですか?」
「先生、先生、私は一体どうしたらいいでしょう・・・」
町田は達也を散歩に連れ出すことにした。二人は河川敷を話ながら歩いた。
「下村さん、あなたは事故でご家族を亡くされたストレスで、PTSDを発症されていると思われます。亡くなったご家族の幻覚を見ておられるのではないでしょうか」
「幻だなんて、昨日まで確かに妻と息子はいたんです」
桜が散り切った遊歩道に目を落としながら、達也は町田の話を聞いていた。
「では、ご家族が他の方と会われたりしているところを、見られていましたか?」
達也は顔を上げた。
「・・・いや、それは・・・」
この三か月、家族とのコミュニケーションは、ほぼ無かったと言える。紗英が家で何をしているのか、隆志は学校へ行っていたのか、はっきりと解る状況は皆無だった。
「息子さんは中学生とおっしゃっていましたね。今何年生ですか?」
「隆志は、中学二年です」
「この春から二年生ですね」
「!・・あ・・・今は、三年生でした。・・・私どうかしています。息子の進級を忘れているなんて・・・」
町田は小さくため息をつくと、そう話す達也の様子を用心深く観察して、
「本当に三年に進級されたと、確信を持って言えますか?」
達也は混乱した。
「三年何組ですか? 担任の名前は?」
自分の息子が中学三年になったのか、はっきりと言い切れないような状況は、異常と言わざるを得ない。妻も生きているという確信が無くなってしまっている。
「では、最近ご家族と交わした会話は・・・」
「ありますよ!」
達也は強く言い返した。
「この前だって、本城さんって子が家に来て・・・」
そこまで言って、言葉が止まった。
(本城奈美恵・・・)
達也はその名前を頭の中で繰り返した。
(前から知っていたような・・・どこで知った名前だ?)
「・・・・・・下村さん?」
「違う」
達也は首を振った。
「先生、違うんです。俺はおかしくない」
声が震えていた。
「ちゃんと会ってるんです。妻にも、息子にも」
「では食事中の会話は?」
「・・・・・・」
「下村さん」
「やめてください!」
達也は叫んだ。
「もうやめてくれ!」
河川敷にその声が響いた。達也は両手で頭を抱えた。思い出そうとしても、家族の輪郭だけが曖昧だった。
(顔は浮かぶ)
(声も浮かぶ)
(なのに・・・)
(生活が思い出せない)
達也は考えた、できるだけ正気を取り戻そうとして、目を固く瞑って、いつから自分が変になってしまったのかを思い出そうとした。
(しかし、本城奈美恵が訪ねてきたのは、隆志が生きている証拠じゃないのか)
(彼女自体も幻覚なのだろうか)
(あのニット帽の小包は、どうだったのだろう?)
(荷物を受け取った記憶があるだけで、その後ニット帽はどこに・・・)
(それも存在しないのか?)
土手沿いを走る初老の男性に、町田医師は軽く会釈した。真っ赤な顔をしたその男性は、町田に微笑んですれ違ったが、達也は目を逸らした。
「では、カウンセリングに来ていた皆さんは、皆は、事故の被害者ばかりじゃないですか?」
「何を言っておられるのです。確かに事故の被害者ではありますが、皆さんご存命の方ばかりですよ」
「いえ、確かに慰霊碑に皆さんの名前が刻まれていました」
「そんなはずはありません。それもあなたの想像に過ぎない。まさしく幻覚を見ている証拠です。加田さんも一所懸命仕事されています。千田さんは奥さんを亡くされても一人で頑張ってこられました。北田さんも大怪我から回復されて、今は大学に通っておられますし、林さんは旦那様を無くされても、仕事は休むことなく続けられて、松井さんはいつも作業服を着ておられるように、仕事熱心じゃないですか」
「松井さん?」
(そういえば、松井さんの名前が慰霊碑になかった)
(どうして松井さんだけ?)
(これは僕が松井さんには、実在していてほしいという願望があるからだろうか)
ふいに達也は遠くの住宅街を見た。そして何も言わず走り出した。その場に残された町田医師は、土手を駆け下りていく達也の後ろ姿を、ただ立ちつくして見送った。
達也は息を整えることもなく、ただひたすら、以前に松井かなみを見かけた住宅街の道を走った。向かった先は、松井かなみの家だ。
一番の近道は、踏切を渡るルートだった。松井かなみが避けていた踏切。そこへ走り着いた時、遮断機が下りてしまった。達也は膝に両手をついて、ハアハアと息を切らせた。そして、電車がすぐ目の前を猛スピードで通過するその直前、踏切の向こうに視線を向けると、一瞬、本城奈美恵が、こちらを見て立っていたように見えた。
(今のは、本城さん? どうしてここに・・・)
電車が通過したが、その場所に本城奈美恵の姿はない。
(おかしい。確かに今そこにいるように見えた。やっぱり、僕は、精神的に、どうかして・・・?)
達也は怪訝に思いながらも、踏切を駆け抜け、松井かなみの家に急いだ。また途中休むことなく走り続け、地下道の前を左折し、例の丁字路にたどり着いた。ここからは坂道だ。立ち止りその先を見上げた。そして息を整えるようにゆっくりと歩を進め、その道を上り始めた。前来た時に松井かなみが曲がった路地を探したが、それがどのくらい上った所にあったのか、今は見当がつかなかった。
(あの時は駆け上がったけど、それほど距離はなかったように思うのに)
歩いてゆっくり右側を見ながら登ったが、達也にはその路地を見つけられず、坂道は行き止まりになっている。もう一度、坂を下りながら確認しても、この前の路地など存在していない。
(やっぱり全部幻覚を見ていたのか? 今の自分さえ現実なんだろうか・・・)
そんなことを考えて、坂を下りていった。
達也は呆然と歩いて自宅に戻った。クリニックに停めた工事用バンのことなど忘れてしまっていた。ただ夢を見ているような曖昧な思考の中、ただ息をしている。そんな感覚で、気がつけば家の門の前に立っていた。
(この家には誰もいない。それが真実だったら、僕は何をすればいいんだ?)
玄関の鍵は開いていた。中に家族がいることを期待したが、さっき慌てて飛び出したからだと気づいて、また重たい気分になった。
(やっぱり、誰もいないな。僕は一人だったんだ・・・)
リビングのソファに深く腰掛け、頭の中を整理しようと考えたが、何も考えなど浮かばなかった。
窓の外では、夕方の電車が走り去っていく音がした。その他は、何も聞こえない。とても静かである。いや、ずっと静かだったのだ。この家は。達也はゆっくりと部屋を見回した。
ソファ。
テーブル。
冷えた空気。
そのどこにも、“暮らし”がなかった。
隆志の脱ぎ散らかした靴下も。
紗英の化粧品の匂いも。
食卓の湯気も。
最初から、なかったのだ。
達也は目を閉じた。思い出すのは、あの事故の日の雪だけだった。
「・・・そうか」
小さく呟いた。
「帰ってこなかったんだな」
その瞬間、初めて達也の中で、“待ち続けていた時間”が終わった。
(それを受け入れられない僕は、精神的に不安定で、よく三か月も無事に生活できたもんだな)
涙が込み上げてきた。思いっきり泣くことにした。そうするほうが正気でいるという証のような気がして・・・
(いや、僕自身存在しているんだろうか?)
(もう死んでしまっているのは、僕のほうなんじゃないだろうか?)
(妻や息子なんて本当にいたのかな?)
(この家で、ずっと一人だったのか)
(それにしちゃ、よく片付いてるし、生活感が全くないな・・・)
(それに、松井かなみは実在するのか?)
(僕は、下村達也? 下村? あれ? 自分の名前も自信がなくなってくる。松井・・・)
(思い出した)
(松井かなみは、母さん。そうだ母さんだ)
(僕が小学校の時に、家を出ていった母さんの旧姓が、松井だったじゃないか)
(僕は夢を見ているのか?)
(・・・そうだ現実じゃない。これは全部、現実じゃない!)
達也はそう考えて、目を覚まそうともがいた。
(段々状況が分かってきたぞ。僕は今夢を見ているんだ)
(戻らなきゃ! あれ起きれない。・・・どうやっても起きられない・・・)
その時、コーヒーの匂いに気がついた。周囲を見回すと、ダイニングテーブルにコーヒーカップが置いてあり、湯気が上がっていた。
(あれも幻覚。夢の中の出来事だ。こんなにハッキリした夢って珍しいな)
達也はテーブルに近づき、コーヒーカップを手に取った。
「うーん。いい匂いだ」
そう言って、カップに口をつけた。
(落ち着くなぁ。もう、なんだっていいや)




