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このコーヒーを飲み終えたら  作者: 亨利(ヘンリー)


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8/10

第7章 今日の朝

 町田クリニックに着くと、門の前にバンを雑に停めた。ここまでどうやって運転してきたのか、達也は何も覚えていないくらいに慌てていた。車を降りると、そのまま駆け込むようにクリニックのドアを叩いた。しかしこの日は木曜、休診日だったため、誰もいない。敷地内を建物に沿って移動し、クリニック横の町田医師の自宅の玄関から呼び鈴を押した。


 キン・コーン、キン・コーン、キン・コーン


 古っぽい玄関チャイムの音が響き、家の中の微かな足音で人の気配がした。

「先生、先生! 町田先生。開けてください。下村です」

「どうしたんですか。今日は休診ですよ」

 インターホン越しに町田医師の返答があったかと思うと、ただならぬ達也の様子に、すぐに玄関まで出てきてドアの鍵が開けられた。そして町田は、そこに立ち尽くす達也を見て、

「下村さん。何かあったんですか?」

「先生、先生、私は一体どうしたらいいでしょう・・・」


 町田は達也を散歩に連れ出すことにした。二人は河川敷を話ながら歩いた。

「下村さん、あなたは事故でご家族を亡くされたストレスで、PTSDを発症されていると思われます。亡くなったご家族の幻覚を見ておられるのではないでしょうか」

「幻だなんて、昨日まで確かに妻と息子はいたんです」

 桜が散り切った遊歩道に目を落としながら、達也は町田の話を聞いていた。

「では、ご家族が他の方と会われたりしているところを、見られていましたか?」

 達也は顔を上げた。

「・・・いや、それは・・・」

 この三か月、家族とのコミュニケーションは、ほぼ無かったと言える。紗英が家で何をしているのか、隆志は学校へ行っていたのか、はっきりと解る状況は皆無だった。

「息子さんは中学生とおっしゃっていましたね。今何年生ですか?」

「隆志は、中学二年です」

「この春から二年生ですね」

「!・・あ・・・今は、三年生でした。・・・私どうかしています。息子の進級を忘れているなんて・・・」

 町田は小さくため息をつくと、そう話す達也の様子を用心深く観察して、

「本当に三年に進級されたと、確信を持って言えますか?」

 達也は混乱した。

「三年何組ですか? 担任の名前は?」

 自分の息子が中学三年になったのか、はっきりと言い切れないような状況は、異常と言わざるを得ない。妻も生きているという確信が無くなってしまっている。

「では、最近ご家族と交わした会話は・・・」

「ありますよ!」

 達也は強く言い返した。

「この前だって、本城さんって子が家に来て・・・」

 そこまで言って、言葉が止まった。

(本城奈美恵・・・)

 達也はその名前を頭の中で繰り返した。

(前から知っていたような・・・どこで知った名前だ?)

「・・・・・・下村さん?」

「違う」

 達也は首を振った。

「先生、違うんです。俺はおかしくない」

 声が震えていた。

「ちゃんと会ってるんです。妻にも、息子にも」

「では食事中の会話は?」

「・・・・・・」

「下村さん」

「やめてください!」

 達也は叫んだ。

「もうやめてくれ!」

 河川敷にその声が響いた。達也は両手で頭を抱えた。思い出そうとしても、家族の輪郭だけが曖昧だった。

(顔は浮かぶ)

(声も浮かぶ)

(なのに・・・)

(生活が思い出せない)

 達也は考えた、できるだけ正気を取り戻そうとして、目を固く瞑って、いつから自分が変になってしまったのかを思い出そうとした。

(しかし、本城奈美恵が訪ねてきたのは、隆志が生きている証拠じゃないのか)

(彼女自体も幻覚なのだろうか)

(あのニット帽の小包は、どうだったのだろう?)

(荷物を受け取った記憶があるだけで、その後ニット帽はどこに・・・)

(それも存在しないのか?)

 土手沿いを走る初老の男性に、町田医師は軽く会釈した。真っ赤な顔をしたその男性は、町田に微笑んですれ違ったが、達也は目を逸らした。

「では、カウンセリングに来ていた皆さんは、皆は、事故の被害者ばかりじゃないですか?」

「何を言っておられるのです。確かに事故の被害者ではありますが、皆さんご存命の方ばかりですよ」

「いえ、確かに慰霊碑に皆さんの名前が刻まれていました」

「そんなはずはありません。それもあなたの想像に過ぎない。まさしく幻覚を見ている証拠です。加田さんも一所懸命仕事されています。千田さんは奥さんを亡くされても一人で頑張ってこられました。北田さんも大怪我から回復されて、今は大学に通っておられますし、林さんは旦那様を無くされても、仕事は休むことなく続けられて、松井さんはいつも作業服を着ておられるように、仕事熱心じゃないですか」

「松井さん?」

(そういえば、松井さんの名前が慰霊碑になかった)

(どうして松井さんだけ?)

(これは僕が松井さんには、実在していてほしいという願望があるからだろうか)

 ふいに達也は遠くの住宅街を見た。そして何も言わず走り出した。その場に残された町田医師は、土手を駆け下りていく達也の後ろ姿を、ただ立ちつくして見送った。


 達也は息を整えることもなく、ただひたすら、以前に松井かなみを見かけた住宅街の道を走った。向かった先は、松井かなみの家だ。

 一番の近道は、踏切を渡るルートだった。松井かなみが避けていた踏切。そこへ走り着いた時、遮断機が下りてしまった。達也は膝に両手をついて、ハアハアと息を切らせた。そして、電車がすぐ目の前を猛スピードで通過するその直前、踏切の向こうに視線を向けると、一瞬、本城奈美恵が、こちらを見て立っていたように見えた。

(今のは、本城さん? どうしてここに・・・)

 電車が通過したが、その場所に本城奈美恵の姿はない。

(おかしい。確かに今そこにいるように見えた。やっぱり、僕は、精神的に、どうかして・・・?)

 達也は怪訝に思いながらも、踏切を駆け抜け、松井かなみの家に急いだ。また途中休むことなく走り続け、地下道の前を左折し、例の丁字路にたどり着いた。ここからは坂道だ。立ち止りその先を見上げた。そして息を整えるようにゆっくりと歩を進め、その道を上り始めた。前来た時に松井かなみが曲がった路地を探したが、それがどのくらい上った所にあったのか、今は見当がつかなかった。

(あの時は駆け上がったけど、それほど距離はなかったように思うのに)

 歩いてゆっくり右側を見ながら登ったが、達也にはその路地を見つけられず、坂道は行き止まりになっている。もう一度、坂を下りながら確認しても、この前の路地など存在していない。

(やっぱり全部幻覚を見ていたのか? 今の自分さえ現実なんだろうか・・・)

 そんなことを考えて、坂を下りていった。


 達也は呆然と歩いて自宅に戻った。クリニックに停めた工事用バンのことなど忘れてしまっていた。ただ夢を見ているような曖昧な思考の中、ただ息をしている。そんな感覚で、気がつけば家の門の前に立っていた。

(この家には誰もいない。それが真実だったら、僕は何をすればいいんだ?)

 玄関の鍵は開いていた。中に家族がいることを期待したが、さっき慌てて飛び出したからだと気づいて、また重たい気分になった。

(やっぱり、誰もいないな。僕は一人だったんだ・・・)

 リビングのソファに深く腰掛け、頭の中を整理しようと考えたが、何も考えなど浮かばなかった。

 窓の外では、夕方の電車が走り去っていく音がした。その他は、何も聞こえない。とても静かである。いや、ずっと静かだったのだ。この家は。達也はゆっくりと部屋を見回した。


 ソファ。

 テーブル。

 冷えた空気。

 そのどこにも、“暮らし”がなかった。

 隆志の脱ぎ散らかした靴下も。

 紗英の化粧品の匂いも。

 食卓の湯気も。

 最初から、なかったのだ。


 達也は目を閉じた。思い出すのは、あの事故の日の雪だけだった。

「・・・そうか」

 小さく呟いた。

「帰ってこなかったんだな」

 その瞬間、初めて達也の中で、“待ち続けていた時間”が終わった。


(それを受け入れられない僕は、精神的に不安定で、よく三か月も無事に生活できたもんだな)

 涙が込み上げてきた。思いっきり泣くことにした。そうするほうが正気でいるという証のような気がして・・・


(いや、僕自身存在しているんだろうか?)

(もう死んでしまっているのは、僕のほうなんじゃないだろうか?)

(妻や息子なんて本当にいたのかな?)

(この家で、ずっと一人だったのか)

(それにしちゃ、よく片付いてるし、生活感が全くないな・・・)


(それに、松井かなみは実在するのか?)

(僕は、下村達也? 下村? あれ? 自分の名前も自信がなくなってくる。松井・・・)

(思い出した)

(松井かなみは、母さん。そうだ母さんだ)

(僕が小学校の時に、家を出ていった母さんの旧姓が、松井だったじゃないか)

(僕は夢を見ているのか?)

(・・・そうだ現実じゃない。これは全部、現実じゃない!)


 達也はそう考えて、目を覚まそうともがいた。

(段々状況が分かってきたぞ。僕は今夢を見ているんだ)

(戻らなきゃ! あれ起きれない。・・・どうやっても起きられない・・・)


 その時、コーヒーの匂いに気がついた。周囲を見回すと、ダイニングテーブルにコーヒーカップが置いてあり、湯気が上がっていた。

(あれも幻覚。夢の中の出来事だ。こんなにハッキリした夢って珍しいな)

 達也はテーブルに近づき、コーヒーカップを手に取った。

「うーん。いい匂いだ」

 そう言って、カップに口をつけた。

(落ち着くなぁ。もう、なんだっていいや)

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