プロローグ:ブラック企業と魔王の軍勢
天正4年〜7年頃です。
その日の夜中も、俺はオフィスのデスクで死にかけていた。
深夜二時。
クライアントからの理不尽な修正依頼。PCの画面を睨みつけすぎて視界が霞む。
「納期は明日だ。徹夜してでも仕上げろ」
そんな上司の言葉が、耳の奥で呪いのように繰り返される。
胃薬をコーヒーで流し込み、ただひたすらに数字と文字を打ち込み続ける。
俺の人生は、誰かの利益を最大化するためだけの「歯車」に過ぎない。
……そう思っていた。
重い頭を抱えて立ち上がった瞬間、猛烈な目眩に襲われた。
心臓が不自然に脈打つ。視界が急速に狭まり、オフィス特有の無機質な蛍光灯の明かりが、まるで遠い星のように遠ざかっていく。
(ああ、ようやく、休めるのかな……)
そんな安っぽい感慨と共に、意識は暗い泥の中へと沈んでいった。
疲労も、ストレスも、すべてを投げ出して。
目が覚めると、そこは湿った畳の上だった。
鼻をつくのは、古びた畳の匂いと、どこか鉄錆のような微かな臭気。
頭が割れるように痛い。
記憶が混濁する。
俺は……そうだ、残業続きで朦朧としていたはずだ。
それがなぜ、こんな戦国時代風の場所に?
体を起こし、開け放たれた格子窓の向こうへ目をやる。
そこには、視界を埋め尽くすほどの巨大な山――安土山がそびえ立っていた。
山の斜面には無数の篝火が炊かれ、夜通しで石垣が組まれている。
そして山頂には、いまだ骨組みを剥き出しにした、気の遠くなるほど巨大な木造の建造物が月夜に浮かんでいた。
(……建築中の、安土城天主……!?)
歴史の教科書で見た、天下布武の象徴。
俺が今いるのは、その突貫工事が進む最前線、天下人・織田信長の本拠地なのだ。
「……起きよったか。運の強い奴め」
低く、地を這うような声に顔を上げる。
視界に入ったのは、派手な陣羽織を纏い、凄まじい威圧感を放つ男だった。
切れ長の目、鋭利な髭。
歴史の教科書で見た顔だなんて、そんな陳腐な言葉では片付けられない。
そこにあるのは、圧倒的な「覇気」そのものだった。
「父上……?」
口から勝手に出た言葉に、俺自身が戦慄した。
(待て、今俺は誰に向かって『父上』と言った? ……頭が、割れるように痛い――!)
その瞬間、俺のものではない「別の男の記憶」が、濁流のように脳内へ流れ込んできた。
幼少期に預けられた寺の風景、冷遇される母の涙、そして、目の前にいる魔王から一度も顧みられることのなかった、暗く孤独な少年の記憶。
脳に刻まれたその名に、俺は息を呑んだ。
織田信正。
信長の庶子として生まれ、歴史の表舞台にほとんど顔を出さないまま消えた、悲劇的な影武者のような男。
俺は……そんなマイナーな武将に転生してしまったのか。
「うつけ面をしておるな。これより貴様を近習として取り立ててやる。十兵衛が苦い顔をしておるが、構わん。貴様のその、図太い神経だけは気に入った」
目の前の男――織田信長は、傲慢に笑って背を向けた。
心臓が跳ね上がる。
これから何が起きるのか、俺は知っている。
数年後、この男は近臣に裏切られ、本能寺の炎に包まれる。
織田家を継ぐはずの兄・信忠も、この信正という男も、ことごとく歴史の闇に葬られるのだ。
(待て。回避しなきゃいけないのか? この『魔王』の破滅を)
歴史改変なんて大層なことはできない。
だが、社畜として培った「理不尽な上司の機嫌を取り、納期内に無理難題を終わらせる」スキルならある。
現代の知識と、この「信正」という、誰も気に留めない透明な立ち位置。
使えるものは何でも使ってやる。
「……謹んでお受けいたします、父上。その代わり、この信正めが最高の結果を以て、御期待に応えてみせまする」
俺がそう言って深々と頭を下げた瞬間、信長は足を止めた。
振り返った魔王の瞳に、獲物を見つけたような鋭い光が宿る。
「ほう。貴様、今なんと言った?」
冷や汗が背中を伝う。
だが、ここで引けば即座に「無能」として切り捨てられる。
俺の戦国サバイバルは、この一言から始まる。




