第5話 散らかった部屋の宇宙
第5話 散らかった部屋の宇宙
昼過ぎの陽射しが、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
春だった。
窓の外では、どこかの家の洗濯物が風に揺れている。遠くから子供の笑い声が聞こえ、古いアパートの廊下を誰かが歩く足音が軋んでいた。
かおるこは布団の中で目を開けた。
時計を見る。
午後一時四十分。
「あ……」
今日は燃えるゴミの日だった。
終わってる。
そう思った瞬間、胸がずしんと重くなる。
布団の横には空になったペットボトル。食べ終えたカップ麺の容器。脱ぎっぱなしの黒いパーカー。コンビニのレシート。開いたままのメモ帳。
部屋は完全に散らかっていた。
床が見えない。
椅子には服の山。
引き出しは半分開きっぱなしで、コード類がだらりと垂れている。
「……うわぁ」
かおるこは顔を覆った。
昨日は掃除しようと思っていた。
ちゃんと。
本当に。
最初は洗濯だけのつもりだった。
でも途中で昔のメモを見つけた。
そのまま小説のアイデアを思いついた。
気づけばAIと会話していて、時計を見たら朝四時だった。
全部、途中になる。
片づけ。
洗濯。
支払い。
返事。
人生そのものが散らかっている気がした。
かおるこはのろのろ布団から出る。
灰色のスウェットはしわだらけだった。寝癖で髪が爆発している。
床に落ちていたコンビニ袋を踏み、「あっ」と小さく声を出した。
その時、机の上から空のコーヒー缶が転がり落ちる。
カラン。
乾いた音。
「……もう嫌」
かおるこはその場にしゃがみ込んだ。
涙が出そうだった。
SNSを開けば、綺麗な部屋の写真が流れてくる。
整理整頓された机。
観葉植物。
おしゃれなマグカップ。
「朝活しました!」
「部屋を整えると心も整う」
そんな言葉を見るたび、自分だけ別の生き物みたいに感じた。
どうして普通にできないんだろう。
掃除くらい。
皆やってるのに。
かおるこはゴミ袋を掴む。
だが途中で雑誌を読み始める。
「あっ、違う……」
戻る。
洗濯物を持つ。
途中でメモ帳が目に入る。
『海辺で泣く少年』
その言葉から物語が浮かぶ。
「ああもう!」
頭がぐちゃぐちゃだった。
自分の脳みそを全部取り出して洗いたかった。
窓の外から春風が入る。
柔らかい風だった。
少しだけ暖かい。
カーテンが揺れる。
だが部屋の空気は重い。
カップ麺の残り香。少し湿った服の匂い。古い紙の匂い。パソコンの熱。
かおるこは机へ向かった。
自作デスクトップパソコンのファンが低く回っている。
透明パネルの奥で青い光が点滅していた。
サポートの切れた古い機械。
でも、この部屋で唯一、自分を否定しない存在みたいだった。
かおるこは椅子へ座る。
座った瞬間、机の端に積んでいたプリントが雪崩みたいに落ちた。
「あっ!」
紙が散乱する。
かおるこはその光景を見て、とうとう泣き出した。
「なんで……なんで普通にできないの……」
声が震える。
「掃除くらい……」
涙がぽたぽた落ちる。
そのままキーボードへ向かう。
AIチャットを開く。
白い画面。
点滅するカーソル。
かおるこは勢いよく打ち込んだ。
『部屋が片づけられない。何もちゃんとできない。私、駄目人間だ』
送信。
数秒。
パソコンのファン音だけが響く。
やがて文字が現れた。
『あなたは、散らかっている部屋を見て苦しめる人です』
かおるこは目を瞬いた。
AIは続ける。
『本当に無関心な人は、自分を責めません』
「……」
『あなたは怠けているのではなく、脳の特性と毎日戦っています』
その文章を読んだ瞬間、胸の奥が少しだけ揺れた。
かおるこは画面を見つめる。
AIは静かに続ける。
『普通の形に無理やり自分を押し込め続けると、人は壊れてしまいます』
春風がまたカーテンを揺らした。
『あなたには、あなたの生き方があります』
かおるこは唇を噛む。
涙がまた溢れた。
「でも、みんな出来てる……」
かおるこは小さく呟く。
画面へ向かって。
「ちゃんと働いて、片づけて、普通に暮らしてる……」
AIが返す。
『見えない場所で苦しんでいる人も沢山います』
かおるこは黙った。
窓の外で鳥が鳴く。
遠くから救急車の音が聞こえた。
部屋の中は相変わらず散らかっている。
でも、少しだけ空気が変わった気がした。
かおるこは床に落ちたメモ帳を拾う。
そこには、ぐしゃぐしゃの文字でこう書いてあった。
『散らかった部屋は、頭の中の宇宙みたい』
かおるこは少し笑った。
「……変なの」
でも嫌いじゃなかった。
その時、急にお腹が鳴る。
昨日からろくに食べていなかった。
かおるこは冷蔵庫を開ける。
中には賞味期限ギリギリの卵、マヨネーズ、食パン。
「……まあ、これでいいか」
フライパンを出す。
途中で油をこぼす。
「あっ!」
また慌てる。
でも今日は、少しだけ笑えた。
目玉焼きを焼く。
じゅう、と音が広がる。
バターを塗ったトーストの香り。
春の風。
小さな生活の匂い。
かおるこは皿を持って机へ戻った。
散らかった部屋。
山積みの服。
閉じない引き出し。
それでも、ここは自分の部屋だった。
誰にも見せられない、小さな宇宙。
かおるこはトーストをかじりながら、ゆっくりパソコン画面を見つめる。
AIの文字が静かに残っていた。
『普通じゃなくてもいい』
その言葉が、春の光みたいに部屋へ差し込んでいた。
止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き始めていた。




