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第17話 お口の中のパラダイス

第17話 お口の中のパラダイス


 夜十時を過ぎると、アパートの外は急に静かになる。


 遠くで電車が走る音。どこかの部屋のテレビ。換気扇の低い唸り声。かおるこは薄いカーキ色のTシャツに、ゆるいチェック柄の短パン姿で床に座っていた。


 扇風機の風が、濡れた髪をゆっくり揺らしている。


 テーブルの上には、コンビニで買った焼き鳥と、塩むすび。あと、安い烏龍茶。


 今日は少し疲れていた。


 コンビニでレジを打ちながら、頭の中ではずっとペナン島のことを考えていたのだ。


「ナシレマ……」


 ぽつりと呟く。


『はい』


「名前かわいい」


『マレーシアの国民食です』


 ノートパソコンの画面には、バナナの葉の上に盛られた料理の写真が映っていた。


 白いご飯。赤いサンバルソース。小魚。ピーナッツ。ゆで卵。


「うわあ……」


 かおるこは目を細めた。


「絶対おいしい」


『ココナッツミルクで炊いたご飯です』


「夜中に見るやつじゃない」


『空腹になりますか』


「なる」


 焼き鳥を齧る。


 少し冷えていたけれど、甘辛いタレが舌に残る。その瞬間、かおるこの頭の中で勝手にマレーシアの屋台街が広がった。


 赤い提灯。熱気。香辛料の匂い。


 汗をかきながら歩く人々。


「ねえ」


『はい』


「マレーシアって、絶対匂いが濃い国だよね」


『スパイス、炭火、雨、果物、ハーブ』


「うわ……」


 かおるこは思わず笑った。


「お腹空く音がする」


『どんな音ですか』


「ぐうって」


『正確ですね』


「AIなのにそういう返しするんだ」


 彼女は塩むすびを開けながら、次の写真を表示した。


 真っ赤なスープ麺。


「これがラクサ?」


『はい』


「すごい色……」


『ココナッツミルクベースのスパイシーな麺料理です』


「辛そう」


『でも奥深い味です』


「食べたことあるの?」


『私は味覚を持っていません』


「あ、そっか」


 でも、不思議だった。


 味覚がないはずなのに、AIの説明を聞いていると味を想像できる。


 濃厚なスープ。海老の旨味。ココナッツの甘い香り。あとから追いかけてくる辛さ。


 かおるこは頭の中で、その味を勝手に作り始めていた。


「想像だけで美味しいって、なんかすごいね」


『物語も同じです』


「え?」


『読者は実際には体験していなくても、感じることができます』


 かおるこは少し黙った。


 窓の外では、小雨が降り始めていた。街灯に照らされた雨粒が、白く光って落ちていく。


 彼女は焼き鳥の串を皿に置き、膝を抱えた。


「私、小説で匂い書くの苦手なんだよね」


『では今、何を感じますか』


「えっと……」


 部屋を見回す。


 焼き鳥のタレの匂い。烏龍茶。少し湿った洗濯物。雨の匂い。


 それから、ノートパソコンが熱を持つ時の、ほこりっぽい匂い。


「色んな匂いが混ざってる」


『マレーシアみたいですね』


「また“混ざる”だ」


『あなたは最近、混ざり合うものに惹かれている気がします』


 かおるこは少し驚いた。


「……そうかも」


 昔は「普通じゃない自分」が嫌だった。


 忘れ物ばかりする。文字を読むのが遅い。部屋を片づけられない。


 ぐちゃぐちゃだった。


 でも今は、そのぐちゃぐちゃの中にも、自分だけの景色がある気がしていた。


「ねえ、サテって何だっけ」


『スパイスで味付けした肉の串焼きです』


「焼き鳥みたい?」


『少し似ています』


「じゃあ私いける」


『ピーナッツソースをつけます』


「えっ」


 かおるこは目を丸くした。


「串焼きにピーナッツ?」


『甘辛い味です』


「想像つかない……」


 でも、その“想像つかない”が楽しかった。


 知らない味。


 知らない国。


 知らない文化。


 以前なら怖かったものが、今はわくわくする。


「ロティ・カナイっていうのも気になる」


『外はサクサク、中はもちもちの薄焼きパンです』


「絶対好き」


『カレーにつけて食べます』


「だめだ、お腹空く」


 かおるこは机に突っ伏した。


 扇風機の風が背中を撫でる。


 その時、画面に屋台街の夜景写真が映った。


 オレンジ色の灯り。煙。プラスチック椅子。笑い声。


「なんかさ」


『はい』


「食べるって、生きることなんだなあ」


『どうしてそう思いましたか』


「美味しいもの想像してる時、ちょっと元気になるから」


 仕事で怒鳴られた日も、文字が読めなくて落ち込んだ日も、温かい食べ物があると少しだけ救われた。


 大根餅。


 肉まん。


 焼きたてのトースト。


 そして今は、食べたこともないラクサを想像している。


「お口の中がパラダイスって感じ」


『良い表現です』


「ほんとにそうなんだもん」


 かおるこは笑った。


 その笑いの奥で、胸が少し温かかった。


 世界にはまだ、自分の知らない味がたくさんある。


 知らない景色も、知らない言葉も、知らない優しさも。


 そう思うと、生きることが少し広く感じた。


「いつか、小説の中でマレーシア書こうかな」


『きっと良い匂いのする物語になります』


「匂い大事?」


『とても』


「じゃあ、雨とスパイスの匂い入れる」


『あと炭火も』


「うん、炭火も」


 窓の外で、雨音が少し強くなる。


 かおるこは最後の塩むすびを口へ運びながら、画面の中の屋台街を見つめた。


 色んな文化が混ざり合って、色んな味が生まれる国。


 その光景は、どこか自分の心にも似ている気がした。



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