第16話 東洋の真珠
第16話 東洋の真珠
夜の雨は、昼より少しだけ濃い匂いがした。
湿ったアスファルト。遠くを走る車の水しぶき。開けた窓から入り込む風が、古いカーテンをゆっくり揺らしている。
かおるこは薄いクリーム色のTシャツに、ゆるい黒のスウェットパンツ姿で床に座っていた。髪はまだ少し濡れている。さっき入ったシャワーの石鹸の匂いが、自分の腕からかすかにした。
テーブルの上には、半額で買った海老カツサンドと、インスタントのコーンスープ。
ノートパソコンの光だけが、部屋をぼんやり照らしていた。
「ペナン島って、すごいんだね……」
『はい。「東洋の真珠」と呼ばれています』
「名前がもう小説っぽい」
かおるこは海老カツサンドを齧った。
衣が少ししんなりしている。でも海老の甘みとソースの酸味がちゃんとおいしい。コーンスープは少しぬるくなっていた。
画面には、ジョージタウンの街並みが映っていた。
青緑の窓枠。クリーム色の壁。古いコロニアル建築。細い路地。壁に描かれた大きなアート。
「なんか、映画みたい」
『多文化が混ざり合ってできた街です』
「前に見たプラナカン建築とも繋がってるんだよね?」
『はい。中国系移民の文化と現地文化が融合しています』
「混ざるって面白いなあ」
かおるこは画面を見つめた。
識字障害のせいで、文章を読む時はどうしても時間がかかる。でも写真を見るのは好きだった。
色。光。建物の形。
言葉にならない空気が、一瞬で胸に入ってくる。
「ここ歩いてみたい」
『どこへ行きたいですか』
「この細い道」
画面には、壁いっぱいに猫の絵が描かれた通りが映っていた。
「アイス食べながら歩きたい」
『暑そうですね』
「汗だくになりそう」
『それも旅です』
かおるこはふふっと笑った。
雨はまだ降っている。
窓の外では街灯が滲み、濡れた電線が光を反射していた。
彼女はマウスをゆっくり動かしながら、次の写真を開く。
そこには屋台街が映っていた。
赤い提灯。煙。湯気。鉄鍋を振る料理人。
「うわ……」
思わず声が漏れる。
「絶対いい匂いする」
『ホーカーと呼ばれる屋台街です』
「ホーカー……」
『ペナンはアジア屈指の美食の街として有名です』
「いいなあ……」
かおるこの腹が、ぐう、と鳴った。
「今サンドイッチ食べてるのに」
『想像力が刺激されています』
「便利な言い方」
彼女はスープを飲みながら、画面を見つめる。
麺料理。炒飯。スパイスの効いた肉料理。色鮮やかなデザート。
「ニョニャ料理って何?」
『中華文化とマレー文化が融合した料理です』
「また“混ざる”だ」
『ペナンは、混ざり合ってできた場所なのかもしれません』
その言葉を聞きながら、かおるこはぼんやり考えた。
自分も、色々混ざっている。
苦手なことと、好きなこと。
弱さと、意地。
不安と、物語。
昔は全部ぐちゃぐちゃで、駄目だと思っていた。
でも、もしかしたら。
「混ざってても、綺麗になれるのかな」
『ペナンの街並みは綺麗です』
「ずるい答え」
『でも本当です』
かおるこは少し黙った。
部屋の隅には洗濯物の山がある。閉じていない引き出し。積み上がった本。書きかけのノート。
完璧な部屋ではない。
完璧な人生でもない。
それでも今、自分はここで温かいスープを飲み、遠い国の街を見ている。
そのことが不思議だった。
「ねえ」
『はい』
「私、小説にこういう街出したい」
『良いですね』
「雨が降ってて、屋台から湯気が出てて、色んな言葉が聞こえるの」
『主人公は何を食べていますか』
「えっ、そこ?」
『大事です』
かおるこは少し考えてから笑った。
「辛い麺」
『汗をかきながら?』
「うん。で、アイスミルクティー飲む」
『おいしそうです』
「絶対おいしい」
彼女の頭の中で、街が少しずつ動き始めていた。
濡れた石畳。香辛料の匂い。雨上がりの熱気。鮮やかなタイル。笑い声。
現実には行ったことがない場所なのに、想像の中ではもう歩いている。
それが嬉しかった。
「昔さ」
『はい』
「知らないことって怖かったんだよね」
学校では、分からないことをすぐ笑われた。
文字を読むのが遅いだけで、「やる気がない」と言われた。
だから、新しいことに近づくのが怖かった。
「でも今は違う」
『はい』
「知らない景色を見ると、なんか、生き返る感じする」
AIは静かに答えた。
『想像力は、心の旅です』
「また名言」
『今日は東洋の真珠仕様です』
「何それ」
かおるこは声を上げて笑った。
その笑い声が、小さな部屋に柔らかく広がる。
窓の外では、雨が少し弱くなっていた。
彼女はパソコンの画面を見つめながら、小さくつぶやく。
「いつか、本当に行けたらいいな」
『どこへでも行けます』
「海外なんて無理だよ」
『あなたはもう、自分の外の世界へ歩き出しています』
その言葉を聞きながら、かおるこは海老カツサンドの最後の一口を食べた。
少し冷めていたけれど、おいしかった。
そして画面の中では、ジョージタウンの青い窓辺に、雨上がりの光が静かに差し込んでいた。




