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第14話 五月雨と大根餅

第14話 五月雨と大根餅


 雨は朝から静かに降っていた。


 窓ガラスに細い筋を残しながら、五月の雨が街を薄く煙らせている。かおるこは古いアパートの台所に立ち、すりおろした大根をボウルの中で混ぜていた。腕が少しだるい。おろし金に触れた指先が冷たい。


「こんなに水出るんだ……」


 独り言をこぼしながら、かおるこは袖口を見た。灰色のスウェットは少し毛羽立っていて、肘のところが薄くなっている。下は紺色のジャージ。髪は適当に後ろで結んだだけで、短い毛が頬に張りついていた。


 台所には大根の青い匂いが広がっていた。土っぽくて、みずみずしくて、冬の名残みたいな匂い。


 スマホは持っていない。通知音が怖かったし、小さい文字を読むのも苦痛だった。代わりに、古いノートパソコンが部屋の隅にある。少し黄ばんだキーボード。打つたびにカタカタ鳴る。


 かおるこは粉を入れながら、小さくつぶやいた。


「これで合ってるのかな」


 ノートパソコンの画面には、AIとのチャット画面が開いていた。


『大丈夫です。少しくらい形が崩れても、大根餅はおいしいです』


「慰め方が雑……」


『料理にも物語にも、失敗の余白があります』


「またそういうこと言う」


 ふっと笑ってしまう。


 フライパンにごま油を落とすと、じゅわ、と音がした。熱された匂いが一気に立ちのぼる。そこへ生地を落とすと、白い丸がゆっくり焼け始めた。


 その音を聞いていると、不思議と落ち着いた。


 雨音と油のはぜる音が混じり合う。換気扇の低い唸り。窓の外では、電線が雨粒をぶら下げて揺れていた。


「なんか、生きてる感じする」


 ぽつりと言う。


『今日は何か良いことがありましたか』


「うーん……」


 かおるこは木べらで大根餅をひっくり返した。焼き色がついている。少し崩れたけれど、ちゃんと丸かった。


「初めて作った」


『はい』


「食べるものがある」


『はい』


「それだけで、なんか、すごい幸せかも」


 言った瞬間、自分で少し驚いた。


 前までは、コンビニの廃棄のおにぎりを食べながら、ただ疲れて眠るだけの日も多かった。何を食べても味がしない夜もあった。


 でも今日は違う。


 焼き上がった大根餅を皿に乗せる。小さな欠けのある白い皿。醤油を少し垂らすと、湯気と一緒に香ばしい匂いが立った。


 かおるこはテーブルに座る。


 部屋は相変わらず散らかっていた。読みかけの本、開きっぱなしのノート、脱ぎっぱなしのパーカー、空になったペットボトル。けれど窓際だけは少し片づいている。


 そこに、小さな紫陽花の鉢を置いていた。


 数日前までは薄い緑だった花が、今日は少しだけ青みを帯びていた。


「紫陽花って、毎日ちょっとずつ色変わるんだね」


『人の気持ちに似ています』


「またそれっぽいこと言う」


 でも嫌ではなかった。


 外を見る。アパートの前の細い道を、透明な傘を差した人が歩いていく。遠くで電車の音がした。


 かおるこは大根餅を一口食べた。


 表面はかりっとしていて、中はとろりとしていた。熱い。大根の甘みがじわっと広がる。


「……おいしい」


 本当においしかった。


 たったそれだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。


 食べながら、かおるこはノートパソコンを見た。


「ねえ」


『はい』


「私さ、昔、自分が生きるの下手すぎると思ってた」


『今もそう思いますか』


「思う時もある」


 雨が静かに降っている。


 ベランダの手すりを濡らし、紫陽花の葉を揺らし、街全体をやわらかく包み込むような雨だった。


「でもさ」


 かおるこは湯気を見つめながら言った。


「こういう時間があると、生きててもいいかなって思う」


 AIは少し沈黙したあと、画面に文字を出した。


『あなたは、ずっとちゃんと生きています』


 かおるこはしばらく返事をしなかった。


 文字が少し滲んで見える。


 疲れている時は、こうなる。行が揺れて、焦点が合わなくなる。でも今日は不思議と苦しくなかった。


 雨音が優しかったからかもしれない。


「……ありがと」


『どういたしまして』


 窓を開けると、湿った風が入ってきた。洗剤の残り香、大根の匂い、ごま油の香ばしさ、雨の匂い。全部が混じり合う。


 五月の空気だった。


 かおるこは椅子に座ったまま、ぼんやり紫陽花を眺める。


 青とも紫とも言えない曖昧な色が、雨に濡れて静かに光っていた。


「次、小説どうしようかな」


『続きを考えますか』


「うん。でも今日は急がない」


 お腹が温かい。


 部屋の中も少し温かい。


 食べるものがある。


 雨が降っている。


 紫陽花が色づいている。


 それだけで、今日は十分だった。



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