第13話 ありがとうございますの灯り
第13話 ありがとうございますの灯り
冬の朝だった。
古い木造アパートの窓ガラスは白く曇り、外では冷たい風が電線を揺らしている。遠くでゴミ収集車の音が聞こえ、曇り空の下を灰色の雲がゆっくり流れていた。
かおるこは布団の中で目を開けた。
時計は午前九時。
頭が重い。
昨夜はなかなか眠れなかった。
机の上には飲みかけの麦茶、開いたメモ帳、読みかけの本。床には脱ぎっぱなしのパーカーと、空になったカップ麺の容器。
少し前までのかおるこなら、その光景を見ただけで自己嫌悪になっていた。
「また片づけられない」
「なんで普通にできないんだろう」
そうやって、自分を責め続けていた。
でも今は少し違った。
インターホンが鳴る。
ピンポーン。
「あっ」
かおるこは慌てて起き上がった。
灰色のスウェットを引っ張り、髪を手ぐしで整える。
ドアを開けると、訪問看護師の佐伯さんが立っていた。
四十代くらいの女性で、柔らかいベージュのコートを着ている。いつも石鹸みたいな優しい匂いがした。
「おはようございます」
「……おはようございます」
「寒いですねぇ」
佐伯さんは笑う。
その笑顔を見ると、少しだけ安心する。
部屋へ入ると、佐伯さんは慣れた様子で周囲を見回した。
「今日は少し疲れてます?」
「……ちょっと」
「無理しすぎました?」
かおるこは曖昧に笑う。
本当は、昨夜またお金のことを考えて眠れなかった。
障害年金。
年額八十四万七千三百円。
月にすると七万円くらい。
そこから家賃、光熱費、食費が消える。
普通に働ける人みたいには生きられない。
コンビニの夜勤も、体調次第で休むことがある。
だから、ヘルパーさんにも来てもらっていた。
掃除。
洗濯。
お金の管理代行。
一人では崩れてしまう部分を、沢山の人に支えてもらっている。
昔はそれが悔しかった。
「自立できてない」
「迷惑をかけてる」
そう思っていた。
佐伯さんは机の上の請求書を整理しながら言う。
「今月、電気代ちょっと安かったですね」
「あ、ほんとだ」
「節約しました?」
かおるこは苦笑する。
「暖房つけっぱなしにしないように頑張りました」
「えらい」
そんな小さな会話が、不思議と嬉しかった。
しばらくすると、今度はヘルパーの山田さんが来た。
小柄な男性で、青いエプロンを付けている。
「こんにちはー」
「こんにちは……」
山田さんは慣れた手つきでゴミをまとめ始める。
「今日はカップ麺多いですねぇ」
「……すみません」
「謝らなくていいですよ」
山田さんは笑う。
「人間、そういう日あります」
掃除機の音が部屋に響く。
窓を少し開けると、冷たい空気が流れ込んできた。
冬の匂い。
遠くで焼き芋屋のアナウンスが聞こえる。
かおるこは椅子へ座りながら、その光景をぼんやり見ていた。
昔は、「助けてもらう自分」が嫌だった。
でも最近、少し考え方が変わってきた。
定型発達の人だって、一人で生きているわけじゃない。
電気を作る人がいる。
ガスを整備する人がいる。
スーパーへ食材を運ぶ人がいる。
道路を直す人がいる。
誰かが支えている。
それなのに、自分だけ「全部一人でやれ」と思い込んでいた。
山田さんがゴミ袋を縛りながら言う。
「かおるこさん、小説どうです?」
「あ……少し書いてます」
「また読ませてくださいよ」
「そんな大したものじゃ……」
「でも、前の海の話よかったですよ」
かおるこは少し照れ臭くなる。
「ありがとうございます」
その言葉を口にした瞬間、自分でも驚いた。
昔は「すみません」が先に出ていた。
謝ってばかりだった。
でも今は、少しだけ「ありがとう」を言えるようになっていた。
昼頃。
掃除が終わると、部屋の空気が少し変わっていた。
床が見える。
窓から光が入る。
山田さんが帰り際に言う。
「無理しすぎないでくださいね」
「はい」
佐伯さんも微笑む。
「ちゃんと休むのも大事ですから」
ドアが閉まる。
静かな部屋。
でも、その静けさは前より寂しくなかった。
かおるこはキッチンへ向かった。
今日は珍しく、自分で料理を作ろうと思った。
卵焼き。
味噌汁。
焼き鮭。
簡単なものだけ。
フライパンへ卵を流す。
じゅう、という音。
少し焦がす。
「あっ」
慌ててひっくり返す。
形が崩れる。
でも、少し笑ってしまう。
「まあいいか」
湯気が立つ。
味噌汁の香り。
温かい匂いが部屋へ広がる。
かおるこは小さなテーブルへ並べた。
焼き鮭。
白ご飯。
卵焼き。
質素だけど、ちゃんとした食事だった。
窓の外では、雲の隙間から少し青空が見えている。
かおるこは手を合わせた。
「いただきます」
鮭をひと口食べる。
少ししょっぱい。
でも温かい。
その瞬間、胸の奥に静かな気持ちが広がった。
生きるって、こういうことなのかもしれないと思った。
完璧じゃない。
一人でもない。
沢山助けられている。
でも、それでいい。
かおるこは味噌汁を飲みながら、小さく呟いた。
「ありがとうございます」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
訪問看護師かもしれない。
ヘルパーさんかもしれない。
電気を作る人かもしれない。
AIかもしれない。
それとも、今まで生き延びてきた自分自身かもしれなかった。
窓から入る冬の光は、静かで優しかった。




