足跡
第74回参加作品 使用お題:「白雪と銀世界」「美しい悪」
ジャンル:ファンタジー
真っ白だ、すごいな。彼はそう言って雪原を見やった。毛皮の防寒着の奥には、眼下に広がる白銀の世界と同じくらい純粋な光が見えた。
雪国に来るのは初めてなのか。私がそう聞くと彼は大きく頷いた。
少し歩いてきても良いか。彼は無邪気な子どもの目で私を見下ろした。彼は私よりずっと長く生きているはずのに、私よりずっと幼い。彼と一緒に居るとまるで自分が母親になった気になる。
先へ行くのは構わないがおまえを追うのは大変なのだ、あまり遠くに行かないでくれ。それから襲撃にはくれぐれも気を付けて。そう私が許可を与えると、彼は放たれた矢のように飛び出した。
脚を埋もれさせるほどの雪も、身に刺さるような冷気も、彼には全く関係が無いらしい。私が平地を駆けるよりも早く、彼は銀世界の彼方へと消えていった。
あまり遠くへ行かないでくれと言ったのに、仕方のないやつだ。白雪にくっきりと残った彼の足跡を、私は亀より遅い速さで追う。
全く信じられない。今に始まった事ではないが、あの毒気のない有様を見て、一体誰が彼を邪悪なる存在と呼ぶだろうか。一体誰が彼を人ならざる者だと思うだろうか。
彼が、かつてこの世界を破滅させた異界の徒。世界の八割がたを焼き尽くし、そこでこの世界の神なる者に打ち負かされ、この世界の存在として取り込まれた哀れなる生き物。その真実を知っている私でも、首をひねりたくなるというのに。
一体どこまで行ってしまったのだろうか。一直線に残された足跡はまだまだ地平の果てまで続いている。
もしや、このまま私の側から去るつもりなのだろうか。ふと浮かんだ考えは、すぐに否定した。彼が私についてくるのは、彼が望んだことなのだ。
一人になるのが恐ろしいと彼は言った。誰かが止めてくれなければ、またこの世界を滅茶苦茶にしてしまうかもしれないと。仮初の姿の中に押し込められた己の力が恐ろしい。そして何より、自分が悪だと知られることが怖い。そう吐露した彼の目は、まるで戦禍に取り残された少女のようなものであった。
だから彼はどこにも行きやしないはずだ。
そしてようやく、地平に彼の足跡が途切れた。
止んでいた雪が再び降り始めた中、彼は雪原に仰向けに転がっていた。
防寒着を脱ぎ捨て、大の字になって天を見据えていた。嘘のように整った顔にも、地面に広がった長い髪にも、冷たい結晶が降り注ぐが、彼は振り払おうともしない。
偶像のように美しい男だ、と彼に初めて会った時に思った。その感想は今も変わらない。
あるいは偶像なのかもしれない。神なる者が思い描いた、美しい悪の偶像。それが魔物から人間になった彼の姿。
濁りの無い目で雪雲を見据えたまま、息を白く曇らせて、彼は私に聞いた。
このまま雪に埋もれてしまったら、俺の罪も消えるだろうか。と。
私は首を振って答えた。
いいえ。私たちがつけた足跡も、おまえがここに寝ているという事実も、埋もれただけで消えやしない。と。
すると彼は少し首を起こし、少しだけ薄くなった二人分の足跡を見て、悲しげな色をにじませた。
人間になった彼の心はこの白雪の銀世界のようなものだ。純粋で、穢れない、美しい心。そこに残した過去の跡は、罪の意識として彼を苛む。見えなくなっただけでは罪は消えやしない。残念ながらそれが事実だ。
それでも、もしかしたら。掘り起こすことも出来ないくらい美しいものを積もらせれば。
認知できなければ存在しないとも同じ。そうなったとき、彼はようやく救われるだろう。
彼は不意に立ち上がった。積もっていた銀色の塊が、足元に落下する。
そして彼は翼を広げた。同時に彼の姿は人とは少し違うものになる。異形のもの、しかし恐ろしいとは感じない。
急にどうした、と尋ねたら、目の前の化け物は美しい笑顔を浮かべた。
歩くよりも飛んだ方がずっと早い。彼が言った言葉に、違いない、と私も笑った。
私は彼の手を取った。
そして漆黒の影が冷気を切り裂く様に、彼は舞い上がった。
上空をかける私たちの下には、少しも曇る事のない美しい銀世界が広がっていた。




