ポッポちゃん
受験勉強に勤しまなければならないぼくの心は塞いでいた。センター試験の予想問題集とにらみあい、ぼくはため息をつく。志望校合格、叶う気がしない、絶望だ。
国語の大問二、小説から抜き出された文章を読み設問に答える。苦手だ。滑りそうになる目を必死で踏みとどまらせる。
ふとカギカッコでくくられた一文が目に止まった。
「しょうがないわよ。初恋の人のことなんて、意外と忘れてしまっているものよ」
初恋の人。ああ、そう、初恋の人。ぼくは設問などそっちのけで、彼女のことを思い浮かべた。
初恋の人がいる。スーパーで働くポッポちゃんだ。出会ったのはぼくが小学生の頃だった。
ぼくは彼女の声に魅かれた。明るくはつらつとした彼女の声には、母親に手を引かれて泣きぐずるぼくの心を晴れさせる力があった。
『こんにちはー!』
小学生のぼくからみると、ポッポちゃんは少し大人のお姉さん。声をかけられれば、すぐに笑顔で「こんにちはっ!」と返してしまう。
『きょうはどんな日だったかな? お友だちと仲良く遊んだのかな?』
ポッポちゃんにはそうやって少しおどけた口調で尋ねられる。ぼくの答えは「うん!」だったり、「ケンカしたんだ!」だったり。どんなふうに答えても、ポッポちゃんは次には必ずにこやかな声で僕を元気づけてくれる。
『まったねー!』
ポッポちゃんの別れのあいさつはいつもそれだ。ニコニコ顔の彼女に、ぼくはブンブン手を振りながら幸せ顔で帰る。
ポッポちゃんとの思い出は幸せがセットだ。
「ポッポちゃん……」
もう長らく会っていない。いや、それよりポッポちゃんはまだあそこに居るのだろうか、それすらわからない。
「ポッポちゃんの声、聞きたいな」
思い出は、思い出してしまうと途端に愛しくなる。
「……行ってみようかな」
僕は固い椅子から立ち上がると、自転車のキーと財布をポケットに突っ込んで部屋を出た。
しばらくぶりに訪れたスーパーに、ポッポちゃんは居た。思い出の中に見たものと何一つ変わることのない笑顔で、いつもの場所でぼくを迎えてくれた。
ぼくの鼓動は高鳴っていた。昔は見上げていたのに、今はぼくと同じ高さに目がある。
しかし、ぼくは彼女に会いに来たというのに、いざこうなると少し気恥ずかしい。辺りの他人からの目線も気になって、きょろきょろと不審な動きもしてしまう。
いや、駄目だ。ポッポちゃんはこうして待ってくれているのに。僕は意を決して深呼吸をした。
そしてぼくは財布を開いた。そうだポッポちゃん、君の声は有料なんだよね。今も変わっていなかった、お値段は百円玉が二枚。昔と同じであることが嬉しくて、ぼくはポッポちゃんに微笑みかけた。ポッポちゃんも笑っている。
『ポッポちゃんのポップコーン屋さん』とファンシーなタッチで描かれたプラスチック看板の下、コミカルに誇張されて作られたハリボテの鍋から溢れるポップコーンの山の向こうで、ポッポちゃんはデフォルメされたスマイルを浮かべている。昔も今も、何一つ変わらない笑顔を。
ぼくは百円玉を二枚、そのポッポちゃんのポップコーン自動販売機に入れた。いつもは賑やかな音楽が鳴るだけだが、コインを入れるとポッポちゃんが喋りだす。だから、彼女の声は有料なのだ。
『こんにちはー!』
ぼくの耳を懐かしい声が打つ。途端にぼくの鬱屈とした気持ちは吹き飛んだ。
「ひさしぶり、ポッポちゃん」
ぼくは思わずつぶやいた。口元が緩んでいる。
『きょうもポッポちゃんのお店に来てくれてありがとう! ポップコーンができるまで、ちょっとだけ待っててね!』
ウィンウィンという機械がうなる声をかき消すように、ポッポちゃんの高くも柔らかい声が響く。そうだ、この声だ。ぼくの初恋の声。
あの頃ぐずっていたぼくは、母親にポップコーンを買ってもらって上機嫌だった。それから何かと理由をつけて――テストでいい点とったとか、体育で頑張ったとか、適当な記念日をでっちあげてとか、ことあるごとにポッポちゃんのポップコーンをせがむようになったのだ。
ぼくの小さなころの楽しい思い出は、ポッポちゃんの声と共にある。
『きょうはどんな日だったかな? お友だちと仲良く遊んだのかな?』
ここのポッポちゃんのセリフは何パターンかある。きっと何度も来るぼくのような子どもを飽きさせないための工夫だろう。
「全然。たいへんなんだよ、毎日受験勉強で」
録音された音声でも話は噛み合わせられる。だって、この後に続く言葉をぼくは完全に覚えているから。
ポップコーンの弾ける音が激しくなる。ポッポちゃんの鍋の中でポップコーンが跳ねるイメージと、僕の心で跳ねる小さなころの楽しい思い出が重なり合う。
『うんうん、そっかあ。でも、きょうはきょう。あしたはきょうとちがうんだから、あしたもガンバルんだぞっ!』
黙って頷くぼくの心は、完全に小学生の頃に戻っていた。
そして。すとん、という音がしてからポッポちゃんが声を発した。ぼくは、高校生のぼくに戻る。
『でっきあがりー! カップの底が熱いから、気を付けて取り出してネ』
取り出し口の黒い扉の向こうには、縦長の紙カップが鎮座していた。ポッポちゃんが造れる唯一の手料理、ポップコーンバター風味。
ぼくはポッポちゃんに言われた通り、火傷に気を付けて取り出した。昔より小さくなった気がするが、違う、ぼくの手が大きくなったのだ。時の流れを感じて、胸がきゅっと締め付けられる。
すかさずつまんだ。薄味だ。だがぼくは知っている。カップの底に塩マーガリンが偏っていて、底に行けば行くほど味が濃いのだ。
きっと今時のスナックの方が品質はいいのだろう。でも、ポッポちゃんのポップコーンは、おいしかった。どんなおかしよりもずっと。不思議と涙すら滲んでくる。
『まったねー!』
ポッポちゃんの別れの挨拶だ。それからプツっと音がして、元通り賑やかな音楽が流れ出す。
「また来るよ、ポッポちゃん」
ぼくはポッポちゃんに向かって小さく手を振って、ポップコーンを食べながら家路についた。
ポップコーンのおまけつきな君の声は有料だ、お値段百円玉二枚。それでもたったそれだけで、ぼくを元気にさせる力があるのだ。
ポッポちゃんの声が聴けたから、また明日も頑張れる気がする。受験もきっとうまくいく。馬鹿みたいに前向きな小学生の心がぼくに戻っていた。




