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母の葬儀の日、私は地下の貯蔵庫で十年分の冬を見つけた。

作者: 冬月しるべ
掲載日:2026/05/08

導きの世界の片隅にある、小さな母娘の話です。

本編を知らなくても読めます。


冬の匂いと、台所のぬくもりを感じてもらえたら嬉しいです。


 最初は、数え間違いだと思った。


 薄暗い石段を降りた先。土と乾いた藁の匂いがこもる貯蔵庫の棚に、同じ形の瓶がずらりと並んでいた。


 一段に四つ。

 二段目にも四つ。

 三段目、その下にも。


 琥珀色のもの。

 白く濁ったもの。

 豆の影が沈んで見えるもの。

 乾いたきのこが、ゆるくふやけたまま浮いているもの。


 どれも見覚えのある色だった。

 子どもの頃、冬の夜ごとに食卓へ並んでいた、母のスープの色だ。


「……なに、これ」


 声がうまく出なかった。


 私はいちばん手前の瓶を手に取った。

 蓋の布は古びている。けれど紐はきつく結ばれたままだった。


 首にくくりつけられた木札には、小さな字でこうあった。


 一年目の冬。芋多め。塩少なめ。


 息が止まった。


 次の瓶には、


 二年目の冬。豆。きのこ少し。


 その次には、


 三年目の冬。干し肉ひとかけ。エルナはこれが好き。


 指先が冷たくなっていく。


 四年目の冬。

 五年目の冬。

 六年目の冬。


 棚のいちばん奥、いちばん新しい瓶の札には、こう書かれていた。


 十年目の冬。帰ってきたら開ける分。


 そこでようやく、私は数え間違いではなかったのだと知った。


 母は、私が村を出てから死ぬまで、毎年ひと瓶ずつ、私のためにスープを残していたのだ。


 葬儀のあとだった。


 小さな村の弔いは早い。雪に閉ざされる土地では、泣いているあいだにも薪を割り、水を汲み、鍋を火にかけなければならない。村の女たちは泣きながらも手を止めず、男たちは棺を担いだあとで静かに土を戻した。


 十年ぶりに戻った家は、思ったより小さかった。

 天井は低く、扉の蝶番は少し軋み、窓辺の木枠には昔と同じ傷が残っていた。


 母が死んだと聞かされたとき、私はすぐには泣けなかった。


 仕立ての仕事をしていた宿場町に、村の若い衆が知らせに来た。

 雪の早い朝で、私は客の外套のほつれを繕っていた。

 母が倒れたこと。

 三日も熱が下がらなかったこと。

 最後まで、苦しいより先に、台所の火を気にしていたこと。


 それを聞いても、胸の奥は妙に静かだった。


 私は母に愛されていた、という確信を持ったことがなかったからだ。


 母はいつも忙しかった。

 朝はまだ暗いうちから起きて水を温め、村の年寄りに粥を運び、冬前には共同の貯蔵小屋で保存食を仕込み、誰かの家の薪が足りないと聞けば自分の束を分けた。


 私はずっと思っていた。


 母は村のものだ、と。


 娘の母である前に、寒さと飢えに怯えるこの村の、誰のものでもある人だったのだと。


 十年前、私が村を出ると言った日も、母は包丁を止めなかった。


『町へ行きます』

『そう』

『止めないんですね』

『あんたが決めたならね』


 それだけだった。


 私はそのとき、胸のどこかが冷える音を聞いた気がした。

 引き止めてほしかった。

 少しでも惜しんでほしかった。

 ここにいてほしいと言ってほしかった。


 けれど母は、鍋の火加減を見ながら、行くなら厚手の靴下を持っていきなさいとしか言わなかった。


 だから私は、そのまま出ていった。


 手紙も出さなかった。

 最初の冬は意地だった。

 二度目の冬は、今さら何を書けばいいのかわからなかった。

 三度目の冬には、帰れない理由の方が増えていた。


 気づけば十年だった。


 その十年分が、いま地下の棚に並んでいる。


「見つけたのかい」


 背後から声がして、私は飛び上がるほど驚いた。


 石段の途中に、隣家のヨナ婆さんが立っていた。

 母より少し年上で、昔から何でも知っている顔をしていた人だ。


「……これ、何ですか」

「見りゃわかるだろう。あんたの分のスープだよ」


 あまりに当たり前みたいに言うので、私は何も返せなかった。


 ヨナ婆さんはゆっくり石段を降りてきて、棚の瓶を一本、指先で撫でた。


「毎年ひと瓶。冬の仕込みの最後に、必ず残してた」

「どうして」

「どうしてって」


 婆さんは、私を見るでもなく言った。


「帰ってきた時の分だからって、毎年そう言ってたよ」


 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


「でも、私は……帰らなかった」

「そうだね」

「手紙も出してません」

「そうだね」

「母は、怒ってたはずです」


 ヨナ婆さんはそこで初めて、少しだけ呆れたような顔をした。


「あの人が、あんたに怒る暇なんてあったと思うかい」


 私は黙った。


「一年目の冬は、芋がよく採れた。二年目は豆が少し残った。三年目は猟師が鹿を一頭持ってきたから、干し肉をひとかけ入れられた」

「……」

「五年目はひどい飢えだった。あんたの母親、自分の鍋には水を足して薄めてたよ。でも瓶だけは残した」

「……」

「八年目の冬は咳がひどかった。塩を入れすぎて、一回全部だめにしてた。あんたの好きな味にならないって、あの人、夜中にまた作り直した」


 私は木札のついた瓶を見つめた。


 五年目の冬。豆少し。芋でかさ増し。

 八年目の冬。塩やり直し。今度は大丈夫。


 母の字だった。

 ぶっきらぼうで、少し右上がりになる癖のある字。


「なんで……何も言わなかったの」


 ようやく出た声は、情けないほど子どもじみていた。


 ヨナ婆さんは少しだけ目を細めた。


「あんたが出ていく日に、あの人、止めなかっただろう」

「……はい」

「止めたら、残る子だって知ってたからさ」

「え」

「この村は寒い。貧しい。若い娘が一生を置くには、あんまり狭い。だから行かせたんだよ。行くなら、ちゃんと外で食べていけるようになれって」


 頭の奥で、何かがゆっくり崩れていくのがわかった。


『行くなら厚手の靴下を持っていきなさい』


 あの日の母の声が、いまさら耳の中で違う意味を持ち始める。


 止めなかったんじゃない。

 止められなかったのだ。


 帰ってくる場所だけは消さずに、自分はここに残るしかないと、そう決めていたのだ。


 ヨナ婆さんは棚のいちばん新しい瓶を見上げた。


「最後の冬も仕込んでたよ」

「……これを?」

「そう。今年こそ帰ってくるかもしれないからって」


 私は、もう駄目だった。


 石の床にしゃがみこんで、声もなく泣いた。

 十年分の瓶が、ぼやけて見えた。


 その晩、私は八年目の瓶を一本だけ開けた。


 塩をやり直した、と書かれていた瓶だ。


 蓋を取った瞬間、閉じ込められていた匂いがゆっくりほどけた。

 芋の甘い匂い。

 乾いた豆の匂い。

 最後に少しだけ落とす、あの黒胡椒みたいな香草の匂い。


 母の台所だった。


 冬の夜、私はよく鍋のそばに椅子を引き寄せて、母の手元を見ていた。

 木べらで底をさらう音。

 湯気の向こうで髪がほどける感じ。

 味見をして、少し首を傾げて、塩を足すかどうか迷う顔。


『熱いから気をつけなさい』

『わかってる』

『わかってないから言ってる』


 たったそれだけのやりとりが、喉を焼くほど恋しかった。


 小鍋に移して火にかけると、ゆっくり湯気が立った。


 私はひとくち飲んだ。


 塩が少しだけ強かった。

 母はこれをやり直したと言ったのだろうけれど、それでもまだ少し濃かった。


 その、不器用に整えようとした味が、たまらなく母らしかった。


 泣きながら笑って、また飲んだ。

 熱くて、舌が少し痛かった。


 翌朝、私は最後の瓶を手に取った。


 十年目の冬。帰ってきたら開ける分。


 木札の字は前の年より少し震えていた。

 でも紐の結び方はきっちりしていた。

 母はたぶん、いつものように、これを棚のいちばん奥へ置いたのだ。

 来年もまた、仕込むつもりで。


 私はしばらくその瓶を抱えていた。


 開けてしまえば、母の十年が終わってしまう気がした。

 けれど開けなければ、私はまた何も受け取らないままになる気がした。


 だから私は、瓶を胸に抱いたまま、台所へ戻った。


 火を起こし、鍋に移し、ゆっくり温めた。

 湯気が立つ。

 窓の外では、昨夜からの雪が薄く積もっていた。


 そこへヨナ婆さんが黙って入ってきて、向かいへ座った。

 何も言わないまま、私が差し出した椀を受け取った。


 二人で、母の最後の冬を食べた。


 芋が多かった。

 豆は少なかった。

 でも、いちばん奥にほんの少しだけ、干し肉が入っていた。


 私はそれを見つけた瞬間、また泣いた。


「……最後まで、こういうことする」


 ヨナ婆さんは椀を持ったまま、ふっと笑った。


「そりゃそうさ。あんたの母親だもの」


 雪は昼を過ぎてもやまなかった。


 夕方、私は貯蔵庫の棚を片づけた。

 空になった瓶を洗い、古い藁を敷き直し、木札をひとつずつ外して布に包んだ。


 いちばん奥、最後の瓶が置かれていた場所だけは、しばらく空いたまま見つめていた。


 それから私は台所へ戻り、残っていた芋を洗った。

 豆を水へ浸した。

 干しきのこを刻み、塩を量り、鍋に水を張った。


 ヨナ婆さんが、戸口で目を丸くする。


「何してるんだい」

「……冬の仕込みです」

「今から?」

「はい」


 私は鍋の底へ木べらを入れながら答えた。


「ひと瓶、残しておこうと思って」


 自分でも不思議なくらい、声は静かだった。


「誰が帰ってくるんだい」

「わかりません」


 火がついて、鍋の底から小さな音がした。


「でも、帰ってきた人の分は、あった方がいいから」


 ヨナ婆さんは何も言わなかった。

 ただ、少しだけ目を伏せて、戸口の柱に手を添えた。


 夜になるころには、台所じゅうに湯気が満ちた。

 私は新しい瓶を洗って乾かし、熱いスープをそっと流し込んだ。


 蓋をして、紐を結ぶ。

 木札に字を書く。


 今年の冬。帰ってきたら開ける分。


 書き終えてから、少しだけ迷った。

 それでも私は、その下にもうひとつだけ書き足した。


 ――今度は、ちゃんと温かいうちに。


 瓶を抱えて地下へ降りる。

 薄暗い棚のいちばん奥へ、それを置く。


 そこにはもう、十年分の冬はなかった。

 けれど、空っぽでもなかった。


 石段を上がると、台所ではまだ鍋の余熱が残っていた。

 窓の外で雪が静かに降っている。


 私はその前に立ち、湯気の消えた鍋を見つめた。


「……ただいま」


 今さら誰にも届かないような小さな声だった。


 けれどその声は、冷え切った家の中にやわらかく落ちて、少しだけ長く残った。


 外では雪が降り続いていた。

 母が毎年越えてきた冬と同じように、静かで、深くて、容赦のない雪だった。


 それでも私は、もう知っていた。


 温かいものは、なくならない。

 遅すぎるくらい遅れても、ちゃんと辿り着くことがある。


 地下の棚のいちばん奥で、新しいひと瓶が、まだほんのりと温かかった。

読んでくださって、ありがとうございました。


導きの世界の中で、

戦いや大きな出来事の外側にある、

「暮らしのぬくもり」を書きたくて生まれた話でした。


母が残したものと、

娘がようやく受け取れたものが、

少しでも心に残ったなら嬉しいです。


この話は、『外れスキル《導き》を授かった俺、辺境の村を最強にする 〜みんなの可能性が見える力で、今度こそ誰かの役に立てる〜』のスピンオフです。


本編では、この村で生きる人たちの暮らしや積み重ねが、少しずつ未来を変えていく姿を書いています。

もしこの話を気に入っていただけたなら、本編ものぞいていただけたら嬉しいです。

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