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我輩、猫の身空で世界を救う  作者: U輔
セントリーエルの怨絶竜
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第十四章 彼女の望み


 シバが小型魔虫の軍勢の相手をする、その傍らを我輩は走り抜ける。

 魔術学園の中枢部、建造の林立する地域へと入ってしまえば、『塔』へと至るための障害はもう何も無かった。

 竜脈から漏れ出した魔力が、濃い瘴気にも似た感覚で肌を濡らす。魔的耐性の無い人間にとっては毒ともなる、不可視の汚染だ。

 というか耐性ある人間にも結構な毒であるはずだが、

 ……意外となんとも無いな。

 走りながらも思う。悪くすれば入った瞬間に『静まれ我輩の体』となってもおかしくないと思っていたのだが。

『君結構猫の部分濃ゆく出してくるよねたまに』

 猫を悪く言うな。というか勝手に話しかけてくるな。

 ……それはともかく、どういう理屈だ?

 ローランがいちいち話しかけてくるのは億劫だが、有効活用できるものはしておく。ギブアンドテイクだ。違うような気もする。

『その体、竜の血が流れてるからね。ある意味魔性生物みたいなものだ。だから大丈夫なんじゃないか、多分』

 ちょっとアバウトだが、その言葉に思うのは、

 ……随分と猫から離れてしまったな。普通の猫として生きるため、貴様の元から離れたというのに。

『今更だなぁ』

 ともあれ『塔』を目指し、頭上を見上げる。と、

「――!」

 我輩が立つほんの数歩の先位置に、数メートルサイズの瓦礫が落ちてきた。正面に聳える『塔』のこちら、真南側となる路面の上だ。

 強化石材に強化石材が突き立ちの勢いで衝突し、双方が砕けて音を散らし鳴らす。見れば、同じように落下してきたであろう建材が、付近一帯に堆積していた。

 何が、と思い、視線の先を辿れば、

 ……槍の刺さった位置か。

 頭上四百メートルの展望層。塔の主構造となる円柱から、円盤のような張り出しを突き出させた部分だ。

 見れば、そこの天井上から北へ向けて斜め打ちに突き刺さった黒の槍、その石突部分が空に見えている。更には衝撃の大きさ故か、展望層の南壁にも大きな穴が開いているのが見えた。

 ……あそこから崩れてきたのか……。

 更に思うのは、

 ……未だに揺れが続いている?

 遠くからでは解らなかったが、黒の槍が僅かに震えるように動いている。内部で何かが行われているのか、それとも槍が元魔虫であったことによる生命的な揺れなのかは解らない。

 だが、何らかの反応が続いている事は確かだと言えた。それが何かと思えば、

『この魔力の奔流の中では、普通の人間はまだ地下遺跡には入れないだろう。対策として何らかの手段を講じるなら別だが、レティシアもまた例外ではないはずだ。……あるいは』

 ……今講じている所、なのかも知れないな?

 上だ。

 ……。

 我輩は、『塔』の壁を登攀してみることにした。


 

 展望層の南側、その壁を失って出来た大穴は、直径で六メートル程の巨大なものだった。

 そこから『塔』内部へと侵入すれば、そのあけっぴろげな空間にまず見えたものは正面に聳える極太の柱だ。太すぎて壁にしか見えないそれは、どうやら展望層のみならず『塔』の中心を上下に抜く、いわば支柱に近い役割のもののようだ。

 だが、それには今、多大なる破壊の爪痕が深く刻まれていた。

 ……槍。

 頭上から入り、柱を貫通し、それを迂回する形で走るドーナツ状通路の向こう側へと突き抜けて徹している。それは即ち、先程まで我輩が追いかけていた中型魔虫、その変異した姿に他ならない。

 脈動を打ち、未だ震えて生命の鼓動を刻む姿は何か毒々しさすら感じる。見ればその僅かな振動は、時折柱や天井の破片をパラパラと床面に零し、硬質な音を立てていた。

 そしてもう一つ。見えたものは、

「へぇ、来たの」

 金髪を風に揺らす少女の姿。

 レティシアだった。

 



 かつん、と床に音を立て、肩に羽織ったケープから白い首筋だけを露出させた少女は、ドーナツ通路の左側から我輩の方へと歩いてくる。

 通路の横幅は三十メートル強。それが、『塔』を貫く支柱を周る形で走っている構造だ。

 広い。とは思うが、瓦礫や粉塵が積もっていて、視界はあるが空間が然程開けていない。そんな風景だった。

 ……。

 少女、レティシアは、こちらの無言をどう受け取ったか、自らの左、柱の方を向いて口を開いた。

「今ね、下から溢れ出した魔力をこの子に吸わせてる所なの。このままじゃ、私も地下に入れないからね」

 成程。この槍が未だ『生きて』いるのはそれが理由か。だが、

 ……どうやって『蓋』を解いた?

 地下遺跡には、何かしらの魔術や構造が『蓋』として施してあったはずだ。レティシアは、それをこうも簡単に破ってみせた。

「うん? ああ、簡単よ。あれはこの『塔』自体が蓋になっていたの。物理的にではなく、魔術的にね。付与魔術と形質魔術の併せ技? 建材、建築様式、色、形、サイズ。窓や扉、フロアの数。建造年月日やその工事責任者の名前。あるいは当時の世相や年表にすら魔術的な『意味』を捉え、一種の魔術刻印として構築する。膨大な情報量がそのまま術式の強度となる故に厄介ではあったけど……形自体を変える程の『破壊』と内側からの『細工』を施せば、なんてことはなかったわ」

 ……成程。

 この『塔』全ての情報が、形質魔術という『意味』を捕らえる魔術として『蓋』を構築していた、という訳だ。それに物理、魔術的な損壊を与え、術式を破壊した、と。

 ……一朝一夕で出来ることではないな。

「一朝一夕でやった訳じゃないもの。こんなこともあろうかと、ってヤツ? 出番があるとは思ってなかったけど」

 以前から準備はしていたと、そういう訳だ。

『塔』が抱える魔力源、竜脈遺跡という存在は、魔術師であれば誰であれ興味を引かれようというもの。ならばその封印の攻略を妄想するのもまた、誰もが一度は経験していておかしくない。とは言え、

 ……本当にやったヤツは初めてだろうな。

「百年前はどうだったんだっけ?」

 ……我輩が知る訳がなかろう。

『アレは大変だったなぁ。内側から純粋に食い破られたからね。というか逆流させて。それに比べればまぁスマートな手段だよ』

 心の中だけに響く声が不意に答えを寄越してくるが無視する。

「なんで今手近にあった石片を砕いたのいきなり」

 ……心の安定のためだ。

 そういうものなのね、と、解っているのかいないのか、レティシアが首肯した。

「ところで」

 ……ん?

「なんで貴女、これだけの濃度の魔力流の中普通に通ってこれたのかしら? 私としては、あれ結構最終防衛ラインのつもりだったんだけど。……魔王か何かなの?」

 ……魔王ではない。まぁなんというか……。

 正直こちらも確定的なことは解っていない。何故か大丈夫だった。解りやすく説明するとなれば、

 ……体質でな。

「魔王か何かなの?」

 魔王ではない。

 金髪の少女は、教える気はないということね、と呟き、呆れ顔で嘆息した。事実を言ったはずなのだが。

「まぁ、いいわ。不可解だけど……とにかく計算違い、ね」

 手を腰に当て、また嘆息する。

「……ねぇ、貴女の目的は、遺跡、つまり竜脈を護る事。……ひいては魔力流出の防止でしょ? だったら、それはもうどうしようもないわ、済んだことだもの。だからこれはこちらの勝ち。私は、私に合う魔核を持つ遺体を見つけ出し、それを持って消えるわ。それなら貴女は、私と戦うリスクを犯す必要もなくなるわよね?」

 手を引けと、そう言っている。だがそういう訳にも行かない。

 ……否だな。

 教えてやる。

 ……今貴様は『蓋』を破壊したと言ったが、これはいわば『一つ目の扉』をぶち破っただけに過ぎない。まだエントランスに備え付けられた扉に手を掛けただけ、その段階だ。無論コンシェルジュは居ないがな。

 つまり、

 ……『蓋』はまだいくつかある。今漏れ出している魔力など、氷山の一角でしかない。メイン区画の魔力量は、こんなものでは済まないぞ? ……そして貴様は、そこへと辿りつくまで、己を諦めたりしないだろう?

「……まるで見てきたような口ぶりなのね」

 ……まぁ、専門でな。

「専門?」

 こちらの話だ。気にするな。

 ……と、いうことで……貴様の目的を果たすには、更なる奥部への進入が不可欠。そしてそうなれば、もはや我輩にも、かの『怨絶竜』にも対処不可能な濃度の魔力があふれ出し、この都市だけではない、いずれ世界をも浸していくことになる。魔獣と魔性植物、方向性の定まらない『変異』を無数に生み出し、それを無限に繰り返していく場所を何と呼ぶか知っているか?

 まぁ気取った言い方ではあるが、

 ……魔界と、そう呼ぶ者もいる。

「魔王なの?」

 魔王ではない。というかその場合貴様が魔王だ。

 ……そうなれば貴様もまた、ただでは済まないぞ。

 レティシアの考えは解る。そしてその目的も。

 だが、そのために払うリスクとして、やはりこれは割りに合わないものだ。それ程までに竜脈が蓄える魔力というものは危険を孕んだものなのだ。

 だが彼女は言う。

「そうかもね。だけど残念」

 目を一度伏せ、そして開き、こちらを見据える。

 そこに宿るものの名は、

 ――諦め。

 厄介だな、と我輩は人知れず嘆息する。

「私、どちらにしろ死ぬもの。関係ないわ」

 ……止まらぬ、か。

 レティシアは、止まらない。覚悟を決めてしまっているし、そこに準ずる全てのデメリットを承服してしまっている。だがその根底にあるものは、

 ……我輩、実の所、な。

「ん?」

 言う。

 ……街を守るとか、魔力の流出を防ぐとか、そんな事にはあまり興味がないのだ。まぁついでにやれるならやっても良いが、本題はそうではない。少し貴様に、言いたい事があってな。ここまで来たのだ。

「……へぇ」

 それはつまり、

 ……貴様、我侭も大概にしろ。



「……」

 レティシアの無言を促しと受け取り、我輩は更に言う。

 ……何が不幸だ。だから他者を貶めてもいい、だ。己だけが不幸だとでも思っているのか? 貴様が行う自分の人生の補填、なんて物はな、ただの横様な無いものねだりだ。罪過ですらない。

「……言ったでしょ? 私は、最初から与えられていなかった。持たずに生まれてきた。その事実に貴賎は無い。故に言いましょうか。『私には生きる権利があるの』、と」

 ……貴様が手にかけた魔術師には、無かったと言うのか?

「あったわ。だからそれを譲ってもらったの。半分、ね」

 ……どうして彼でなくてはならなかった? 彼がこの世で一番幸福な人間だったとでも言うのか?

「それは……」

 無論、そうではなかったはずだ。否、そうだった可能性もまぁ無いではないが、本題はそこではない。

 ……そのボーダーラインを貴様が引くんじゃない。要するにな、全て貴様の我侭なんだよ。酷悪で、歪な、己さえ良しとなればいい悪意に満ちた平等。世界の理を貴様が決めるな。それは……神の仕事だ。

 真の意味での『神』というものがこの世にいるのかは知らないが。

「……でも神様は、何もしてはくれないじゃない。待てど暮らせど、救いなんてものは降りてこなかった。だから私が……」

 ……ならば貴様は不幸ではない。少なくとも、不幸でなくなろうとする努力を得ることが出来たのだから。

 言うと、少女の動きが止まった。

 ――『不幸ではない』、という部分に反応したか……。

 つまりは、免罪符なのだ。彼女は素面で人を害せる程悪人ではなく、だからといって全てを諦めることが出来る程達観してもいない。

 半端者。それを自覚して、だから怖い。

 自分の今までの行いが間違っていたと、そう知ってしまうのがことさら怖い。

 決意は硬く、だがそれは間違いなく間違っていて。それが解っているからこそ、それを解ってしまうのが尚怖い。

「……貴女、うっとうしいわ。屁理屈ばかり。結局、何が言いたいのかしら」

 レティシアが言う。だから我輩は答えてやる。

 ……我輩の目的はな、レティシア・ハート。我侭という名の――醜悪な不条理の、矯正だ。

 対し、彼女が答える。口を開く。

 だがそれには、

「――」

 別の音が伴った。

 こちらから見て右側。少女の直近、『塔』の柱を貫く黒の槍からだ。

 ……?

 それは内側から、くぐもった破断の音を響きと共に随伴させて、

「回りくどい事言ってないで、いっそはっきり言ってみたらどうかしら? ……てめーは気に食わないからぶっとばす、って」

 槍の表面が、柘榴を剥くようにしてめくられた。



 緑の液を体から滴らせ、それは魔虫の槍を内側から食い破って現れた。

 基本は黒の人型。下半身が無く、上半身だけが宙に浮いているようなフォルム。

 鎧めいた甲殻には棘や突起が多量に追加され、そのシルエットはさながら針山が如しだ。

 体高自体は二メートル強。浮いていることを加味してようやく三メートルといった所だ。『鎌持ち』などに比べてもサイズはやや小さいが、下半身が無いこと、両腕が床に着きそうな程に大きく肥大化していることから、全体のサイズ感としてはむしろ大きく屈強に見える。

 ……。

 寸断された腰の位置からは、何か黒い繊維状のものが無数にぶら下がって床を舐めている。とはいえそれ自体に生態的な嫌悪感はなく、何処か植物の蔓めいた乾いた質感を与えてくる。

 そして、特筆すべきものはその翼だ。

 ――否。

 もはやそれは翼ではない。背から生え、上へと突き立つように屹立するそれには、見た限り稼動域が存在していなかった。完全に身をまとう装甲と一体化した、言うなればただの飾りか、さもなくばオブジェのような様相だ。

 槍から零れるように出でたそれを横目に見上げながら、レティシアが言う。

「『完成体』、とでも呼びましょうか。まぁ、止め処なく溢れる竜脈の魔力を吸い続ければ、こういう事にもなるわよね。虫型魔獣として取ることの出来る形態、その……究極系」

 解る?

「父さまの残した研究の、最終段階よ。指示すら要らない完全自立型。硬くて、早くて、強くて……そして何よりも、ああ、何よりも……」

 彼女は恍惚とした笑みを浮かべ、

「……醜いわ。私好みね」

 ……魔王はお前じゃないのか、やはり。

「……ちょっと思ったわ」

 そして。

 激突は、笛を鳴らすような魔虫のいななきから始まった。



 僕は、セントリーエルの街を南から見下ろせる位置に居た。

 南門から少し西にずれた城壁、その屋根上だ。この街が出来たときの名残である城壁は、部分部分残っていたり残っていなかったり、崩れていたり穴が開いていたりする。そしてその中でも最も高い場所こそが、この張り出し櫓の屋根上という訳だ。

 強化石材の足元を確かにしながら意識を聴覚に向ければ、背後、大森林側からは無数の戦闘音が。正面、街中からは、二つの戦闘音が聞こえてくる。

 金刺繍のローブを風に遊ばせつつ音を楽しんでいると、傍らの屋根上に影が降り立った。

 長身の初老。グレーの髪をオールバックに整えた姿は、恭しく傍らに傅き、

「ご無沙汰しております、ローラン」

「……シバか」

 旧友がそこに居た。

「驚いた、四百年振りじゃないか。生きていたとはね」

 彼は頭を垂れたまま言う。

「貴方様から賜った加護が、まだ生きております故。おかげで、こうしてまた役目を仰せつかる日がやってまいりました」

「壮健で何より、だ」

 かつての友。否、従者、か。僕としては友達だと思っているが、向こうがそうでなかったら悲しいから従者としておこう。解決になっていない気もするが。しかし、

「……君が生きていた、という事は……ミルネシア・ハートの件は、もしや君の差し金か?」

 竜の『血族』は人の血に宿る物だ。故に放っておけば断絶してしまう可能性も充分にある。だが彼が生きていたという事であれば、ミルネシアの半蘇生は叶うべくして叶ったものであるのかと、そういう事だろうか。

 だがシバは首を振り、

「否。私はただ、付き従い、彼ら彼女らの思うままに任せていただけ。事ここに至り『彼女ら』の運命が交錯したのは、全くの偶然で御座います。……まあ、それが故、姉の方はこのような事態も招きましたが……」

「それは気にするな。君にも僕にも、そして恐らく『本人にすら』予期出来ぬことだったからね」

「……と、言いますと?」

「まぁ気にするな、という事さ」

 御意に、と、初老の男は傅いたまま更に頭を深くした。

「……」

「ところで、主よ」

「うん?」

 シバが、無言の後に切り出した。彼がこういう風に話しかけてくるのは珍しいことだ。

「猫……であるようですな、お弟子殿は、元々。……何故わざわざ?」

 竜が弟子を取るのは、己の代替者を育てるためだ。それは通常才覚ある者――つまりは多くの場合『血族』――であるが、ミルネシアが死んでしまった時、僕はわざわざどこにでもいる猫を拾ってきて、その魔核を一から構築した。

 それが何故かと言えば、

「……目が、ね」

「目?」

 強いて言うなら、惹かれたのだ。

 生きようとしていた。己を保とうとしていた。何者にも侵されぬという、意思を感じた。

 竜脈を――世界を護る者に必要なものは、正義や使命感とは別のものだ。

 それはいわば、矜持とでも呼べるもの。

 英雄に条件はない。そこに求められるものは時代によって異なるのだから。己を犠牲にするのもいい。他者を顧みないのもいい。だが決定的に一つ、貫くべき矜持だけが必要になる。

 それが、あの子にはあったのだ。

 ――かつての僕達のように。

「この子であれば、と、そう強く思った」

 そしてそれは今、正しく実ろうとしている。

 僕は間違っていなかった。間違っていたが故にあの子は離れていったけど、僕の選択は決して、間違ってはいなかった。

 皮肉なものだと、そう思う。

「……己の子は成されなかったので?」

「……僕は人間は好きだが、昨今の人間の女性はどうも苦手でね。以前、ちょっと試しにと子を産んでくれそうな人間の女性を何人か探してはみたのだが、二人目と三人目に包丁で刺されかけてね。保険を掛けた結果殺されそうになるとか、理不尽な話だと思わないかい?」

「ははは、最悪ですな」

 そうかね? と言って笑うしかない。シバも笑っている。なので僕は悪くない。そのはずだ。

「しかし、大丈夫ですかな、あの子は。貴方が育てたのだから、力はあるのでしょうが……本人、あまり自覚はなさそうですぞ。気負いが無いというか、自分本位と言うか」

 シバの懸念も理解は出来る。だが、

「何、心配はいらないさ。あれは、元々自由気ままな野良猫だっただけあって少々ぽやぽやしているし、人となった今も普遍的な猫のつもりでいるがね」

 と、セントリーエルの町並みから、三度の爆発が風を伴って響いてきた。戦闘が激化しているのだろう。

 僕は、その風圧に金の長髪を遊ばせる。靡かせ、それを手で押さえつつ、

「既にあれの心は、人界のものじゃあない。竜だ。僕が保証するよ」



 完成体魔虫が、身を動かした。

 レティシアの傍らにて、体を前傾へとシフト。突貫の前兆を見せる。

 ――まずは様子見。

 我輩は右腕の腕輪に意識を落とし、その中にある魂に呼び声を送る。同時に魔力を魔素へと変じ、果たすべきステップを一気に連ねていく。

 様子見として選んだ体躯は二メートルの虎型、『夜寄せの主』だ。もはや時刻は朝を余裕で過ぎてしまっているが、膂力と速度を併せ持ち瞬時の再生成が容易なこれは『とりあえず生』のようなテンションで瞬時に行使が可能だ。

 行け、という一言を全ての代わりに念じ、我輩正面の空間を砲身と定めて射出する。

 しなかった。

 ……は?

 魔虫の背で魔力が爆ぜて、こちらの体を食いに来た。



 魔力で以て身を浮かせる『完成体』に、躊躇は一切無かった。

 攻撃は、右の腕を目いっぱい振りかぶって行われる破壊の一矢。引き絞る弓が魔力の推進力と融合して、音をすら置き去る必殺の拳撃になる。

 我輩に当たろうとして、だが、

 ……!

 魔力の叩き込みが間に合い、結果として回避はギリギリのタイミングになった。

 上へと跳んで逃れる。

 魔虫の拳が空を切った。絶対必殺の勢いを持ったそれは慣性を消しきれず、上空へ逃れた我輩をその場に置き去りにして数メートルを滑走した。

 拳の衝撃が南に開いた壁穴の方角へと爆裂し、大気を張った音が鋭く響く。

 ……速……!

 全ては瞬間の中での出来事だった。彼我の距離は容易に消し飛び、後に満ちるのは魔虫の残心だけだ。

 直撃を受ければ無論ただではすまない。が、そうでなくとも強すぎる勢いと風は、

 ……っ!

 衝撃となり、我輩の身を打圧した。

 まるで拳そのものが巨大な圧として存在しているかのように、空間を洗う。高く跳躍した我輩が巻き込まれたのはそのほんの一端であるはずだが、この華奢な体を十メートル上の天井まで吹き飛ばすには充分な威力を持っていたようで、

 ……っ、あ!

 体を天井へ打ち付けられた我輩の唇から、苦悶の音が漏れた。肺が圧迫され、肋骨が軋みを上げ、体の中の根幹が悲鳴を抗議した。口の中の苦さは懐かしきバッタの体液に似ているが、恐らくは喀血だろう。

 ……ぁ。

 一瞬の視界のブラックアウトは、体が休息を求めている証。しかしそれに身を委ねるわけにはいかない。

 敵はまだそこに居るのだ。故に、

 ……!

 意識が瞼を縫いつけようとするところ、無理やりに魔力を流して筋肉を稼動する。口端に滴る血を舐め取りつつ、我輩は天井から剥がれるようにして床へと着地した。

 体の各部が軋みをあげているが、高所からの着地は猫としての真骨頂だ。故に何も問題は背中痛っ。

 そうして呼気を整え、そこでようやく視界に入ったものは、

 ……どこを見ている?

 こちらを見失い、きょろきょろと辺りを見回す魔虫の背中だった。



 それは言うなれば、遊んでいたおもちゃを取り上げられた犬にも似た有様だった。

 どうやら魔獣として誕生したばかり故に判断力が薄いらしく、目標を見失ったようだ。やはり飼うなら猫にすべきだろう。手間がかからない(ヤツもいる)し、トイレの場所だって覚えてやらない事もない。煮干が必要だが。三パックだ。

 そして思うのは、この魔虫の挙動もだが、

 ……何故再生魔術が発動しなかった?

 意思はあった。手段もあった。魔力も残っているし体はまぁ現状あまり元気ではないがさっきは元気だった。

 ならば問題は無いはずだ。だったら何が、という思いは、

 ――ローラン……!



『僕は知恵袋系の何かかい?』

 現状そうかも知れん。ともあれ、

 ――どういう事だ、これは……!

 身体強化で痛みは薄れても感覚は焦りを帯びる。現状の最大戦力である『腕輪』を扱えないなら、この身一つで戦う他なくなるからだ。

『ははは余裕無いね君今。ウケる』

「何故貴女は今傍らにあったさっきより大きめの石片を砕いたのかしらいきなり」

 ……心の安定のためだ。そして勝利のためだ。

 良くわからないけどそういうものなのね、とレティシアが引いた。

『ああうん、解った、解ったよ。まぁ時間も無いだろうから手短に言うけど、……多分、下の魔力流の影響だろう。あの量だからね。何が起こってもおかしくない』

 それは、竜脈から溢れ、今尚都市を覆おうとする魔力の奔流だ。小動物を魔獣に変え、耐性のあるなしに関わらず毒性を示す『魔界化』の予兆。

 通常であれば人の身に害を及ぼす。我輩の体に影響は特に無かったが、

 ――平気ではなかった、ということか……。

『これほぼ自業自得なのでは』

 うるさいが、まぁその通りだとは思う。



 ともあれ、無理やりに肉体を鼓舞して体に魔力を通す。魔虫の想定外なほどに速すぎる挙動に反応するため、視覚と思考に八割、脚力に二割弱。痛みを誤魔化すため、残りのものを循環系に少量回す。泣いてなどいない。心の汗だ。

 そして全てが終われば、

 ……!

 疾走を、己の身に叩き込んだ。

 即ち、攻撃の意思となるものだ。床を蹴り、正面に未だ佇む魔虫の背、その翼の間隙を縫いつける。

 魔力の通った拳が入り、ドラム缶を殴打するような篭った音が空へと散じた。だが、

 ……硬い……!

 思っていたよりも更に硬い。例えるなら商店街にある八百屋の猫好き主人の胸板のようだ。例え下手か。とにかく、思ったよりもずっとずっと硬い。

 拳の渾身を凪と流され、だがそれを、

「――」

 魔虫が衝撃として知覚し、故に判断は即時に行われた。黒の体躯は敵を背後に認めると、

「!」

 その方向に陽炎を揺らす。その意味する所は、

 ――避っ……!

 魔力の放出。先ほど、魔虫が前進のために背後方向へと爆発させたものだ。

 その勢いが今度は攻撃の用途で背中から発射され、二メートルの巨体を瞬発させるだけの勢いが至近から我輩の体を襲う。

 咄嗟にバックステップを入れるが、

 ……周囲の瓦礫が……!

 それはただ押すだけの衝撃ではなく、周囲に落ちていた石、木片、ガラスやタイル片といった全ての構造をも巻き込み、雨としてこちらに寄越して来た。

 多種多様な材料の散弾が、嵐として我輩の身を襲う。咄嗟に両腕で顔と胸を守り、更に身を背後へと飛ばして衝撃を逃がそうとするが、

 ……くぁ……!

 いくつかの打撃が我輩の腕と足、わき腹と側頭部を咀嚼した。当たらなかった散弾が辺りの床面へと穿ちの音を散らし、だがその嵐の中で、

 ……!

 腕の隙間から、魔虫がこちらに振り向いたのが見えた。



 次の一瞬で我輩を食い破らんと飛来したものは、すぐさま振り返ってこちらへと吹き飛んできた魔虫の姿だった。

 瞬発の勢いは魔力による推進を証明する。

 即座の行動。『次』への挙動に暇がない。それは、

 ……溜めすら必要ないのか!

 背後へと打ち付ける魔力砲。移動と攻撃に使うそれは、いかなる生物であっても準備のための『溜め』を必要とするものだ。

 だがこの個体にはそれが無い。その事実に戦慄し、故に、

 ……っ!

 第六勘にも似た感覚に身を任せ、半ば転がるように身を躍らせた。

「!」

 魔虫の腕振りが空を切る。それでもその勢いによって生まれた風という名の暴力は、衝撃となってこちらの体を打ち付けた。

 ……っ。

 今度は『来る』と解っていたので転倒を得ながらも受身を取るが、蓄積するダメージは避けようがない。

 幾度も繰り返されれば、先に根尽きるのは我輩だろう。そしてそのための魔力は、

 ……生成するのではなく、ただ『消費』するのか。即座の放出を可能とするために。

 完成体の魔力爆裂を行使させるものは、その場での『生成』ではなく、『ストックの消費』だということだ。

 竜脈から漏れ出した多大な魔力。その一端を吸い続けた事で進化へと至った、それが故の『固有技能』。

 用途は移動に攻撃にと応用が利き、そしてその残量は吸い込み蓄えた竜脈魔力そのもの。

 蓄えた、というからには限度はあるだろうが、現状、底は見えない。

 持久戦は不利。というか必敗だろう。ならば短期決戦しか無いが、先ほどの渾身の攻撃も特に効いた様子は無かった。

 硬く、速く、強い。

 レティシアの触れ込み通りの性能は、この数瞬の攻防で身を以て実感させられた。

「ふふ、どうしたのどうしたの? さっき下で私の魔虫を退けた再生魔術は使わないのかしら?」

 ……うるさい。今日は定休日だ。

「いや貴女さっきまで使ってたじゃない」

 ……病欠だ。

 間違ってはいない。



 話す間にも魔虫は再び体制を立て直し、我輩の動きを観察するように注視してきていた。対する我輩もまた、その装甲に塗れた姿をつぶさに見据える。

 僅かな動きも、そこから生じる攻撃の予兆も見逃さぬようにと心を置く。

 そこではたと気が付いた。この魔獣、初撃の際にはこちらから攻撃を見舞う隙も生まれたものだが、今においては、

 ――反応速度が増してきている……?

 知性の無い動物のような挙動だったものが、今や洗練されてきている。こちらの動きを見て、そこから策を講じようとする気配すらあるのだ。

 経験の重ねか、学習によるものか。それとも他に何か理由があるのか。

 魔虫は、基本的に己で考える能を持たない。この個体は『自立型』だとの事なのでその枠に収まるかどうか不明だが、少なくとも構造的には、人間に準じるような臓器としての『脳』は持ち得ないはずだ。

 にも関わらずこの個体は、こちらの行動や攻撃に対し、対策を講じるが如くその対応を変えてくる。

 最善を辿るものではなくとも、次善を手繰る程度のクオリティ持つ、知性ある対応。

 学習し、こちらの拳の通らない装甲を持ち、多大な容量を持つ魔力を繰って攻撃と移動を見舞ってくる。これはつまり、

 ……詰んでないか?

 攻撃は効かず防御は不能。不意の一撃が死に直結するような相手だ。

 ……とは言え、だな。

 何もせずやられてやる訳にもいかない。

 故に、やはり打開策が必要だ。攻撃の手も防御の手も足りていない現状は絶望的だが、どうにかする他道は無い。

 我輩は、動きの準備として身を僅かに沈めた。

 魔虫の攻撃とその余波を完全にいなすためには、それを全て乗り越えるような大きな回避が必要だ。故に、足に送る魔力は多く見積もって三割強。残った全てを感覚系に回す。

 頭も魔力も、そして心も、まだまだ回転数は落ちていない。

 行けると思った。だからそのための準備をし、やがて、

 ――。

 来た。



 爆発が生じ、それを避け、完成体の背後に回り、肘裏や装甲の隙間を狙って拳打と蹴打を積み重ねる。

 揺れもなく、こちらの攻撃をことごとく凪といなされるのは心を砕かれる光景だが、そこに意味が無いとは思わない。

 威力は、蓄積するものだ。ダメージも累積していくものだ。故にいずれは抜ける。しかしそれは我輩にしても同じことで、

 ……まいったな。現状、打開策が何も無いではないか。

 あの装甲を抜くには、百パーセントの魔力を攻撃に回してなお足りない。そして移動と捕捉にリソースを割いているそれをほんの少しでも緩めたならば、一秒後の我輩がどうなっているかの保証が出来ない。

 ……再生魔術が使えれば、いくらでもやりようはあるが……。

 詰んでいる。

 そしてそれは、レティシアにとって望み通りの展開だ。何故なら、

 ……集まって来ている、な……。



 我輩の視界の端に、先ほどからそれが映り込んできていた。

『塔』の内側に居たレティシアが、いつの間にか南に開いた大穴の前に立っている。そしてその背後に見えるのは、

 ……小型魔虫の群れ……!

『鎌持ち』と『中型』は確認出来ない。三十センチ程のサイズの、しかしその分機動力と数的優位に優れた小型魔虫が、夥しい程の群れを形成して、セントリーエルの空を背景に浮いている。

 ……戦わせるためではない。ならば……。

 おそらく、役割はこの黒の槍となった『中型』と同じようなものだろう。

 つまり、地下から沸いてきた魔力流を吸うための吸収機構だ。地下遺跡内部へと道をつけるために用意していたものを、今ここに集結させつつあるという事だ。

 レティシアは、小型魔虫が充分な数集まりきったならば、今度こそ『蓋』を完全に破壊し、内部の魔力を外に逃がすだろう。ある程度薄まったら、残ったものを魔虫に食わせて更に薄める。

 そして術式で防備出来る程度の濃度にまでなったならば、内部に入り、己の目的を叶える。

 そのための準備に必要な時間を、我輩はまんまと稼がれているのだ。だが、

 ……あまり長引かせると、後悔するぞ……!



 感覚があるのだ。歯車がかみ合いつつあるような、体と魂があげる歓喜の声の感覚が。

 ずっと、違和感があった。ここまで、動物として備わった強化魔術と、ローランの下で磨いた再生魔術で以て戦ってきた。だが我輩の――人として生まれ変わったこの体の本領は、そんな事ではない。

 もっと次元の高いもの。それが生まれつつある感覚だ。

 ――恐らく、これこそが……。

 この体が『竜』の血を継いでいる、その証明と言う事だろう。

 ミルネシアは、魔術師として育ちきる前に死んでしまった。

 故に今代の『血族』はその力を完成しない。代わりとなる我輩もまた、体が完成する前にローランのもとを逃げ出してしまったのだから。

 だが、その二つが今、奇跡とも言える経緯を経て合一を果たしていた。

 これは如何なる偶然か。あるいは、

 ――運命。

 シバの言葉が、我輩の脳裏に過ぎる。

 その結果として、何が生まれるのか。何が起こるのか。それを我輩は知らない。

 ただ、解る。竜の弟子としてローランに師事した我輩の魂が、この体と完全に定着しつつあるのだ。おそらくはここ最近連続して行われた肉体への魔力通しと、すぐ近くに怨絶竜の魂を感覚したことが更に拍車を掛けた。

 ……。

 間に合うかどうかは、よく解らない。

 何はともあれこの完成体魔虫に我輩がやられてしまえば全てそれまで。ならばとりあえずの目標は何も変わらず、やるべきことは依然、このやたら硬い虫に一撃をくれてやることだ。

 つまりは、

 ……正念場というヤツだな……!



 ……!

 もはや幾度目かすら解らない打ち抜きと拒絶を交わし、次を見定めようと振り返る我輩の目に映ったのは、これまでと違う流れだった。

 完成体の挙動は、速くはあったが単調であった。つまり、我輩を捕捉し・こちらを向き・背後に魔力爆裂を起こし・拳を振るう。この四挙動一セットの流れは不変たるものであったのだ。

 だが、ここに来てその動きに変化が生じた。

 策が講じられたのだ。

 ……これは。

 爆裂を背に生んだ。攻撃を見舞ってきた。しかしこちらはそれを避け、浮いた慣性は足運びで殺しきった。

 逃げられた我輩を捕捉するため左から振り返りつつ、目線をこちらへと向けて来た。

 ここまでは同じ。慣れた動作。だが、

 ……!

 魔虫が、振り返る動きの中で背後に爆発を生んだ。完全に身をこちらへと向け切っていないにも関わらず。

 移動のための放出を、あらぬ方向へと照射したのだ。



 ……何を!

 左に振り返りつつの爆発はその背後、我輩から見て右側へ志向性を持って放出される。

 明後日の方向への噴射は、移動力を正しく反対方向へと伝える。つまり、我輩から見て左側へとだ。

 無論、そちらの方向に我輩は居ない。にも関わらずそれを行使するのには何か理由があるはずかとも思ったが、

 ……迷っている暇はない!

 その瞬発がミスであろうとなかろうと、多大な質量が動けば、そこには抗えぬ慣性がセットで付随する。

 今までは攻撃を避けることに精一杯で、その隙を穿つことが出来なかったが、

 ……値千金!

 千載一遇の勝機。これを逃す手はない。

 そう思い我輩は一歩、足に込めた魔力を、魔虫の進行方向へと踏み込んだ。

 全ての力と魔力をそこに叩き込む用意が、我輩の体に渦を巻く。

 左前へと突貫する。効くかどうかは打ち込んでみてから考える。だが、

 ……!

 ギラリと。

 猫としての本能が。

 竜の弟子としての経験が。

 魔虫の、こちらから確認出来る二つの目に、殺意の光を感じ取った。



 ……ダメだ!

 感覚には従うべきだ。野生においてのその大事さを身を以て知っていた我輩は、踏み込みを思いとどまった。

 ……っ!

 だが、それだけだ。突貫に使う予定だった踏み足は、それを中止することは出来ても『回避』という間逆の動きに変換することは叶わない。

 体が軋む。

 動きが止まる。

 と、

 ……!

 魔虫の魔力放出が、移動を生んだ。



 魔虫の背後から生じた右への爆裂は、当然、左へとその体を押し飛ばす。

 だがその直前、

 ……右腕の振りで、左への振り返りを加速して……!

 右拳を振り切る、攻撃のための見慣れた動き。

 そして爆発による推進。

 それら二つが複合して生み出すのは、身を左へと振り抜きながら行われる、弧を描いた爆裂移動だ。

 ……背後へと向ける推進爆発を、無理やり右へと傾けて……!

 魔虫の体が、その全てを使い、今までに無かった曲線的な移動法を生み出した。 

 我輩から見て左正面へと炸裂するはずだったその巨体が、手前側へと折れて三日月を描く。

 それは、奇しくも我輩が魔虫を追いたてようとして踏み込んだ、その正面から襲来する形になった。

 回避運動が間に合わない。



 ……く!

 我輩は、筋肉と魔力循環の全てを使い、生まれつつあった慣性に抗いを掛けた。

 前方へと向かう形に最適化されていた強化術式と関節の連動が悲鳴を上げるが、構わない。

 拳と腰の振りを最大限に使い、体の制御に全神経を傾ける。

 目標とした方向は左だ。魔虫の三日月軌道の外側へと、身を跳ね飛ばすように、あるいは倒れこむように回避を掛ける。

 ……行け……!

 行く。

 果たして、鋼に似たもので出来た暴風は、我輩の右側すれすれを轟の音付きで通り抜けようとする。衝撃と言う波の一撃をモロに受ける形になるが直撃を食らうよりはマシと、そう思い、だが、

 ――。

 次の瞬間だった。

 魔虫。振りぬき、我輩の後方へと通り抜けるはずであった、その右腕。

 軋みが上がった。

 無茶な挙動と魔力推進により無理が生じた結果かと思ったが、違う。それは、確かに存在する『意思』と規則性を以て響いてきたのだ。

 不気味。不穏。死の予兆。それらをセットにしたものがただただ我輩の体から汗を引かせ、冷たい予感が背筋を抜ける。

 そして、

 ……!

 まるで、卵の殻を破るようにしてそれがやってきた。

 魔虫の肘関節。もはや針山もかくやというように鋭角と突起を乱雑させる装甲に、今、リアルタイムで新たな刺突が追加された。

 それは、全体から見れば小さな棘であった。肩や頭部、下腕から生えたそれの方が、まだ立派な形状をしている。

 だが。

 突如として生まれ生えたそれが。

 我輩の体を、斬撃に似た威力で以て引っ掛けるのは、当然の帰結であった。


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