iv.
祭壇の生贄の気分で、高野は教壇の上に立った。自分でも驚いたのは、こんなときだというのに、自動的に生徒たちに朝の挨拶をしながら教室に入り、にこやかな笑顔まで見せているということだった。そして教室中を見まわす。ごく自然な動作だ。日頃の習慣というのは怖ろしい。
このクラスは今日は全員出席だ。三十一人中三十人は普通の子供。かわいい生徒たちだ。残りの一人が問題の気配の主。誰だ。高野は黒板に自分の名前を書いて自己紹介をしながら、生徒たちを眺めていった。端から見たら、とても動揺しているようには見えないだろう。いざとなるとこんな芸当もできるのか、と自分に感心する。この隙にもたぶん、自分を狙っているはずなのだ。どれだ。
高野の目が、窓側から二列めの一番後ろの席に吸い寄せられた。座っているのは少年だった。
──あいつだ。
慌てて視線を逸らした。間違いなかった。父のいったとおりだ。いれば、わかる。冷たい汗が脇を伝った。
動揺を押し隠しながら、教卓に置かれた座席表に目を落とす。年度初めで、生徒たちはまだ名簿順に席についていた。少年の場所には、『広沢慧』という名のゴム印が押されていた。
その名前には見覚えがあった。別のことでチェック済みだ。二年時の試験成績が学年トップだった。一年のときもだ。教師たちが高野に、三年二組の生徒がいかに優秀かを説明したときにも、その名が挙がっていた。
広沢慧。お墨付きの秀才が術者というわけか。
高野は少年を窺った。彼はこちらを見ようとはせず、窓の方に目を向けていた。表情がほとんどなく、何を考えているかわからない顔だ。面立ちが整っているせいもあり、周囲の少年たちよりずっと大人びて見えた。
出席をとるために、順に生徒たちの名前を呼んでいく。少年はどう応じるのだろう。声が震えそうになるのを抑えながら、彼の名前を呼んだ。
返事はまったく普通だった。呼ばれたときだけ顔を前に向けた少年は、切れ長の目をちらっと高野に向けさえしたが、すぐに視線を逸らした。それきり、また外を見ている。おまえは魔物だね、などという敵意や攻撃的な要素は一切感じられなかった。どちらかといえば無視に近い。それも、単なる反抗期の少年的な無視だ。
高野は拍子抜けした。あまりに拍子抜けし過ぎて、今日これからやることを忘れて、そのまま生徒たちを帰しそうになったくらいだった。いけない、落ち着け。きょとんとする生徒たちを適当に誤魔化し、テスト用紙を配り始めた。春休みの勉強の成果を確かめるための実力テストである。
新学期早々、試験とは酷な話だ。中学校はいつからこんなに厳しくなったんだろう。高野が子供の頃はもっとのんびりしていた。開始の合図をしつつ、生徒たちを気の毒に思った。彼らの方は、面倒くさいという顔はしても抗議する様子はない。反射的に試験に取り組み出した。こんなものだ、と思っているのだろう。比較の対象がないと、『当たり前』に見えてしまうことは多い。そして文句もいわずにこなす羽目になる。大抵の人間が陥るパターンだ。
反抗期の術者でも、それは同様らしかった。さすがに外を見るのをやめた広沢慧は、頬杖をついてテスト用紙を眺めていた。高野は、その姿をちらちらと見る。無反応に近い彼の態度に、密かに首を傾げた。彼が術者なのは間違いなかった。これでも一応魔物の血をひいているのだ。ちゃんとわかる。ならばなぜ──と考え、一つの可能性に思い至った。
もしや彼は、自分に気づいていないのか。
そうか、と高野は思った。ずっと、自分が気づいたからには当然向こうも気づくものと思い込んでいたが、そうとは限らないのかもしれない。考えてみれば、術者とはいえ相手は十四、五才の子供だ。力はそんなに強くないのだろう。経験不足ということもある。何せ、自分の方が倍近く生きているのだ。その分の知恵と技術がある(はずだ)。




