iii.
高野はこのまま失踪してしまいたい衝動に駆られた。
始業式では新しく着任した教師を生徒たちに紹介する。前に出なければならない。まさかそこでいきなり殺されるなんてこともないだろうが、緊張は抑えきれなかった。何とか平静を装って、他の教師たちとともに職員室を出て、体育館へ向かった。
「先生が紹介されたら、女生徒たちが騒ぎますよ。最近若い男性教師がいなかったから」
高野の気も知らず、木村がのんきに話しかけてくる。
「いやはや、羨ましいですな」
騒ぐと決まってもいないのによしてくれ、と高野は思った。それが困るんだ。おれは目立たず静かに暮らしたいんだよ、おっさん。
毒つきたくなるのを堪えた。挙動不審になってはいけない。おっさん、でなくて、木村先生には何の責任もないのだ。再び曖昧な笑みを木村に返し、体育館に入った。
生徒たちは整列済みだった。喋っているものはなく、静かだ。行儀のよい連中である。高野は少し感心しながら中を見渡した。
術者の気配は──わからなかった。あるにはある。校内の他のところと同じだ。特に濃いということはない。この中にはいないのか。
高野は、校長が延々と話をしている間に、それとなく生徒たちを探った。目は特殊能力的によい。ごちゃごちゃ重なる生徒たちを素早く個別に眺めていった。位置の関係で、二年生しか確認できなかった。見つからない。では三年生か。今度は三分の一の確率。
新任者の紹介で前に出たとき、三年生の方は意識しないでおいた。気づいてしまったら、仰天して収拾がつかないと思ったからだ。
高野が紹介されると、軽いさざ波めいた騒めきが生徒たちの間を走った。内心ぞっとしたが、幸い術者とは関係なかったらしい。女生徒たちが発したもののようだった。これが木村のいった『騒ぎ』か、と思う。地味な騒ぎである。助かった。
いきなり殺されたりもせず、始業式は無事終了した。次は教室で生徒たちとご対面だ。気が重い。自分のクラスにいるか、いないか。三分の一。
しかし、いつまでも対象が不明というのも気味が悪い。いっそ誰なのかはっきりした方が楽な気もした。たとえ教室の中に術者がいたとしても、入った途端いきなり、ということはあるまい。大勢の前で手を下すのは、術者にとっても危険な行為だ。目立ちすぎる。むしろ教室は安全かもしれない。
よし。万が一いたとしても、まずは平常心だ。高野は自分にいい聞かせ、教室の入口の前に立った。
教室の中は賑やかだった。知った仲の連中が馴れ合いで騒ぐような、日常的な様子が窺える。クラス替えがなく持ち上がりなので、昨年度と同じクラスメイトだ。新学期という感覚も薄いのだろう。唯一の新参者は自分だけ。それを待つ軽い興奮はあるらしかった。
高野は引き戸に手をかける。戸を開けた──正確には、開けようとした。意識より先に身体が反応していた。手がとまったのだ。高野は息を詰めた。引き戸の向こうを窺った。気配が、これまでにないほど濃かった。
中にいる──。
間違いない。術者が、この教室の中にいる。
思わず引き戸から手を離した高野は、そのまま暫し立ち竦んでいた。落ち着け、考えろ。思ったものの、考えは何も浮かばなかった。どうしてみようもない。逃げ帰るわけにもいかないのだ。中に入るほかない。覚悟を決めるしかなかった。しっかりしろ。平常心だとさっき思ったばかりではないか。
高野は再び引き戸に触れた。平常心というより諦めに近い気持ちだった。考えてみれば、自分は気楽な独りものだ。今ここで死んだとて困るものもない。どうせ地味な生活を送ることが目的の人生なのだ。何にそれほど執着するというのか。もう、どうにでもなれ、だ。高野は戸を開けて、中に入った。




