iii.
「いったい何があったんだ」
「呼ばれたのかもしれませんね」
立ち上がった慧がいう。彼はまた部屋の隅を見ていた。高野も目をやる。先ほどの暗がりが、一層深くなっているように思えた。
「呼ばれたって」
「あれに、です」
慧は暗がりを目で指していう。
「何かショックを受ける出来事があったとしても、腕を切るのにわざわざここまで来る必要はないでしょう。彼女の心の闇が竜の妖気と呼応したんだ。彼女は封印を解くきっかけを作っただけじゃなく、封印を破る鍵そのものになっていたのかもしれない」
封印を破る鍵。つまりは──。
隅の暗がりから、ぞっとする魔の気配が吹きつけ、高野は身を竦ませた。闇よりも濃い黒さとなったそれは、ゆっくりと大きくなって、何かの形をとろうとしていた。全身に鳥肌が立つのを感じながら、高野はいった。
「あれが、井戸の中にいたものか」
慧が頷く。
「出てきたのか」
「早川の血で封印が破れたんだ」慧がいう。「やはり竜でしたね」
部屋の重苦しい気配が一気に増した。素早く動いた慧が部屋の中央に光るものを放つ。音楽室全体が何かに包まれたのを高野は感じた。
「何だ、今の。結界か」
「ええ。すみませんが、あれと一緒に閉じ込めさせてもらいました。このままだと、妖気が外に漏れて、また闇を引き寄せかねない」
慧が目で示すそれは、確かに竜の姿となって音楽室の三分の一を覆っていた。部屋の重苦しさが更に増す。竜の瞼が開かれ、金色の瞳が輝いた。
覚醒したのだ。高野は寒気に襲われながら、知らず知らず後退っていた。
「後で隙を見て戸を開けますから、早川を連れて出てください」
竜に視線を注いだまま、慧がいう。
「出てくださいって、おまえはどうするんだ」
「あれを片付けます」
「どうする気だ。井戸に戻すのか」
「それは無理です。死んだ兎は魔物への捧げ物だ。そんなものが投げ込まれた井戸では、封じても幾らも持たない。戻す場所はありません」
「封印は難しいって、そういうことだったのか」
「ええ。だから、どのみち一旦覚醒させるつもりだった」
「お、起こして、どうする気だったんだ」
「殺します」
「え──」
「仕方ありませんよ。封印できないんですから」
「待てよ、おまえ」
「それしか方法はないんです」
「やめろ。殺すんじゃない」
感情のない声で話す慧を、高野は強い口調で制した。
トイレで吐いていた慧の姿が、高野の脳裏に甦っていた。屍骸となって横たわる魔物たち。飛び散った彼らの血。生臭く立ち込めるにおい。
もう慧に魔物を殺させたくない、と高野は強く思った。人に害のある異界のものどもとはいえ、他者を葬り続けることが少年の心を傷つけないはずはない。駄目だ。絶対に駄目だ。
「戻る場所はある。闇の世界だ」
高野はいった。
「そこが元々のやつの住処なんだ。殺さずにそこへ返せ。前にいったろ。弱らせて退散させればそれでいい。相手を見極めて、おまえが力を調整すれば、充分可能だ」
「手段を選んでいる場合ですか」
慧は苛立った目を高野に向けた。
「小者ならまだしも、あんな竜を相手に無茶いわないでください。このままあれが外に出て、嵐でも起こしたらどうします。大雨を降らせて、洪水にでもなったら。この街は大きな川に挟まれてるんだ。それが氾濫したら大変なことになる」
力を制御し切れず封印された竜なのだ。どんなことを引き起こすかはわからない。それは確かにそうだ。しかし──。
しかし、ここは譲れない。譲ってはいけないんだ。
「殺せば、また血のにおいから逃れられなくなるぞ。しかもあれは、人間の都合で呼ばれた上に閉じ込められたものかもしれないんだろ」
「それは、ただの推測です」
「そうだとしてもだ。おまえだってわかってるんだろう。そんなものを手にかければ、おまえは一層苦しむことになる。大丈夫だ。あれは長いこと眠っていたせいで、かなり弱ってる。しかも目覚めたばかりだ。きっと思うようには動けない。やれるよ。殺すな」
一瞬、忌々しげに高野を見た後、慧は視線を逸らした。俯き加減の横顔に迷いの色が浮かぶ。空気の重苦しさは更に増し、彼は顔を上げた。




