ii.
音楽室に近づくと、重苦しい空気は一層はっきりと感じられた。二人は引き戸の前で立ちどまった。嵌っているのはすりガラスだ。室内の様子は知れない。夕陽が射し込んでいることだけがわかる。
中から漂う微かなにおいに高野ははっとした。重苦しい異様な空気に歪められるように紛れて、今まで気づかなかった。これは血のにおいだ。高野は眉を顰めて慧を見た。
「中に誰かいるかもしれない」
小声でいった。
「怪我をしているかもしれないぞ。人の血のにおいがする」
黙ったまま、慧が引き戸に手をかける。静かに戸を開いた。
凄惨な光景が目の前にあった。高野は驚きの声をあげそうになる。
「早川」
隣で慧が呟いた。
早川麻美が、部屋の中に立っていた。
重苦しく不吉な気配。妖気そのもののような──その圧迫感に高野はたじろいだ。これは彼女が発しているものなのか。
そうであっても、おかしくはなかった。麻美は右手にカッターナイフを握っていた。左手首からは血が流れている。かなりの出血だ。床に小さな血溜まりができていた。彼女は右手を挙げ、充分すぎるほど傷ついた自分の腕を更に切りつける。二人が入ってきたことには気づいていないようだった。
「早川」
高野は動揺を抑え、できるだけ穏やかな声で彼女に呼びかけた。彼女は手をとめ、ゆっくり高野の方を見た。虚ろな目だ。
「どうしたんだ。何があった」
高野はいう。数歩近づいた。
隣にいたはずの慧がいつの間にかいない。気配なく移動して、麻美の右斜め後ろにまわり込んでいた。
高野は、もう一度麻美を呼んだ。また少し前に出る。
「来ないで!」
彼女が叫んだ。カッターナイフを突き出し、高野に向ける。
「もういいの、私。もう、どうにもならないんだから」
麻美は再び右手をあげた。その手首を、音もなく彼女に近づいた慧が素早く掴んだ。軽く捻る。麻美の小さな叫び声とともに、カッターは床に落ちた。すかさず慧が蹴る。
足元に滑ってきたカッターナイフを高野は拾った。血のついた刃を仕舞う。ほとんど反射的な動作だ。頭では何も考えていなかった。
「離して!」
麻美が悲鳴に近い声をあげた。慧は彼女の手首を掴んだままだ。ちらっと部屋の隅に目をやる。
つられて高野もそちらを見た。一角がひどく暗いように思えた。何だ、と目を凝らす。気を取られる間もなく、麻美の狂気に近い声を聞いた。
「離してったら。何で邪魔するの」
慧の手を振りほどこうと暴れている。
「もうどうでもいいんだから。私、もう、行くところなんてないんだから!」
右手が使えないため、傷ついた左手で慧に掴みかかろうとする。血が飛び散らんばかりの勢いだ。鉄くさいにおいが辺り一面に広がっていた。
「落ち着け、早川」
慧は淡々と、それでも幾らかは宥めるようにいう。
「そんな傷で暴れるんじゃない」
「嫌! 離して!」
麻美の耳には届かないらしい。どうとめたものかと思いあぐね、高野は身体が動かなかった。
慧が軽く息をついた。仕方ない、という顔になる。すっと彼女の額の前に手を翳して、小声で何かいった。途端に麻美は静かになった。崩れるように倒れかかる。慧がその身体を抱きとめた。
高野は呆然とした。慌ててそばへ行く。
「おまえ、何したんだ」
「大丈夫ですよ。ちょっと眠っただけです。問題ありません」
「問題ないって」
高野は、慧の腕の中でぐったりとなった麻美を見下ろした。
「これって、気絶してるっていうんじゃないのか」
「心配ないです。それより、ここでこれ以上騒がれる方が困る」
慧は彼女を床に寝かせ、セーラー服の胸元からチーフを取った。
「お、おまえ。また、何してるんだ」
「止血するんですよ。いちいち驚かないでください。またって何です」
下を向いたまま慧がいう。冷静を通り越し、冷淡ともいえる態度に、高野は開いた口が塞がらなくなった。慧は傷にチーフを捲いていく。落ち着き払った彼を見ているうちに、高野もやっと少し頭が働くようになってきた。
「肘のところも押さえた方がいいな」
ネクタイを外して慧に渡す。足が微かに震えていることに気づいた。
リストカットの現場を見たのは初めてだった。これまで見たことのある傷跡から想像した以上の凄まじさだ。こんなことが、中学三年生でしかない少女の現実なのか。高野は信じられぬ思いで、チーフに血が滲む麻美の腕をみつめた。




