↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/60

ii.

 音楽室に近づくと、重苦しい空気は一層はっきりと感じられた。二人は引き戸の前で立ちどまった。嵌っているのはすりガラスだ。室内の様子は知れない。夕陽が射し込んでいることだけがわかる。

 中から漂う微かなにおいに高野ははっとした。重苦しい異様な空気に歪められるように紛れて、今まで気づかなかった。これは血のにおいだ。高野は眉を顰めて慧を見た。

「中に誰かいるかもしれない」

 小声でいった。

「怪我をしているかもしれないぞ。人の血のにおいがする」

 黙ったまま、慧が引き戸に手をかける。静かに戸を開いた。

 凄惨な光景が目の前にあった。高野は驚きの声をあげそうになる。

「早川」

 隣で慧が呟いた。

 早川麻美が、部屋の中に立っていた。

 重苦しく不吉な気配。妖気そのもののような──その圧迫感に高野はたじろいだ。これは彼女が発しているものなのか。

 そうであっても、おかしくはなかった。麻美は右手にカッターナイフを握っていた。左手首からは血が流れている。かなりの出血だ。床に小さな血溜まりができていた。彼女は右手を挙げ、充分すぎるほど傷ついた自分の腕を更に切りつける。二人が入ってきたことには気づいていないようだった。

「早川」

 高野は動揺を抑え、できるだけ穏やかな声で彼女に呼びかけた。彼女は手をとめ、ゆっくり高野の方を見た。虚ろな目だ。

「どうしたんだ。何があった」

 高野はいう。数歩近づいた。

 隣にいたはずの慧がいつの間にかいない。気配なく移動して、麻美の右斜め後ろにまわり込んでいた。

 高野は、もう一度麻美を呼んだ。また少し前に出る。

「来ないで!」

 彼女が叫んだ。カッターナイフを突き出し、高野に向ける。

「もういいの、私。もう、どうにもならないんだから」

 麻美は再び右手をあげた。その手首を、音もなく彼女に近づいた慧が素早く掴んだ。軽く捻る。麻美の小さな叫び声とともに、カッターは床に落ちた。すかさず慧が蹴る。

 足元に滑ってきたカッターナイフを高野は拾った。血のついた刃を仕舞う。ほとんど反射的な動作だ。頭では何も考えていなかった。

「離して!」

 麻美が悲鳴に近い声をあげた。慧は彼女の手首を掴んだままだ。ちらっと部屋の隅に目をやる。

 つられて高野もそちらを見た。一角がひどく暗いように思えた。何だ、と目を凝らす。気を取られる間もなく、麻美の狂気に近い声を聞いた。

「離してったら。何で邪魔するの」

 慧の手を振りほどこうと暴れている。

「もうどうでもいいんだから。私、もう、行くところなんてないんだから!」

 右手が使えないため、傷ついた左手で慧に掴みかかろうとする。血が飛び散らんばかりの勢いだ。鉄くさいにおいが辺り一面に広がっていた。

「落ち着け、早川」

 慧は淡々と、それでも幾らかは宥めるようにいう。

「そんな傷で暴れるんじゃない」

「嫌! 離して!」

 麻美の耳には届かないらしい。どうとめたものかと思いあぐね、高野は身体が動かなかった。

 慧が軽く息をついた。仕方ない、という顔になる。すっと彼女の額の前に手を翳して、小声で何かいった。途端に麻美は静かになった。崩れるように倒れかかる。慧がその身体を抱きとめた。

 高野は呆然とした。慌ててそばへ行く。

「おまえ、何したんだ」

「大丈夫ですよ。ちょっと眠っただけです。問題ありません」

「問題ないって」

 高野は、慧の腕の中でぐったりとなった麻美を見下ろした。

「これって、気絶してるっていうんじゃないのか」

「心配ないです。それより、ここでこれ以上騒がれる方が困る」

 慧は彼女を床に寝かせ、セーラー服の胸元からチーフを取った。

「お、おまえ。また、何してるんだ」

「止血するんですよ。いちいち驚かないでください。またって何です」

 下を向いたまま慧がいう。冷静を通り越し、冷淡ともいえる態度に、高野は開いた口が塞がらなくなった。慧は傷にチーフを捲いていく。落ち着き払った彼を見ているうちに、高野もやっと少し頭が働くようになってきた。

「肘のところも押さえた方がいいな」

 ネクタイを外して慧に渡す。足が微かに震えていることに気づいた。

 リストカットの現場を見たのは初めてだった。これまで見たことのある傷跡から想像した以上の凄まじさだ。こんなことが、中学三年生でしかない少女の現実なのか。高野は信じられぬ思いで、チーフに血が滲む麻美の腕をみつめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。