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i.

 高野は自分の席で残務整理をしていた。

時刻は午後六時過ぎ。本来なら、落ち着いて事務仕事ができる時間帯である。仕事は捗らなかった。慧のことが気にかかっていた。

 昨日は朝あんなだったくせに、保健室で休んだ方がいいという忠告も聞かず授業に出ていた。今日も相変わらずの顔で、大丈夫か、と訊いているのに、肯定も否定もせず、ちらっと高野を見ただけである。

 無理をいい過ぎたかもしれない。抑えている気持ちは、たとえ頭では理解できたとしても身体は受けつけない。吐くほどに拒否しているのだ。だからこそ抑えて身を守るしかない。嘔吐はおそらく繰り返されている。あのとき──魔物を殺した後も、吐いていたに違いなかった。

 相手を殺さずに済むなら、血のにおいに悩まされることも減るのではないかと思って話したことだが、早急過ぎたろうか。却って慧を追い詰めてしまったのかもしれない。

「そうそう、高野先生」

 斜め向いの席から木村がいう。高野は顔を上げた。

「三組の早川の件、教頭に話したんですけどね。親に会うのは、もう少し様子を見ようということになったんですよ。いきなり教頭に呼ばれたんじゃ、親も驚くろうしね。加藤先生が三週間で出てきたら、彼にやってもらおうということで。もし療休が長引くなら、また考えましょう」

「はあ」

 高野は曖昧に答えた。最短でも三週後か。それでいいのだろうか。遅すぎる気がする。その前に井戸のことが片づくにしても──。

 木村の視線が動いた。広沢、という。高野は振り返った。職員室の入口に慧の姿があった。

「どうしたんだ。まだ残っていたのか」

 木村が問う。

「すみません。高野先生にちょっとお会いしたくて」

 礼儀正しく慧がいった。高野は立ち上がった。

 生徒の下校時刻は疾うに過ぎている。木村は慧と高野を不審げに眺めたものの、即座に『ま、広沢なら大丈夫か』的態度になった。優等生は、こういうとき便利だ。慧が中に入ってこないので、高野は入口まで行った。

「どうしたんだ」

 小声で訊く。慧は目で校舎の奥の方を示した。そのまま歩き出す。高野もついていった。

「おまえ、身体は大丈夫か」

 どうせ答えまい、と思いつつ、訊かずにはいられない高野だ。慧は当然のごとく問いを無視した。完全におかしな趣味の人になってるな、と高野は自嘲したくなった。

「音楽室がおかしいんです」

 慧がいった。職員室から離れ、高野にも今は重苦しい圧迫感が感じられていた。闇の気配とも魔物の妖気ともつかぬ異様な空気だ。

「何だこれ。また、あの井戸が現れたのか」

「わかりません。これから様子を見てきますから」

「見てきますって、わざわざ知らせに来ておいて、一人で行く気か」

「一緒に行くために伝えに来たわけではありません。本当なら、こんな時間に生徒が一人で校内をうろつけないでしょう。何かあったら適当に誤魔化してください。それをいいに来たんです」

「何かって、何だよ」

「さあ、わかりません。行ってみないと」

「わからないのに、どうやって誤魔化すんだ」

「それくらい、自分で考えてください」

 慧は冷たくいう。はあ? と、高野は腹立たしくなった。まったく生意気な口をきくやつだ。

「じゃあ、お願いしますよ」

 慧は憤る高野に背を向け、さっさと歩き出す。高野は慧を追った。

「待てよ。おれも行く」

「やめてください。あなたが来たって危ないだけだ」

「状況がわからないんじゃ、誤魔化しようもないだろうが。危なくなったら、さっさと逃げるから」

 相手を説得する言葉がこれとは、何とも様にならない。自分が行っても役に立たないのは百も承知だ。だが昨日のことを思えば、慧を一人で行かせるなどとてもできなかった。

「来るなといっても、こっそりついてくぞ」

 子供のようなことをいう高野を、振り返った慧が呆れた目で見る。やがて彼は諦めた。

「逃げ遅れないでくださいよ」

 いって、再び歩き始める。高野も後に続いた。

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