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iv.

 せめて父親がまだ職場にいてくれればというのは、虚しい願いだった。とっくに食卓についていた。

 父は歯科医で、開業している。医院は自宅と同じ敷地内に別棟であった。患者が大勢来て、午後八時を過ぎても自宅に戻ってこられない日もしばしばあるというのに、今日に限って暇だったようだ。またよりによって、だ。

 ダイニングキッチンに入っていくと、父も驚いて慧の顔を見た。

「慧。どうしたんだ、その顔」

 眉を顰めて訊ねる。流し台にいた母親も振り返った。おや、という表情だ。

「ちょっと、転んだんです」

「転んだ? おまえが」

 父が康と同じ反応を示したので、状況も忘れて慧は少しおかしくなった。

 父と兄は見た目もよく似ている上、行動の細かなところも似通っていた。性格はそれほど似ていない。兄が父を意識して(もしくは無意識に)似せているところがあるのだろう。

「気をつけなさいよ」

 母親の方は、のんびりした口調でいった。

 慧と奏は、この母親方の血筋だ。顔立ちもそうだし、自分のこの力も、奏のあの能力も、たぶんそうだった。自身(母にも幼い頃、念動力らしきものがあったのだという。父には秘密だ。彼はそういうことは信じない性質なのだ)も含め、他にも祈祷師といった妙な人間が一族にいる母は、父と比べて細かいことに拘らない。

 魔物のことにしても、祥子に任せきりで特に何も聞かなかった。慧も敢えて現状を伝えていない。何も見えない彼女に、いってもどうにもならないだろう。心配させるだけだ。というよりも、心配のしようもないのではと思う。

 奏の能力についても、母は、とにかく慣れなさいよ、としかいわない。代わりに、登園拒否も不登校も責めたりはしなかった。ときに精神的に不安定になっても、普段とまったく態度が変わらない。大らかで子供を信頼しているのか、放任主義なのか、慧にもよくわからなかった。

 父が左手の包帯にも気づいた。

「どんな転び方をしたんだ」

 ますます眉を顰める。

「大丈夫なのか」

 こちらをじっと睨んだ。傷を見せてみろ、とでもいわれるかと冷や冷やする。父の心配は別のところにあった。

「おまえ、いじめに遭っている、なんてことはないんだろうな」

 これはまた、訊きにくいことを随分平然と訊くものだ、と慧は感心した。そうです、と頷いたらどうなるのだろう。

 試してみたい衝動に駆られたが、やりはしなかった。現に違うし、第一これは質問ではない。違うということを確認したいだけだ。

 奏がびっくりした目を父に向けていた。兄がいじめられるなんてありっこない、といいたげだった。だが口は閉じたままでいる。

 父は不登校息子の彼のことを相手にしておらず、奏もそのことは了解済みだ。

「どうなんだ」

 奏に気を取られて返事が遅れた慧に、父が重ねて訊いた。

「いいえ」

 父は安心したように頷く。

「そうだよな。まさか、おまえが」

 康の顔にちらっと不興の色がよぎった。長男の自分よりも、次男の慧に父が強く期待しているのが面白くないのだ。

 これはかなり前からのことで、そういったことを目の当たりにする度、慧はうんざりしていた。慧自身は、父の期待云々にはまるで興味がない。正直、それどころではないのだ。兄のそういった感情は、慧には平和そのものに思え、うんざりするとともに羨ましくもあった。

「今どき、どんなやつだっていじめに遭う可能性はあるさ」

康がいう。

「中学に入れば、上級生にも睨まれるかもしれないし。油断できないぞ」

「慧は大人しいからな。そうしたら、おまえが助けてやりなさい」

「無理だよ」

「情けないな。兄のくせに」

 父に責められ、康は押し黙った。そうやって兄は、いつも自分で自分を追い込むのだ。慧は密かに溜息をつく。元々なかった食欲が、ますます減退した。

 それでも何とか食事を済ませる。奏は半分以上残していた。食卓で感情的な波風が立つと、彼はいつもそうなる。相手に直接触れるほどではないにしろ、人々の苛立ちを強く感じてしまうのだろう。せめて家の中でくらいは、そんな苦労をしないで済めば、と思うのだが。

 今頃になって左手の傷が痛み出してきた。慧は早々に自室に引き上げた。

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